聖徳太子のお墓

聖徳太子
太子町に叡福寺というお寺があり、ここに聖徳太子のお墓があります。直径50メートル、高さ10メートルの円墳で、太子と母君の穴穂部間人皇后、妃の膳郎女の3人の棺が納められています。前後し相次いで亡くなっていますので、伝染病で亡くなったという説があります。
お墓には立派な山門や線香立てがあり、3層の建物もあって、他の天皇陵などとはだいぶ趣が違っています。
江戸時代まで、参拝のために石室内に入れたので、空海などが石室内の図を残しています。先日、NHK・歴史秘話ヒストリアで「聖徳太子の棺(ひつぎ) 伝説のその先へ」という番組をしており、釈迦三尊像の光背に彫られた196文字の銘文が聖徳太子と同時代のものである可能性を伝えていました。銘文によると像の高さを聖徳太子の背の高さにあわせたとあり、175cmぐらいあったようです。古代ではかなりの長身ですね。

枚岡駅の踏切越えがハイライト 枚岡祭り

枚岡祭り
河内一之宮である枚岡神社の秋祭り。毎年、10月14日、15日に行われます。今年はたまたま土日となりましたが、天気はいまいちでした。
東高野街道にある鳥居に集合し、ひたすら生駒山の裾野を上がり枚岡神社境内を目指します。ハイライトは近鉄・枚岡駅の踏切越え。職員が電車の通過タイミングの間隙をぬって23もの太鼓台を通します。枚岡駅周辺は祭り見物で人があふれており、異様な雰囲気に電車の運転士がどうしても徐行運転するため、ダイヤが狂いがち。なんとか連絡を取り合って、太鼓台を通せる時間を作って通しています。毎年のこととはいえ、ご苦労様です。
踏切を超えると一番傾斜がきつい坂が待っています。この坂を登りきると、いよいよ境内で宮入がはじまります。

比定地として間違いがない用明天皇陵

用明天皇陵
先日、山城へ行くついでに太子町へ寄ってきました。太子町は日本の王家の谷とも呼ばれ蘇我に縁がある古墳が集まっているところです。
写真は用明天皇陵。用明天皇は第31代天皇で聖徳太子のお父さんとして有名です。用明天皇自身のお父さんは仏教伝来で有名な欽明天皇。日本史で習いましたね。お母さんは蘇我稲目の娘・堅塩媛です。都は天香具山近くの磐余池辺雙槻宮でした。
用明天皇となり在位2年足らずで崩御してしまい、後継者争いから物部守屋の排仏派と蘇我馬子・聖徳太子の崇仏派が争うことになります。最終決戦は現在の八尾市で行われ、大聖勝軍寺に物部守屋の墓があります。単純に仏教受入だけでなく半島情勢を元にした外交や国家運営に対する考え方の違いも影響していました。
天皇陵といえば前方後円墳が基本でしたが、初めて方墳になったのが用明天皇陵です。また宮内庁が天皇陵を定めていますが、考古学の知識がない江戸時代の比定を元にしているため、とんでもないことになっています。そのなかでも、比定通り用明天皇陵で間違いないだろうという稀有な例になっています。

紀氏神社

紀氏神社
平群を根城にしていたのが紀氏と呼ばれる豪族。
朝鮮半島で軍事・外交に活躍した氏族です。氏神がこの平群坐紀氏神社(へぐりにますきのうじじんじゃ)で、式内社になっています。祖神の平群木菟宿禰(へぐりのずくのすくね)を祀っていました。紀氏は平群氏と同族で、平群氏の嫡流は武烈天皇の時代に滅ぼされてしまいます。日本書紀に平群鮪、武烈天皇との影媛(物部麁鹿火の娘)を巡る恋争いが出てきますが、武烈天皇に命じられた大伴金村によって平群氏は滅ぼされてしまいます。単純な恋争いではなく、政治的にいろいろとあったようです。
滅ぼした大伴金村も任那割譲時に百済から賄賂を受け取ったことで失脚しています。昔、日本史で習いましたが、こっちもそんな単純な話ではなく政治的にいろいろとあったようです。

大阪南港ATC

南港
大阪南港に ATC(アジアトレードセンター)という建物があります。久しぶりに行くと、だいぶお店が変わっていました。またATCは大阪と九州を結ぶサンフラワーの港になっているんですが、でかでかと2017年10月1日より「さんふらわあターミナル(大阪)」という看板が出ていました。
ネーミングライツ(自治体が命名権を企業などに販売)で、株式会社フェリーさんふらわが命名権を取得し、10年間の長期契約を結んだそうです。大阪では他にも大阪ドームは京セラドーム大阪になっています。
今日は「IoT関連技術の開放特許フェア2017」というイベントがあり、併設して相談会があったので、大阪府よろず支援拠点と大阪発明協会がペアで相談対応していました。

長屋王の呪い

長屋王の墓
平群にあるのが長屋王の墓。
墓の主である長屋王は天武天皇の孫で、血統も良く優れた政治的能力をもっていました。力を恐れたのが藤原氏で、長屋王を陥れて殺してしまいます。これが日本史で名高い長屋王の変。ところが政権を握った藤原四兄弟が、次々と天然痘で亡くなってしまい、”長屋王の呪い”と言われました。
時代が下り、平城京のすぐ近く、奈良市二条大路南で奈良そごうの建築に伴う発掘調査が始まりました。貴族の邸宅が見つかり長屋王の邸宅だったことが分かります。夏に氷室から運んだ氷でかき氷を楽しんでいたなど生活が分かる木簡などが発見されます。
反対運動が起きましたが、奈良そごう建設は止まらず後に豪華絢爛な隠し会長室があったことなどが判明します。そごうが倒産した時、皆が言ったのが”長屋王の呪い”だという言葉。1300年前の呪いが今も続いています。
奈良そごうを引き継いだイトーヨーカドー奈良店も9月に閉店となりました。こちらは呪いではなく販売不振でしょう。

