阪堺線

大阪府よろず支援拠点の出張相談で堺へ。行きは南海で行きましたが、帰りは久しぶりに阪堺線に乗りました。

阪堺線
阪堺線

阪堺線は大阪(天王寺or恵美須町)と浜寺駅前を結ぶチンチン電車で、専用軌道も走りますが一般道路を車と一緒に走ります。大阪のチンチン電車は今は阪堺線だけになりました。

堺の市街地を抜け、大和川を渡り天下茶屋からミナミを目指します。住吉神社近くの住吉駅で天王寺へ向かう上町線と恵美須町に向かう堺線に分岐します。昔は交差になっていて住吉大社駅があったのですが、なくなってしまいました。

そうそう阪堺線を舞台にした「阪堺電車177号の追憶」(ハヤカワ文庫)という小説が出ていました。「阪急電車 片道15分の奇跡」のように映画化されないかなあ。

大坂か大阪か

秀吉や秀忠、家光が造ったのは大阪城ではなく大坂城です。坂の字が違い、戦国時代は大坂が使われていました。

大坂
大坂

幕末、浜松歌国という狂言作者が「摂陽落穂集」に「坂」は土に反(かえ)るいう意味なので「阪」を使おうと提唱しています。これで急激に代わったわけではなく江戸時代頃から大阪の字が使われてボチボチと変わっていったようです。

もともとは上町台地に小坂という坂があり、一帯を小坂と呼んでいました。石山本願寺を造った時に蓮如が大坂にしようと言い出してから大坂になったようです。最初は上町大地一帯を指していましたが、やがて摂津、和泉、河内全体をさすようになっていきます。

松阪牛で有名な松阪でも同じで、蒲生氏郷が城下町を作った頃は松坂でした。明治になり大阪が変えたのにあわせて松坂になったそうです。

興福寺・国宝館

奈良で仕事だったので、帰りに興福寺・国宝館へ寄ってきました。コロナ禍の影響もあり入場者は5名ほど。係員の方が多いですねえ。

興福寺・国宝館
興福寺・国宝館

国宝館での楽しみは天燈鬼。頭の上の燈籠を上目づかいににらんでいる姿がユーモラスでいいですねえ。

もう一つが仏頭で東金堂本尊だったものです。元々は天智天皇や藤原鎌足の陰謀で蘇我倉山田石川麻呂が自害に追い込まれます。自害したのが自分が造った山田寺(飛鳥)で、この山田寺の本尊でした。

鎌倉時代に東金堂を再建する時に興福寺の僧兵が山田寺から無理やり押し入り本尊を強奪してきます。時は流れて堂が焼けた時に焼け残った仏頭が本尊台座にほうりこまれ、昭和になってから発見されます。蘇我倉山田石川麻呂の無念がしのばれる仏頭です。

東向き商店街、餅飯殿センター街ともに、まあまあ観光客が増えていました。

佃煮 発祥の地

佃煮の発祥には諸説あるんですが、もともとは漁に出る時の保存食でした。悪天候時や船内食として小魚や貝を塩や醤油で煮詰めたものを持参していました。

田蓑神社
田蓑神社

後に江戸の佃島へ移ってから住吉神社へ奉納したのが佃煮の元となったという説がありますが、住吉神社は佃にあった田蓑神社(住吉明神)を分霊したものです。それなら佃時代から田蓑神社に奉納していただろうということで、ここが佃煮発祥の地という説もあります。

田蓑神社は神功皇后が三韓からの帰途に佃に上陸し、漁師が白魚を献上したという伝説が残っていますが、古代、住吉大社の領地だったようです。境内には東照宮もありました。

大和田城

佃近くには城跡があり、仕事が終わってから行ってきました。

大和田城
大和田城

平城ですが、何も残っていません。もともとは石山本願寺の砦があったようですが、織田信長が石山本願寺が落ちた後に拠点にしたようです。神崎川近くで交通の要衝でした。

大和田城は太田牛一の「信長公記」に出てきます。出てくるのは荒木村重の裏切りの時で、安部二右衛門という武将が城主をつとめていて信長側でしたが父と祖父が反対し、荒木軍につき、天守に立て篭もったとの記載があります。大和田城には天守がある大きな城だったようです。何とか取り戻したようです。大坂夏の陣頃までは城があったようです。

