油日神社は甲賀の総社とも呼ばれています。甲賀に突出した勢力はなく、甲賀五十三家による自治組織でした。堺の会合衆のようなものですね。掟を定め、合議制でした。基本は多数決で、決まらない場合はくクジで決めます。甲賀衆の談合場所だったのが油日神社で、甲賀の総社と呼ばれています。
楼門の左右には廻廊のびていて、時代劇を撮影するには絶好の場所です。というころでドラマや映画のロケ地としても使われています。「るろうに剣心」、「わろてんか」、「必殺仕事人」、「信長協奏曲」などなど。
油日神社は甲賀の総社とも呼ばれています。甲賀に突出した勢力はなく、甲賀五十三家による自治組織でした。堺の会合衆のようなものですね。掟を定め、合議制でした。基本は多数決で、決まらない場合はくクジで決めます。甲賀衆の談合場所だったのが油日神社で、甲賀の総社と呼ばれています。
楼門の左右には廻廊のびていて、時代劇を撮影するには絶好の場所です。というころでドラマや映画のロケ地としても使われています。「るろうに剣心」、「わろてんか」、「必殺仕事人」、「信長協奏曲」などなど。
油日城や滝川城は県道131号にありますが、県道には「鹿深の道」という名前がつけられています。って道の途中にあった看板を見て知りました。調べてみると東海道って、いろいろと変遷があったんですね。
江戸時代の東海道は、近江の土山宿から鈴鹿峠を超えて伊勢の関宿に入りますが、古くは甲賀から柘植へ出て、加太越えをして関に入ったようです。難所の鈴鹿峠を避けたのでしょう。もっと古い時代の東海道は飛鳥から名張、伊賀、柘植を通って東国へ向かいました。
■古代の東海道 倉歴(くらふ)道
天智天皇が大津京を作った時に新しく道が整備され、草津で東山道と分岐し、甲賀を通って柘植へ入り、柘植から以前の飛鳥からの道に合流しました。柘植の北側に杣川が流れ、この川沿いのルートが東海道です。途中で倉歴を超えていくので倉歴(くらふ)道という名前だったようです。これが東海道の旧名になります。
大友皇子と大海人皇子が争った壬申の乱では大海人皇子が軍勢を派遣して倉歴道を守らせました。これに対して大友皇子側も軍勢を送り鹿深山を越え、倉歴で戦いになったようで倉部川沿いに古戦場跡があります。倉歴の地名は残っておらず川の名前で残っています。土山と甲賀にはバイパスがあったようで、それが鹿深道になります。
■鹿深(かふか)から甲賀に
日本書紀の敏達天皇13年(584年)に鹿深臣が百済から弥勒の石像を持ち帰ったと書かれています。敏達天皇といえば物部守屋と蘇我馬子が争っていた時の大王で、争いの背景は廃仏・崇仏よりも朝鮮外交の対立といわれています。この鹿深臣の本貫だったのか、どうか分かりませんが、この鹿深(かふか)が「かうか」「こうか」と変化して甲賀(こうか)となったようです。
恭仁京近くに、海住山寺への案内がありました。山の中腹にある寺ということで、山の方を見ると、確かに中腹に白く巨大な看板のようなものが見えます。ちょっと登れば着きそうだなということで坂を登りはじめます。ようやく白い看板にたどりつくと高台なので眺めがよく加茂の街が一望できます。
■サンクコスト
たどりついた看板に海住山寺と大きく書かれていますが、単に参道の案内で、お寺の場所は、かなり坂を登ったところにあります。「えー、どうする! せっかくここまで登ったんだから最後まで登るか」と考え、坂登りを続けます。この、もったいないと考えることをサンクコスト(埋没費用)といいます。サンクコストとは、過去に払ってしまい、もはや取り戻すことができない費用を指します。今後に関する意思決定では、サンクコストは考慮に入れず、今後の損益をだけを考えるのが合理的な判断するのが王道ですが、そうはいきませんねえ(笑)。
