大津宮

大津宮

「白村江(はくすきのえ、はくそんこう)の戦い」を覚えていますか?
倭の同盟国だった百済を支援していましたが新羅・唐に攻められ滅んだため、中大兄皇子は百済復興のために海外派兵を決定、倭に滞在していた百済の太子を帰国させ戦わせます。結局は白村江の戦いで倭軍は敗北。

実は孝徳天皇や大海人皇子が唐派で中大兄皇子と対立していたのではという説もあり、こうなると朝鮮情勢で対立した物部vs蘇我と同じですね。中大兄皇子は唐・新羅に対抗するため北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて多数の朝鮮式山城を築きます。岡山の鬼ケ城や大阪の高安城はこの時にできました。大宰府では水城など羅城で囲みます。

■なんで大津に遷都?
中大兄皇子は都を飛鳥から大津に移し、天智天皇として即位しますが、なんで大津に遷都したのかが不明です。防御説もありますが敦賀に上陸されて琵琶湖を南下されたら大津はすぐやられます。

天智天皇が亡くなった後に壬申の乱が起き、最後の戦いが瀬田の唐橋で行われ、大友皇子は敗れます。結局、大津宮は5年半だけ使われた幻の都となりました。錦織地域の住宅建築などによる発掘調査で幻の都だった大津宮が見つかりました。住宅地に宮跡が残っています。

アニメ「ケイオン」豊郷町

アニメ「ケイオン」豊郷町

山城登りがシーズンオフになり、最近は平城巡りをしております。今回は豊郷町周辺の平城を狙います。以前、JR河瀬駅でレンターサイクルを借りて山崎山城や荒神山城を巡ったので再度、レンターサイクルを借りようと行ってみたら3月末でがなくなっていました。ガビーン、それなら豊郷町により近い一つ手前の稲枝駅で降りたのに!

路線バスもないし、しょうがないので豊郷町を目指して歩きます。せっかく豊郷町に行ったついでに豊郷小学校旧校舎に寄ってきました。ここはアニメ『けいおん!』の聖地になっていて、アニメファンがそこかしこに。建築はヴォーリズで、オシャレですねえ。レトロな階段などがあり、手すりには「ウサギとカメ」の像があったりします。3階は軽音楽部・部室のモデルになった部屋があり、皆さん写真撮影をしておりました。

草津 追分

草津 追分

草津川跡地公園のすぐ近くにあるのが追分の道標。ここで東海道と中山道に分岐し、東海道は江戸の日本橋と京都の三条大橋を結ぶ53次でした。のちに大坂の高麗橋まで延びて57次になります。中山道も東海道と同じで日本橋と三条大橋を結びますが内陸を通り69次ありました。東海道は大井川の渡しなどが雨で通れなくなるので、道は険しいですが時間がよめる中山道がよく使われました。皇女和宮の江戸下向でも中山道が使われます。

■草津をおさえた信長
足利義昭を奉じて上洛した織田信長が副将軍なんかいらないと断り、代わりに堺、大津、草津を直轄地としてもらっています。武田信玄は鉄砲に着目しており、数を揃えていましたが問題だったのは弾薬。信長が堺を抑えてしまったので、火薬の原料となる硝石が手に入りません。海運拠点の大津、陸運拠点の草津を抑えてしまい琵琶湖を中心に東国への経済封鎖が行われました。

武田信玄が三方ヶ原の戦いで家康を破り、西に軍をすすめますが、信長の経済封鎖でこのままではジリ貧になると考えたという説もあります。

草津川

草津川

京都から草津へ向かうと草津駅の手前にトンネルがあります。トンネルの上を流れていたのが草津川で、いわゆる天井川です。

40年ほど前、まだ初々しい新人の頃、仕事で時たま草津へ出かけておりました。駅から歩いて草津川のトンネルを通って客先に向かいました。あの頃は若かったなあ。城跡へ行くために久しぶりに草津駅で降りると、この天井川がなくなっていて公園になっていました。幅が広く散歩するには最適な公園になっています。

「天井川はどこへいったんだあ」と思ったら2002年に草津川の付け替えが行われて、もっと大津よりを流れるようになったんですね。知らなかった!

沙沙貴神社

沙沙貴神社

安土には安土城以外に沙沙貴神社(ささきじんじゃ)がありますが、訪れる人はほとんどいません。佐々木さんの故郷なんですがねえ。

近江国蒲生郡佐々木荘があり、宇多天皇の子孫が下向し地名をとって佐々木氏と名乗ります。これが近江源氏の祖となります。佐々木氏で有名なのはバサラ大名で有名な佐々木道誉ですね。佐々木氏はやがて大原氏、高嶋氏、京極氏、六角氏の四家に分かれます。同じ一族といっても仲が悪いのは大河ドラマ「光の君へ」と同じで、争った結果、京極氏が北近江、六角氏が南近江を支配するようになります。京極氏の家来だった浅井氏が台頭していくのは織田信長と同じです。

京極氏の一族が甲良荘尼子郷に住むことから尼子氏になるように、さらに枝分かれしていきます。黒田、三井、篠笥、伊庭、椙山、岳、朽木、和泉、山脇、田中、種村、鯰江、乃木、松下、和邇、加地など220ほどになっていきます。特徴は家紋が目結紋(めゆいもん)になります。

