コナモン好きの大阪人

お好み焼き
今朝のニュースでコナモンとご飯を一緒に食べる大阪人が多く、メタボの原因になっているという報道されていました。
でも焼きそば定食、お好み焼き定食ってフツウにランチメニューにあって、素直に食べますがなあ。昨日はソバ定食(ソバ+カヤクご飯)を食べたし。
報道によれば大阪府民でコナモンと一緒にご飯を頻度は、男性の約6割、女性の約半数が週1食以上になっているそうです。もちろんBMIの肥満度は高まります。
名古屋飯の代表である味仙が東京に進出したそうですが、あの台湾ラーメンはご飯という箸休めがなければ食べられませんよ!
上には猛者がいて先日、知り合いのタイムライン(Facebook)を見ていたら「お好み焼き+焼きそば+ご飯」の定食が映っていました。さすがにこれはやりすぎです。

日本酒フェスティバル(京都)

日本酒フェスティバル
奥さんのお供で京都へ。
お目当ては京都市役所前で行われた平安日本酒フェスティバル2016です。お酒は1杯300円ですが、6枚つづりのチケットを1500円で買うと1杯、お得になっています。
各店では日本酒と酒のアテを売っています。京都らしくハモのフライもありました。それにしても今日の京都は暑かったですね。冷たい日本酒を飲んでも、すぐ喉が渇きます。

とても古い地名 額田

豊浦
我家の隣が額田(ぬかた)という土地。
とっても古い土地で地名の由来は古代氏族である額田氏に由来します。ここに額田寺(がくでんじ)という寺があり、弘法太子に由来すると書かれています。昭和になって焼けた本堂は天正年間にできたそうで、ちょうど織田信長が足利義昭を追放して、実質的に室町幕府が滅亡した頃です。そのまま残っていたらすごかったでしょうね。
近くには額田墓地がありますが、ここもめちゃくちゃ古く、行基によりに河内国に作られたとされる7箇所の墓地の1つ。河内七墓(かわちななはか)の1つですがつくられたのが奈良時代ですので、ざっと1300年ほど前の話です。河内七墓というのは盆の14日に七墓参りをすると極楽往生できるとの謂れがあります。
額田氏が住んだ地域には額田や豊浦の地名が多いようで、近くには豊浦という地名も残っています。豊浦という地名は由緒正しく、初めて飛鳥に宮ができたのが豊浦宮、そして仲哀天皇と神功皇后が山口県下関に造ったのも豊浦宮です。なにか関係あるんですかねえ。すっかり中小企業の街となった東大阪ですが地名などに古い記憶が残っています。

四国のお遍路へ

sikoku
奥さんのつきそいで四国・お遍路の旅へ。
難波をバスで出発して1番札所から6番札所を巡るコースです。初心者向けなので、ほとんどが初参加というコース。お試し価格になっていて弁当付きで一人2,980円でした。7番札所以降を巡るのは、けっこう大変で、冬は山が閉ざされていて巡礼できない札所もあるそうです。
■絶妙な値付け
いろいろなコースが用意され、こちらは通常料金。おまけに88ケ所用の朱印状を買うことになりますので、どうしてもコンプリートしたくなる気持ちをかきたてる、うまいやり方ですねえ。(笑)デアゴスティーニのようです。
おまけに逆打ちコースがあるようで、こちらは88番札所から逆に1番札所までまわるコースで、しかも一つずつ減らしていかないといけないという過酷なコース。マニア心を刺激しますね。
※順打ちは順番を入れ替えてもいいそうで、これを”乱れ打ち”というそうです。
バスには添乗員と朱印状などの販売会社社員、先達の3名がつきそいます。各札所を巡り本堂と太子堂の2ヶ所で先達に従いながらお勤め(般若心経を唱える)をあげます。この間に社員が皆の朱印状を抱えて朱印状をもらいに行っています。6ケ所を巡る間に、けっこう上達して、参拝の基本も修練してきますから、こりゃもっと回ろうという気を起こさせます。(笑)
ですが各札所近くにはビールは売っていなくって、あったとしてもアイスやジュースばかり。また地元の人が野菜を売っています。帰りのサービスエリアで飲んだビールはおいしかった!!