ということでエッチラオッチラ登って五合目を通過。またかなり登って、ようやく海住山寺にたどりつきました。 聖武天皇の勅願で創建した寺のようで国宝の五重塔などがあります。
前回、阪神が優勝したのが1985年。通信の自由化が行われた年です。日本電信電話公社がNTTとなり、家庭でいえば黒電話がなくなってカラフルな電話が登場した時です。ちょうどプログラマーをやっており、働き改革なんて言葉の登場以前ですから終電で帰る毎日。上新庄の賃貸住宅で貴重な睡眠時間を確保して寝てたら、朝5時ぐらいに六甲おろしをトランペットの演奏とともに歌っている一団が行進していきます。しかも住宅街の中を!「勘弁してくれ!」が阪神優勝の印象ですね。もっとも21年ぶりの優勝だったので、ビール1本目21円という破格値の居酒屋には行っておりました。(笑)
やがて優勝から遠ざかり、道頓堀に沈めた「カーネル・サンダースの呪い」だというまことしやかな噂が流れます。「探偵!ナイトスクープ」が道頓堀を探しましたが見つからず、2009年にようやく発見されます。ですが結局、2023年まで優勝はおあずけ。呪いがとけるまで14年かかることになります。平安時代のようにカーネル・サンダースを祭る御霊神社を建立すれば、もう少し短くなったかもしれません。38年ぶりなんでビール1本目38円の居酒屋は登場しないかなあ!
正倉院展はコロナ禍以降、予約制になっていますのでレイトチケットを予約、平日だと入場は16時からで500円割引されて1,500円になります。インバウンドで一杯の「ひがしぬき商店街」を抜け、修理工事が始まった興福寺の五重塔を眺めながら国立博物館に16:30頃に行くと入口には誰もいません。会場内はそれなりに混雑していますが17時で入場がストップになるので、どんどん人が減っていきます。
螺鈿装飾された鏡と琵琶は目玉ということもあり人気ですね。面白かったのが常陸国から送られた白の反物です。古代の税制で租庸調を習いましたが、調とは繊維製品を納めるのが基本で布で納めると調布と呼ばれます。展示されている反物は調布そのものでした。あと道鏡直筆の文章がありました。「鏡」は独特の書体のサインで鏡とはよめませんね。道鏡は孝謙上皇の病気を治したことから寵愛を受け、道鏡を天皇の位につけようとした時に和気清麻呂が阻止した事件で有名です。道鏡は物部氏系の弓削氏で、孝謙上皇がたびたび行幸した由義宮はJR志紀駅のすぐ近くにあります。
東高野街道から少し離れたところにあるのが志貴県主神社。県主(あがたぬし)って日本史で習いましたね。県主という言葉に反応して東高野街道からはずれて訪れました。
ヤマト朝廷が任じた地方官で国(国司)の下が県(県主)になります。一帯には志貴県が置かれ、志貴県主が管理していました。実際は地域の実力者を追認するイメージでしたので、けっこう羽振りがよかったようです。古事記には、いい家に住んでるんじゃないかと雄略天皇にいちゃもんをつけられる志貴県主が登場します。
■タイパ重視で総社となる
志貴県主神社近くに石器時代から続く国府遺跡があります。奈良時代になると河内国の国府が置かれ、国府遺跡は有力候補ですが、まだ見つかっていません。国府が置かれたことで志貴県主神社は総社になりました。国司が赴任すると一宮から順番に任地の神社を挨拶回りするのが慣例でした。
タイパ重視なのは昔も変わりません。全部回るのは面倒くさいと始まったのが総社です。これは国内の神社を国府の近くの1ケ所に集めることで、総社神社や六所神社という名前で全国に残っています。岡山県の総社市には美作国の総社神社があります。そら1つの神社を回っただけで全部OKなんでお得ですね。今も四万六千日(しまんろくせんにち)なるもんがあって1日のお参りだけで46,000日分の功徳があるというラッキーデーです。
