万博

万博

水谷IT支援事務所は福利厚生が充実しており社員旅行で大阪万博に行ってきました。もっとも従業員はゼロです。

先週の天気予報では、どしゃぶりの雨だったのが昨日になると曇に変わっていたので、きっと来場者が少ないと予想し出かけましたが甘かった(笑)まずは中央線で夢洲駅へ、本町駅と弁天町駅とからドヤドヤと乗客が乗り込んできます。

万博入口でのWifiつながらない問題は各社のアンテナを積んだ車を並べることで解決していました(笑)。手荷物検査&金属検査は空港と全く同じですね。入場のQRコードはスクリーンショットをとるのが鉄則です。

■平日は学校関係が多い

会場は小学校~高校の学校関係の来場が多く混雑していました。そうか平日は学校の引率があるんですね。そうそう、さっき来場100万人を突破したと発表していました。

大屋根リングは見ごたえありますが、一周して会場を巡っても1万5千歩ほどしか歩いていないので割とコンパクトです。各国の展示があるんですが、関西は国立民族学博物館と天理参考館があるんで、そちらの方が充実しています。ただ建物はけっこう凝っていて楽しんできました。

観音芝廃寺

観音芝廃寺

馬堀駅から少し行くと高台になっていて見晴というところがあります。地名の通り見晴がいいですね。今は住宅街になっていますが奈良時代の山陰道のすぐそばでした。一角にあるのが観音芝廃寺跡です。発掘調査され金堂や講堂跡がみつかり礎石などが復元されています。できたのが7世紀後半なので壬申の乱の頃ですね。300年ほど続きましたが平安時代には廃寺になったようです。秦氏が関わっていたのではと言われています。

■保津川開削
秦氏というと秦河勝が有名で聖徳太子の国造りを助け、広隆寺を創建します。秦氏は土地開発が得意なデベロッパーで、桓武天皇の平安京増設などに貢献します。嵐山にある大堰川の堰(葛野大堰)の原型は秦氏が作ったものです。嵐山までの保津川を開削し船運を整備したのも秦氏と言われています。丹波側の拠点として観音芝寺を作ったのでしょう。

馬堀城

馬堀城

山陰道を歩いていると馬堀駅(トロッコ列車の乗車駅近くの駅)近くで馬堀城を発見。

って、Googleマップに載っているのを見つけただけです。行ってみましたが現地には説明板も何もありませんでした。少し高台になっていて、Googleマップを見ると北垣内という地名があります。家に帰って調べると馬堀城の縄張図があり、主郭は馬堀駅前あたりで3つの郭からなっていたようです。少し離れたところに見晴という地名があり、城の見張り台があったようです。後で見晴公園に行きましたが、高台で眺めがいいですね。

天正年間(1573~92)に山田五兵衛なる人物が馬堀城を拠点にしていたと記録はありますが詳しいことは分かっていません。

ブラタモリ(江戸橋)

江戸橋

ブラタモリを見ていると鈴鹿サーキット→白子→津と移動し、最後は江戸橋の常夜灯が出ていました。

江戸橋は藩主が参勤交代で江戸に向かう時、家臣がここまで見送りにきたことから江戸橋と呼ばれています。すぐ近くに近鉄・江戸橋駅があり橋を渡った先が三重大学ですから、近鉄が止まるたびに学生がどわーっと渡る橋になっていて、私も大学へ行くときによく使っています。

■江戸橋・追分
橋のたもとにあるのが安永六年(1777年)の銘がある常夜灯で、ここが追分になっています。関宿で東海道と別れた伊勢別街道が江戸橋で伊勢街道と合流します。番組では分かりやすいように「京街道」と言ってましたが、本来の京街道はブラタモリでもやっていた大津の追分から京都をバイパスして大坂へ至る道が京街道です。東海道から分かれますので京から来た道には間違いはないんですが