加賀屋新田会所

加賀屋新田会所
今日は住之江近くでお仕事。
お昼には終わったので加賀屋新田会所跡へ。新田開発といえば鴻池新田が有名ですが、他にもいろいろな新田開発が行われました。
付け替えられた大和川の河口でも新田開発が行われました。大和川の河口ははるか先になってしまいましたが、当時は住之江あたりから海が広がっていました。開発したのは淡路町の両替商だった加賀屋甚兵衛。そういえば大和川の付替えの発起人は中 甚兵衛といい、同じ甚兵衛です。
開発した新田は加賀屋新田と呼ばれ、一帯は今も加賀屋という地名になっています。この加賀屋が開いた会所跡が残っており、茶室や書院などが見学できます。
さあて、暑い中を歩いたし、仕事も終わったのでビールを飲んで帰ってきました。(笑)

生國魂神社の夏祭り

生國魂神社の夏祭り
大阪府よろず支援拠点で窓口相談。
雨が降っていなければ、よろずの窓口相談が終わってから森ノ宮駅まで歩いています。途中、大阪城の石垣や櫓を眺めることができるルートです。
明日は生國魂神社の夏祭りの巡行が行われます。生國魂神社はもともと現在の大阪城の位置にありましたが豊臣秀吉に追い出されてしまいました。旧社殿跡(御旅所)にも夏祭りの巡行が行われるので準備をしていました。

夏越大祓

夏越大祓
今年も上半期が無事に終了。河内一ノ宮である枚岡神社へ夏越大祓に行ってきました。
平日だというのに境内には500人ほどが集まっています。皆さん、熱心ですねえ。人のことは言えませんが。(笑)
お祓いの後、神主の後をついて「水無月の夏越の祓する人は 千年(ちとせ)の命(よはひ)のぶといふなり」と唱えながら茅の輪を3回くぐります。もともとは拾遺和歌集の和歌なんだとか。
茅の輪くぐりが終わると、神主さんが人形代(ひとかたしろ)を燃やします。夏越大祓はもともと701年(大宝元年)の大宝律令で宮中行事として定められていたようで、応仁の乱で廃絶していたのを明治になってから復活させたようです。
最後に「大祓詞」を皆で唱えます。”祓ひたまえ清めたまえ”ということで無事にお祓いも済み、、さあ飲もうっと!

難波京

難波京
大阪府よろず支援拠点の最寄駅が谷四(谷町四丁目)で、駅のすぐ近くにあるのが難波京。
難波京は上町台地の上にあり隣の森ノ宮駅まで歩くと、けっこうな高低差があります。神武天皇の時代、上町台地の周りは海でした。
難波京には前期と後期があって飛鳥時代には乙巳の変の後に飛鳥から大坂へ遷都し、孝徳天皇が難波長柄豊埼宮を造りました。後期は聖武天皇の時代に、恭仁京から難波京へ遷都が行われました。発掘調査が行われ基壇があった場所は復元されています。
難波京のずっと北に大川がありますが、大川は難波の堀江という古代に掘られた運河という説があります。難波京の後、大川を堀代わりにして造られたのが石山本願寺。その後に造られたのが大坂城です。大阪のど真ん中ですが、よく遺構がのこったものです。

今も現役 太閤下水

太閤下水
秀吉が大坂という日本有数の都を造りましたが、人口密集地となりますので都市問題がいろいろと出てきます。
まず水問題です。京都は盆地の下に巨大な水がめがある土地なので湧水も多く、水には困りません。大坂も上町台地は良質な井戸が湧いていましたが、周辺の低地では井戸を掘っても塩気などが強かったので飲み水に適しません。大川の上流で汲んだ水を水売りが売り歩いていました。これで上水はOKですが、問題は下水です。
大坂城を造る時に城下町を都市計画し船場などが生まれます。道路整備とあわせて、町屋から排出される下水を排除するために下水溝が碁盤目状に整備しました。これが太閤下水で、今から400年以上前に造られました。太閤下水から東横堀川や西横堀川に排水され、さらには大川へ放流されていました。この下水、一部が今も現役で使われています。谷四(谷町四丁目)近くの南大江小学校の脇に、この太閤下水を見学できる所があります。
江戸は神田上水や玉川上水が整備されましたが、下水は整備されなかったようです。長屋から出た糞尿は近郊の農家に販売し、これが大家の貴重な収入になったので、商都だった大坂とは事情が違っていたようです。

川喜多半泥子

百五銀行
日経新聞・日曜版に「美の美」という見開き2ページカラーで絵画や陶芸を紹介するコーナーがあります。書評コーナーともども毎回、楽しみに見ているのですが、先日、川喜田半泥子(はんでいし)が掲載されていました。「東の魯山人、西の半泥子」と称された陶芸家です。
川喜田半泥子は美の分野で有名ですが津の豪商である川喜田家16代当主でもあり、大正時代から昭和20年まで百五銀行第6代頭取を勤めました。百五銀行はナンバー銀行の1つで藤堂藩の家臣たちが作った第百五国立銀行が元です。
昭和はじめの金融恐慌では銀行がバタバタつぶれました。映画「風たちぬ」でも銀行の取付騒ぎのシーンが出てきます。川喜田半泥子は堅実経営で無事に乗り切っています。
本館は大正時代に岩田川のほとりに建ちましたが、先日、隣に新しい本館が建ち、旧本館の取り壊し工事がはじまっています。