J-Motto「がんばる企業応援コラム」に「3Dフードプリンターで食事を」が掲載されました。
「ティファニーで朝食を」をなぞったタイトルにしたのですが伝わらなかったかなあ(笑)。電子レンジの普及で食事を作るという概念が大きく変わりました。3Dフードプリンターが一家に一台導入されると、電子レンジ以上のインパクトがありライフスタイルが大幅に変わっていくでしょう。
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「ティファニーで朝食を」をなぞったタイトルにしたのですが伝わらなかったかなあ(笑)。電子レンジの普及で食事を作るという概念が大きく変わりました。3Dフードプリンターが一家に一台導入されると、電子レンジ以上のインパクトがありライフスタイルが大幅に変わっていくでしょう。
野崎観音の裏手の山にあるのが野崎城。4つの郭で構成されていますが見晴台として郭が残っています。

■兵を動かすには東高野街道しかなかった
野崎城の目の前を通るのが東高野街道。今は大阪平野ですが江戸時代に大和川の付け替えが行われるまで深野池(ふこのいけ)が大坂の東側に拡がっており、京都から大坂へ大軍を異動するには山沿いにある東高野街道を南下して柏原あたりから平野へ抜けるしかありませんでした。大坂の陣でも家康、秀忠はこの東高野街道を通っています。
四条畷の合戦の舞台でもあり、野崎城のあった場所には幕府側が陣取って楠木正行軍を攻めたようです。
■飯盛山城の出城に
飯盛山城が整備されてからは出城になったようです。飯森山の東側(奈良)には田原城があり、西側(大坂)の深野池の中には三箇城がありました。3つの城が支城になっていました。三好長慶は信長以前に畿内のキリシタン信仰を認めたため三箇城や田原城周辺はキリシタンの里となりました。
大阪は赤信号が点灯しているので自転車で行ける山城へ

野崎観音から飯盛山城を登ってきました。元気なシニアの団体が3組ほど登っていました。城跡について石垣などを堪能。
以前、ファイティング・コンサルタンツ研究会で野崎観音から登った時に遅れて参加したメンバーが四条畷神社から登って大変だっという話を聞いていたので、帰りは四条畷神社に降りるコースを選択。
なるほど途中に傾斜45度ほどの階段が続いたところがあり、これを登るのは大変ですねえ。しかもすれ違いも難しいほど狭い階段でした。ただ眺望はすばらしく京都から神戸まで270度見渡せます。
信仰を捨てず海外追放されマニラで亡くなった戦国武将といえば高山右近が有名ですが、もう一人います。それが内藤如安(ジョアン)。

丹波・八木城で生まれました。守護代だった内藤家の名跡を継いだのが松永久秀の弟である松永長頼(内藤宗勝)で、この息子が内藤如安です。松永久秀が仕えた三好長慶がキリスト教に寛容でしたので高山右近のお父さんなどがキリシタンとなります。如安のお父さんである内藤宗勝も同じころキリシタンになったようです。信長のキリシタン保護はこの後の話になります。
足利義昭が織田信長と袂を分かちますが内藤如安は守護代という立場から義昭側に立ちます。足利義昭が挙兵した槙島城の戦いにも参加しましたが織田信長に負け、足利義昭が鞆に移る時に一緒についていっています。
信長が亡くなってからは小西行長に仕えています。ところが関ケ原の合戦で小西行長が破れたため、最終的に加賀の前田家に高山右近ともどもやっかいになります。徳川家康のキリシタン追放令で高山右近と共にマニラに追放され、現地で亡くなりました。
丹後の守護代だったのが内藤氏。八木城の麓にあるのが屋敷群で削平地がたくさん残っていて現地の説明には屋敷群とありました。守護代屋敷は山の上にあったようです。