次回は津城と松坂なんですなあ。

古世(こせ)城

古世城

亀岡駅と馬堀駅の間に昌寿院というお寺があります。山陰道の近くで、ここにあったのが古世城です。昌寿院が二の丸跡で、3つの郭からなっていたそうですが城の遺構は残っていません。寺の前にあった案内板によると楠木正成の次男である正時(四條畷の戦いで楠木正行とともに戦死)の子孫が代々住んでいたそうです。

天正7(1577)年に織田信長の命で明智光秀が亀山城を築城するまで、この古世城が丹波の中心でした。古世城の東側に年谷川が流れ、堀になっていたようです。亀山城を造る時に組み込まれ、古世城の空堀はそのまま亀山城の総構え堀として利用されたようです。

明智越え

明智越え

保津城が守ってきたのが「明智越え」という街道です。

亀岡から京都へ行くには唐櫃(からと)越え、山陰道、明智超えの3つの道がありました。明智越えは亀岡と嵯峨を結ぶ古道で、本能寺の変では部隊の一部がこの道を通って本能寺に向かったと伝わっています。住宅街を保津の高台に登っていくといきなり明智越えの山道が始まります。

住宅街の途中には愛宕という石標がいくつか建っていて、明智越えは愛宕神社参拝路でした。保津から愛宕山南麓の水尾に出て愛宕神社に登ります。水尾から嵯峨にも山道が通じています。明智光秀が愛宕神社に参詣するためにしばしば通ったことから明智越えと呼ばれるようになります。本能寺の変の前、光秀は愛宕神社に参詣し連歌会を催します。この時に「ときはいま天(あめ)が下(した)知る五月(さつき)かな」という有名な句をよみます。

保津山城

保津山城

保津東砦から二重堀切を超えると保津山に登る山道(送電線の保線路)があり、これを登っていきます。途中までは階段もあって快適に登れます。保津山城は保津城の詰城だったようです。規模が大きな郭が数段にわたって連なっていて、送電線の鉄塔よりも奥に郭が続き、頂上付近にある大きな堀切まで続いていました。

堀切は堀切道として使われていますが、こちらから城に入るのはけっこう大変で、二重堀切から登るのが一番です。堀切道は丹波と京都を結ぶ街道だったため、この街道を守るための城でもありました。

保津東砦

保津東砦

保津城の裏側に土橋があり、ここから山道が続いており、頂上ちかくまで登ると見事な二重堀切があります。二重堀切の東側に郭が連続しており、今は低くなってしまいましたが土塁跡が残っていました。ただ小規模なので砦だったようです。今は林などで眺望がさえぎられていますが、当時は保津川や丹波亀山(亀岡)の地がよく見えたでしょう。

また砦の近くを丹波と京都を結ぶ街道が通っているので、こちらを監視する砦でもありました。

保津城

保津城

亀岡駅からサンガスタジアムを横目に進んでいくと保津川下りの乗船場があり、橋の下を乗客を乗せた船がくぐっていきます。さらに山へ登っていくと京都へ向ける明智越と呼ばれる山道があり、この山道を守る位置にあるのが保津城です。いつできた城かは分かりませんが、南北朝時代の観応3(1352)年に保津城を攻め落とした文章があり、それ以前に城があったようです。

光秀の頃には村上紀伊入道が保津の領主だったようで、柿を送ってもらった光秀からの礼状が残っています。保津城には三段になった郭や堀切、土塁が残っています。ちょっと高くなった櫓台跡もありました。広い郭は館城になっていたようです。藪もありますが比較的整備されていて案内板もありました。

週休3日はどこへいった

猫

前期高齢者になったので、「毎日が日曜日」ではなく。仕事をセーブして週休3日を目指しています。

の予定だったんですが、今日はLEC梅田で経営情報システムの講義。日程は1年前に打診があり、その頃は何も考えてなかったのでOKを出してしまっていました。ウーン。

明日から大学での講義も始まるのですが、誤って受講登録をした学生からの連絡などの対応を土曜日にしておりました。週休3日はどこへいったんだあ!