「地球の歩き方」事業譲渡

「地球の歩き方」が学研プラスに事業譲渡されたと報じられました。

「地球の歩き方」、懐かしいなあ。創刊されたのは1979年で当時、フレーム付きのバックパックを担ぎ個人旅行するのが流行っていました。大学最後の卒業旅行で出かけた人も多いでしょう。旅費はバイト代で貯めるので貧乏旅行しかできません。そこで重宝するのが「地球の歩き方」。現地の安宿情報が満載でした。インターネットどころかパソコン通信もない時代です。

私もバックパックを担いでヨーロッパを1ケ月半ほど旅してきましたが、皆、「地球の歩き方」を参考にして周遊するので、安宿で出会うのは日本人学生ばかり。しかも物価がめちゃくちゃ高いスイスを避けますのでドイツルートかスペインルートで回ります。パリで別れたのにローマの安宿で再会することがありました。マドリッドで福岡から旅していた若い画家と出会ってトレドへグレコの絵を見に行きましたが元気にしているかなあ。

パックツアー向けの航空券をばらしてバックパッカー向け格安航空券を売るところから創業したのがHISとなります。

内原城

大宇陀に桜井へ抜ける道があり、ここにあったのが内原城。誰が造った城なのか分かりませんが松永久秀が秋山城を攻める時に築いた陣城ではないかと言われています。

内原城
内原城

城に入る道はなく崖を登るしかないのですが、何とか登って郭に入ると藪だらけ。しょうがないので郭の堀を巡っていました。縄張図を見ると3つの郭があり虎口だけは分かりました。縄張図には畝状竪堀も書かれていて探しましたが、見つかりませんでした。

井足城

榛原駅から少し行った井足にある城。

井足城
井足城

宇太水分神社下社への参道入口の対面にある丘の上にあり、丘に向かう山道があったので進むと途中で道がなくなります(笑)。仕方なく崖を登って尾根沿いに進んで城に到達しましたが、もう少し楽に登れる道を後に発見。

城主は井足(いだに)氏で、井戸下荘を本貫としていました。宇陀三将の一人である秋山氏に従っていたようです。

城跡は大きな郭が3つほどあり、櫓があったと思われる高台がありました。芳野川を見下ろせますので川沿いの街道をおさえる城だったのでしょう。

高野山へ

ファイティング・コンサルタンツ研究会 秋の遠足。「山城へ行こう」と提案しましたが却下となります。昨年、飯森山城へ登ったのがトラウマになっているようです。

高野山
高野山

というわけで高野山へ。大阪から特急電車でスタートし途中の金剛駅からビール持参で乗りこんできた御仁がいて、さっそくビールを飲み、ランチでも生ビール2杯を飲んでおりました。その後、奥の院へ向かいますので荘厳な宗教世界には縁なき衆生であります。

高野山は極寒の2月にセミナーで行ったことがあるのですが、紅葉シーズンでもあり、観光客で一杯でした。

大迎城

近江・坂本にあるのが天台真盛宗の総本山である西教寺。「麒麟がくる」で木村文乃さんが演じる熙子(ひろこ)の墓があることで有名です。どうも本能寺の変よりも先に亡くなっていたようです。本能寺の変は信長による四国政策のちゃぶ台返しが有力原因ですが最愛の奥さんが先に亡くなったことによる光秀の自暴自棄という面もあるのでしょう。

大迎城
大迎城

信長や光秀の時代より前に廃れていた西教寺を再興したのが真盛という人物。伊勢国一志郡仰木の出身で、天台宗真盛派の祖となり生まれたところが誕生寺になっています。この真盛の父親が小泉藤能という北畠氏に属していた武士で応永年間(1394年〜1428年)に大仰城を築城しました。


誕生寺の北背後にある山に築かれています。奥の院への参拝道にもなっていて郭跡には石仏などが置かれています。帯郭も残っていました。また北側山腹に降りた所にお城井戸があります。

ザビエル城

ザビエル城ですと言ってもバッタモノで志摩スペイン村にあります。バッタモノとは言いながら実物大で作られていますので、なかなか迫力ありますね。中は博物館になっています。

ザビエル城
ザビエル城

本物はスペインのバスク地方にあり名前はハビエル城で、皆さんよくご存じのフランシスコ・ザビエルの生誕地です。もっとも本物も荒廃していたため、1980年頃にザビエルが居住していた頃を模して復元されましたから、志摩スペイン村とそう変わりません。こちらも博物館になっています。

ザビエルはイエズス会の創設メンバーの1人で、日本に初めてキリスト教を伝えたことで有名です。志摩スペイン村のザビエル城ではコスプレイヤー達が写真会を開催していました。たしかに映えますねえ。

吉野の花見

秀吉というと醍醐の花見が有名ですが吉野でも行っています。

吉水院
吉水院

実施したのは1594年で総勢5000人が参加した5日間の花見でした。同行したのは徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗らの武将など。ただし3日間も雨が降り続いていたので怒った秀吉は何とかしないと吉野山に火をかけて下山するとダダをこね始めます。完璧なパワハラです。驚いた吉野の僧たちが全山で晴天祈願を行うと、翌日には晴天になったそうです。ほんまかいなあ(笑)。秀吉は紀州征伐では根来寺を焼き討ちした前科がありました。

秀吉が花見で本陣にしたのが南朝御所だった吉水院でした。やはり守るには適していたのでしょう。

静御前

後醍醐天皇の南朝拠点となった吉水院ですが山城の郭状になっており、吉水院は崖に懸け造りで作られていて攻めるのには難しい場所になっています。

吉水院
吉水院

後醍醐天皇以前にここを訪れたのが源義経。頼朝と決裂して義経追討に動いたため九州で再起するために大物浦から船出しましたが、暴風によって難破してしまい摂津に押し戻されてしまいます。郎党や静御前を連れて吉水院に隠れますが、ここでも追討をうけ静御前は捕らえられてしまいます。吉野は隠遁させましたが戦闘に関しては中立だったのでしょう。

鎌倉に送られた静御前が頼朝の前で「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」と義経を慕う歌を歌ったのを頼朝が激怒。ところが北条政子が私も同じ立場なら同じことをすると取りなしてくれます。

渋川廃寺跡

昨日は大阪府よろず支援拠点のお仕事でJR久宝寺駅へ。昔、八尾に住んでいたので、時たま来ていたのですが、駅前はすっかり変わっています。

渋川天神社
渋川天神社

このあたり古代は物部の土地で、お昼休みに近くにある渋川天神社へ。ここの境内で見つかったのが渋川廃寺跡。

発掘調査から飛鳥時代前期の7世紀前半頃の創建と考えられています。日本史では蘇我馬子と物部守屋が仏教導入で争ったと習いましたが、渋川廃寺は物部氏の氏寺だったようで、争った原因は新羅や百済など半島情勢への考え方にあったのではと言われています。

物部守屋が滅ぼされた河内国渋川郡の館も少し南に行ったところにあります。

韋駄天山城

蔵王堂の近くに標高370mの韋駄天山があります。階段があったので登ると頂上は細長い削平地になっていました。吉野は全山が山城ですが、ここも郭だったんですねえ。

韋駄天山
韋駄天山

頂上には小さな祠があり、祠の向こうには蔵王堂が見えます。階段以外は切岸になっており単郭だったようです。韋駄天山からは街道を見下ろせ、また遠くまで見渡せますから物見には最適な場所です。