■守護代
室町幕府では守護は都に在住することが基本でしたので、領国の経営は守護代にまかせていました。現地を握っている守護代の力が強くなり戦国時代には越後の長尾氏(上杉謙信)、越前の朝倉氏や出雲の尼子氏などが守護代から戦国大名になりました。織田信長は守護代の家来からスタートしています。
戦国時代の内藤氏は三好長慶と組んでおり、松永久秀とともに波多野を攻めますが。逆に攻められて八木城は落城。城主が討死してしまいます。この時、松永久秀の弟長頼が残兵をまとめて八木城を奪回。三好長慶から丹波を預けられることになり内藤氏の名跡を継ぎ内藤宗勝と称します。
八上城は大きな山城で東西南北に伸びる四方の尾根に支城があります。

主郭から尾根道を歩いて鞍部を越えていくと烏嶽という場所があり、こちらにも郭が拡がっています。こんな所を歩いている人は誰もおりません(笑)。
郭には石垣跡が残っており、大きな堀切で何重にも防御しています。烏嶽は鞍部を境に北側と南側に2つのピークがあり、実質的には2つの城で防御していたようです。
それにしても大きな山城です。山城は少ない人数で守れるところが利点なんですが、これだけの郭があると、どれぐらいの人数が必要だったのでしょう。
丹波三大山城のひとつが八木城です。ハイキングコースになっているので5人ほどのハイカーはいましたが皆さん眺めを求めて登っており、城を目当てで登っている人は皆無ですねえ。有名な山城なのに

足利尊氏から恩賞をもらい八木の地をおさめたのが内藤氏です。最初は砦のような城を造りました。室町時代に、細川氏が丹波をおさめるようになると内藤氏は丹波守護代となります。八木の地には守護屋敷などが麓にありました。
織田信長の時代になると明智光秀の丹波攻略が行われ、八木城は落城します。
大阪商工会議所・北支部で「Webを活用して販売促進、お金の管理」というタイトルでセミナーをしてきました。

最近はオンラインセミナーばかりで対面型セミナーは久しぶりです。12月になったらコロナもおさまっているだろうと4ケ月ほど前に事務局で企画が始まりましたので、まさかこんな事態になるとは誰も想定してませんでした。
講師席だけでなく受講席にもアクリル板をおいて万全の体制でのセミナーでした。セミナーの対象者は創業5年以内で、創業して苦労することベスト3が
1、販路、顧客開拓 → 安価でWEBを活用してお客さんを増やしたい
2、資金繰り、資金調達 → 手軽にわかりやすくお金を管理したい
3、財務・税務、法務の知識 → 知らないと損をする
ですので、1と2を中心にしゃべりましたが、フェースシールド越しにセミナーするのは、やはり慣れませんねえ。
清水山城は三方の尾根上に郭が続く広大な山城ですが、それ以上にすごいのが麓の高台にある屋敷跡。

いわゆる根小屋なんですが、これがめちゃくちゃ規模が大きく谷を挟んで西屋敷と東屋敷があります。大きさは南北約350m×東西約550mで東京ドームでいうと4個分以上あります。歩きましたが広いのなんの!さすがに疲れます。
一辺を20mほどの土塁で区切られた方形の区画がたくさん残っています。西屋敷には「オウテ」という地名が残っており、道を登っていくと主郭にたどりつきますので大手道だったのでしょう。反対に進むと土塁に挟まれた狭い道となり「ダイモン」という地名が残っているので、ここに大門があったようです。この城を攻めるのは大変だったでしょうね。
近江高島にある清水山城、信長公記に登場する「木戸の城」がこの清水山城と考えられています。大きな城で主郭までたどりつくのが大変。途中でギャーギャー騒いでいる声が聞こえ、何事かと思ったら野生の猿が走り回っていました。ようやく主郭までたどりつくと琶湖の竹生島や対岸の長浜も見られます。

主郭の周りには畝状竪堀が何本も掘られており、高島は浅井・朝倉と手を組んでいたので織田信長と対峙した時に整備されたのかもしれません。高島を攻めたのは明智光秀です。
近江源氏である佐々木氏は六角、京極に分かれますが他に佐々木高島がいます。この佐々木高島がさらに別れ「高島七頭(なながしら)」と呼ばれる七家に分かれます。この七家の筆頭が越中氏で清水山城はこの越中氏の城といわれています。