片岡と雪丸

雪丸
片岡城のある片岡は古い地名で飛鳥時代には名前が登場します。
日本書紀に片岡山伝説が出てきます。聖徳太子が片岡に行った時に、飢えた人が道に寝ていたので、聖徳太子は食べ物を与え、自分の衣服を脱いでその人を覆い「安らかに寝ていなさい」と語ります。ところが翌日には死んでしまい、聖徳太子は埋葬を命じます。数日後、聖徳太子は埋葬した人は聖(ひじり)に違いないと語り、墓を見に行かせたところ遺体はなく衣服がたたんでありました。周りの人は「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます聖徳太子を畏敬したという、なかなか不思議な話です。
聖徳太子が飼っていたペットまで不思議でして、それが雪丸という犬。王寺町の公式マスコットキャラクターになっています。この雪丸には、人間と話をしたり、お経を唱えたりすることができたという話が残っています。主人も不思議なら飼犬まで不思議ですねえ。
教科書に厩戸王(聖徳太子)と紹介されるようになり話題となった聖徳太子ですが、実在しなかったという説から蘇我馬子の長男である蘇我善徳を聖徳太子とする説まであります。

太陽の道 謎の北緯34度32分

斎宮
■秋分の日 二上山の真ん中に夕日が沈む
2017年は9月23日(土)が秋分の日となります。秋分の日、山の辺の道にある檜原神社境内には毎年、多くの人が集まり西の空を眺めます。真西には卑弥呼の墓という説もsる箸墓古墳があります。さらに真西にある大阪との県境にある二上山の雄岳、雌岳のちょうど真ん中にある竹ノ内峠に夕日が沈む光景を見ることができます。
※春分の日にも見ることができます。
■太陽の道とは
檜原神社は元伊勢と呼ばれ、豊鍬入姫命がここから天照大神を祀るところを探し、最終的に伊勢神宮へ遷座することとなりました。豊鍬入姫命が初代の斎王となりますが、この斎王が暮らしたのが斎宮です。この檜原神社から真東に行ったところにあります。また檜原神社をずっと西に行くと淡路島にいたり、ここにあるのが伊勢の森です。元伊勢の東と西にまっすぐ行ったところに伊勢があります。
この直線が北緯34度32分線で太陽の道と呼ばれ、一直線上に多数の神社や古墳、遺跡が並びます。1980年というと生まれていない人も多いと思いますが、NHKで「知られざる古代―謎の北緯34度32分をゆく」という番組が放映されブームを起こしました。ディレクターは水谷慶一(親戚じゃないです)で、海音寺潮五郎や司馬遼太郎などそうそうたるメンバーが出演していた「日本史探訪」という番組を作ったディレクターです。あの頃から歴史好きだったんだあ。(笑)
■太陽の道を歩く
実際は北緯34度32分に正確に並ぶわけではなく少しずれたりはするんですが、一直線にちかいのは驚嘆ですね。
私も若い頃、太陽の道を踏破してやろうと昔の海岸沿いにあった大鳥神社からスタート。真東へ進み行基の生家だった家原寺から萩原天神を超えて、さらに東へ進みます。ここらあたりから東へ進む道はなくなり、住宅街に迷い込み、さまよいながら、なんとか喜志駅までたどりついてギブアップしたことを覚えています。
近鉄大阪線が太陽の道に近いところを通っていて車窓から楽しめます。おすすめは長谷寺と榛原駅を出て右手に見える天満神社で、この2つとも太陽の道沿いにあります。

軽子坂

鮮魚列車
情報図書館RUKITの入っていた軽子坂MNビルの軽子坂って軽籠(かるこ)に由来しているんですね。飯田濠には神楽河岸があって船から陸揚げしたそうで、 船荷を軽籠に入れて運搬する人が住んでいたことから名付けられたそうです。
揚場町(あげばちょう)という名前も残っていて荷を揚げることからきているそうです。軽籠は縄で編んだモッコのことですが、早朝に近鉄・鶴橋駅に着くと竹で編んだ大きな籠を持った人がドヤドヤと降りていきます。魚などを仕入れに小売商や飲食店で鶴橋駅周辺の卸売市場へ行くのでしょう。
そうそう先日、久しぶりに名張駅で大阪から伊勢方面へ向かう3両編成の鮮魚列車を見ましたが、乗っているのは一人だけでした。全国を走っていた行商列車も今や近鉄だけになってしまいました。ドライバー不足などでトラックから電車へのモーダルシフトが行われていますが行商という形態では難しいですかねえ。

明応地震で壊滅した安濃津

安濃津
津は伊勢平氏発祥の地で平清盛のお父さんである平忠盛が生まれたところです。津から京都へ出て平家の一時代を築きます。津はまた良港としても有名でした。平家物語には、平清盛が安濃津から熊野参詣した話が出てきますが、大きな出世魚の鱸が船に飛び込んできたと書かれています。
安濃津は良港でしたが室町時代に発生した明応地震で壊滅しました。井伊直虎で盛り上がっている浜名湖も淡水だったのが、この時の津波によって湖と海がつながってしまいました。
安濃津は良港で街道が通っていましたので、安濃津を見下ろす山沿いに城が築かれました。それが垂水城、小森城、小森上野城です。小森城、小森上野城は住宅地になってしまい、城山という地名だけが残っています。垂水城は最近まで残っていましたが、マルヤス南が丘店の建設で破壊されてしまいました。
この垂水城攻めで使われたのか、前方後円墳を利用した池ノ谷砦だけが、かろうじて残っています。