城跡は何も残っていず説明版が大阪市立大和田小学校前にありました。

佃島 発祥の地

お仕事で阪神電車・千船駅へ。千船駅は神崎川と左門殿川に囲まれた佃にあります。そうそう佃煮で有名な東京の佃島の故郷がここ佃ってご存知ですか。

千船駅
千船駅

徳川家康が兵庫にある多田神社へ参詣します。多田神社は摂津源氏発祥の地ですから、源氏を名乗る家康としては参詣しないわけにはいきません。この時に佃村の漁師たちが船を出して川を渡したことから徳川家と縁ができました。

将軍家に献魚の役を命じられ、漁師の一部は江戸に行くことになります。また、どこで漁をしてもよいという特権を与えられ、隅田川下流の干潟を造成し、できたのが今の佃島です。

新型コロナウイルス感染症の影響および金融支援の利用状況について

三重県中小企業診断協会・研究会「新型コロナウイルス感染症の影響および金融支援の利用状況について」で保証協会の実情についてお話いただきました。会場はアスト津です。

三重県中小企業診断協会
三重県中小企業診断協会

コロナで金融支援も大幅に変更・リスケしていても融資申込には対応(必ずしも出ませんが)・利子、保証料ゼロの融資(経営者保証は必要)が今までと全然、違うそうです。ただ第二波の申込では、第一波で借りたところは返済原資がないと、なかなか難しくなるようです。

一方で銀行は優良企業に無利子で3年間借りませんかと営業しており、1.6%の金利が利子補給されるのと100%保証なので、これで保証の利用も増えています。

バッタモノの能見神社

バッタモノシリーズです。高槻城のすぐ近くに野見神社がありました。

能見神社
能見神社

まさかと思ったら祭神は野見宿禰でした。野見宿禰といえば垂仁天皇の命により当麻蹴速と相撲をして勝ち、土師氏の祖となった人物です。高槻といえば継体天皇陵といわれる今城塚古墳があるので埴輪の拠点だったのでしょう。

ただ調べると野見神社は、もともとは疫病対策の神社で須佐之男命を祀っていた牛頭天王社でした。明治になってから野見宿禰命を合祀して野見神社になります。理由は式内社に野見神社があり場所が分かっていないので、式内・野見神社になろうというもので、つまりフェークです。式内社は同じ高槻市内にある上宮天満宮摂社「野身神社」ではないかと言われています。

ところで式内社って分かりますよね。延長5年(927年)にまとめられた延喜式神名帳に記載された神社のことで、社格が高い神社です。

正倉院展

炎天下のなか、奈良国立博物館へ行って正倉院展を見てきました。

正倉院展
正倉院展

正倉院展といってもバッタモノです(笑)。「特別展よみがえる正倉院宝物 ―再現模造にみる天平の技」ということで複製品です。往時を再現していますので螺鈿細工など見事ですね。土曜日なので混んでいるかなと思ったら、正倉院展のオータムレイトチケットなみにすいていました。

会場は本場の正倉院展と同じ広さでの展示でした。五弦琵琶や鏡などを見て奥まで行くと古文書の複製までありました。古文書の裏に映った字まで再生されていました。すさまじい技術ですね。写経生の休暇願があり、「母親が病気なので3日間休ませてください」など書かれていました。

高槻城と高山右近

高槻でお仕事でしたので帰りに高槻城へ寄ってきました。

高山右近
高山右近

といっても城跡は残っておらず城址公園があるだけです。高槻城といえば高山右近ですが、高山右近がおさめた時期はそれほど長くはなく10年ほどです。戦国時代の高槻の城といえば三好長慶が本拠地とした芥川山城で、織田信長が摂津に侵攻し芥川山城が落城してからは平城の高槻城が中心に使われるようになります。

高山右近はキリシタン大名として有名でしたが洗礼を受けたのは奈良県宇陀郡榛原町にあった沢城。高山右近の父親である高山図書が沢城に入城し、教会が建てられておりルイス・フロイスも訪れています。

■危機一髪だった高山右近
荒木村重が信長に謀反を起こした時、荒木村重を説得するために高山右近は子供や妹を人質に差し出して話をして荒木村重は納得します。荒木村重を信長のもとへ連れていこうと茨木まで進むと重臣たちから反対の通知が届きます。摂津の領主を変えるぞという下からの突き上げで荒木村重は有岡城へ戻ります。

高山右近は人質が握られているので動けません。そこで信長は宣教師をおどして高山右近が荒木村重に加担しないよう説得にむかわせます。高山右近の父親である高山図書は荒木村重につきました。