カルフール

荒本

久しぶりに東大阪市役所(荒本)へ行くと、目の前にあったイオン東大阪店が更地になっていました。跡地は延伸される大阪モノレール線の荒本駅として利用されるようです。

イオンの前にあったのがフランスが拠点のカルフールで、2003年に開店しました。多量仕入れによる安値販売から流通業界の黒船と呼ばれ、大きな話題となりました。開店当時に見に行きましたが、さすがはカルフールでワインの種類がめちゃくちゃあり、食品コーナーではでかいグルルの中に丸焼きチキンが何十個も回転しながら焼かれていました。

また各階を行き来するのに荷物を持ったままフロアを移動できるオートウォークがあり、これはイオンでもそのまま使われていました。ところが、うまくいかず2011年にカルフールが撤退し、イオンが買収しました。もともと土地は府のもので定期借地契約だったため、予定通り更地にして大阪府へ返したようです。

ザビエル城

ザビエル城

日本史によく出てくるのが十字架を見つめるザビエルの肖像画です。見つかったのは最近で1920年に茨木市の旧家から見つかりました。

ザビエルは貴族の生まれで、生まれたのはスペイン・バスク地方にあるハビエル城(ザビエル城)。19歳でパリの大学に入学し、そこで出会った仲間たちとイエズス会を設立します。やがて世界に布教に乗り出し、インドのゴアでたまたま出会ったヤジロウと日本へ布教に向かいます。ザビエルが生まれた城がそのままスペイン村に再現されています。

このヤジロウですがザビエルとあった頃にはポルトガル語が堪能でした。キリスト教教理書の翻訳をイエズス会に頼まれ、デウスを「大日」、マリアを「観音」、パライソを「極楽」と訳すことになります。当時は朱印船貿易などが盛んで日本人もよく海外へ出ていました。大友義鎮・家臣の稙田玄佐はゴアに戻るザビエルに同行し、帰りは中国に向かうザビエルにマラッカで別れ鹿児島経由で戻っています。翌年、またゴアに行って帰ってきておりゴアと2往復しています。本人になります。スペインとの通商が目的でした

淡河宿

淡河宿 本陣

三田と三木の途中に淡河(おうご)宿があります。住所は神戸市北区になっていますが、三宮から、かなり遠い山の中にあります。

ここを通っていたのが湯山(ゆのやま)街道、湯山とは有馬温泉の別名で摂津国有馬郡湯山村に有馬温泉がありました。もともとは秀吉が三木城を攻める時に、有馬温泉から三木まで整備したのが発端です。秀吉は有馬温泉が好きだったのと三木へ物資を輸送する兵站に使っていました。

江戸時代、京都から西国街道がありましたが、播磨から有馬を経由して京都を結ぶ最短ルートになったため、西国街道の裏街道として利用されました。淡河宿には本陣が造られ参勤交代や有馬温泉に湯治する大名が宿泊しました。由緒ある建物でしたが荒廃していたのを地元の人が蘇らせています。中は無料で見学でき、食事もできます。ランチに蒸し鯖寿司味くらべ定食をいただいてきました。

糸車の幻想

糸車の幻想

大阪府よろず支援拠点へ行くと昼休みに、まず大阪国際ビル1階にある紀伊国屋書店をのぞくのですが、本屋の対面に大阪商工信用金庫・本店ビルがあって、ここに変なオブジェがあります。ビルができた時にオブジェがあるのは知っていたのですが、今日はすぐ近くまで見に行ってきました。外側からホールへ上がる階段を登ったところにあります。ガウディーみたいなモチーフで、なかなかでかいですねえ。

調べると「糸車の幻想」というオブジェで船場といえば繊維の街なんで糸車ということです。1961年に東洋紡本町ビルができた時に飾られていたそうで60年以上も前のものです。2017年にビルが建替えられて大阪商工信用金庫・本店ビルになった時に移設されて一般公開されています。デザインは日本のガウディと呼ばれた建築家の今井兼次という人物だそうです。堺筋本町の交差点にあります。

松平忠吉・井伊直政陣(関ケ原)

松平忠吉・井伊直政陣

関ケ原の戦いに参加した徳川家康の直属軍は井伊直政(3,600)、松平忠吉(3,000)、本田忠勝(500)だけで、徳川軍本隊は中山道を秀忠が率いていました。あとは家康の命令に従っている豊臣大名たちです。

東軍の先鋒は福島正則でしたが、井伊直政が松平忠吉(秀忠の弟で井伊直政の娘婿)が初陣ということもあり手柄をたてさせてやろうと福島隊の前へ出て宇喜田秀家隊に発砲し、これで開戦になったという話があります。いわゆる抜け駆けです。

戦に命をかけている戦国時代に軍律破りはご法度。なんぼ井伊直政でも許されません。井伊直政には家康から戦闘の指揮権が与えられていたので福島正則には話を通して井伊が先鋒となることになっていたのでしょう。

井伊直政は島津の退き口と言われる島津軍の敵中突破で、大怪我をすることになります。関ケ原の戦いの後、石田三成の旧領である近江国佐和山に転封となり、彦根城の建設途中に亡くなります。大河ドラマ「おんな城主 直虎」では菅田将暉が「どうする家康」では板垣李光人が演じていました。