近鉄・道明寺線の名前の由来になっているのが道明寺です。天覧相撲に勝った野見宿禰を祖とするのが土師(はじ)氏で道明寺あたりを本拠地にしていました。もともとは土師氏の氏寺である土師寺と土師神社が中心で道明寺天満宮(土師神社)近くには土師寺時代の五重塔礎石跡などが残っています。当時は大伽藍だったんですね。道明寺天満宮の一角には元宮・土師社があり、野見宿禰が祭られています。明治の神仏分離で道明寺は天満宮と別れ東高野街道を隔てた西隣に移されました。
道明というのは菅原道真の幼い時の名前だそうで、本当ですかいなあ。道真が大宰府に向かう時に道明寺にいた伯母を訪ねたそうです。土師氏は西大寺近くの菅原の地にも住んでいて、道真の曽祖父の菅原古人の時に菅原氏を賜っています。お母さんは伴氏です。
応神天皇陵の南にある誉田八幡宮で、祭神はもちろん応神天皇で両親となる神功皇后、仲哀天皇も祭神になっています。応神天皇については実在説、架空説がありますが、なんらかのモデルになった人物はいるようです。神功皇后の三韓征伐はどうかなと思いますが、好太王碑があるので、倭が百済や新羅といろいろと渡り合っていた時代です。応神天皇は誉田天皇(ほむたのすめらみこと)ともいいます。
誉田八幡宮は簑の辻近くで応神天皇陵という高台もあるので陣をはることが多く、戦場になりました。南北朝時代には楠木正行が陣をおいています。室町時代は畠山政長と畠山義就の後継者争いで誉田合戦が行われます。大坂夏の陣では、薄田隼人正が境内に陣を敷いて出撃していきました。
東高野街道と竹内街道が交差する簑の辻を北に進むと白鳥神社の参道があります。
■ヤマトタケル
古代の英雄である日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は東国征討の後、伊吹山の神との対決に敗れます。草薙剣を尾張の奥さんの元においていったのが仇になりました。病気となり大和を目指しますが、能煩野(のぼの 三重県亀山市)で亡くなります。死に際に望郷の思いから歌ったのが「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる やまとしうるわし」です。奈良というとこの和歌ですね。
■白鳥陵
亡くなった日本武尊は白鳥の姿となって飛び立ち、大和琴弾原(奈良県御所市)、河内古市(大阪府羽曳野市)に降り立ちました。ということで、この3ケ所にお墓が作られます。古市に作られたのが白鳥陵(軽里大塚古墳)です。もともと白鳥陵に神社がありましたが、兵火や慶長の大地震などで衰微し、1784年(天明4年)に現在地に移されました。祭神は日本武尊ですが、八岐大蛇から出てきた草薙剣との関係かスサノオと奥さんのクシナダヒメも祭神になっています。あと明治になって高屋神社を合祀したので、その祭神である饒速日命、安閑天皇も祭神になっています。
土日は石切さん(石切劔箭神社)のお祭りでした。枚岡神社に比べるとこじんまりとしたお祭りです。もっとも、祭り以外は閑散としている枚岡神社と違って、石切さんは毎日、お百度参りや参拝などで賑わっています。
■物部の神様
石切神社も河内にあるので祭神は高屋神社と同じ饒速日命(にぎはやひのみこと)で物部の神様です。一説には神武天皇に抵抗して敗れた長髄彦(ながすねひこ)を祭っているのではという説もあります。河内といえば物部なんですが枚岡神社は別で中臣氏の神様である天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祭っています。春日大社を創建する時に枚岡神社から勧請されました。
■法通寺跡
祭りにあわせて宝物が穂積殿で公開されていました。「太刀 石切丸」など刀剣が多いせいか、女性が多かったですね。この穂積殿の工事で白鳳時代から室町時代頃まで存在した古代寺院・法通寺の基壇が見つかり、この基壇がそのまま展示されていました。