五右衛門の手形

五右衛門の手形

水無瀬神宮の入口に石川五右衛門の手形が残っています。

石川五右衛門が神宝の太刀を盗もうとして七昼夜潜んでいましたが、足がすくんで境内に入れなかったそうです。そこで門の柱に自分の手形を押して立ち去ります。泥棒がわざわざ証拠を残すようなことはしませんので、どう考えてもガセネタでしょう。

石川五右衛門という盗賊がいて処刑されたことは宣教師の日記にも出てきますので実在するのは確かです。今に伝わる話は江戸時代に創作されたもので、南禅寺山門で煙管片手に「絶景かな、絶景かな。」と言うシーンは有名ですな。

9月28日は「パソコンの日」

専用のCRTをつけて発売されたのが日本電気 (NEC)のPC8001です。PCはパーソナルコンピュータという意味でした。ただし当初企画では発売されたPC8001と全然違った形をしていました。マイコン全盛の時代で、日本電気の開発陣はどうしてもマイコンを発展させた形で考えていました。そこでPC8001の試作機を作り、マニアを集めて見てもらうことにしました。

■マニアが監修

日本電気のお歴々の前に長髪でジーンズ姿のマニアが集まり、「ここはこうした方がよい」、「これは止めて、こうしたら」と色々な意見が出ました。例えばキーボードの現在テンキーがおかれている場所には試作機では16進数のキーボードが置かれていました。(0~9 A~Fのキーが並びます。)マニアからは仕事で使うなら計算はテンキーの方がよいと意見が出て、テンキーボードに変更されます。

また試作機はかなりどぎつい配色で本体やキーボードはクリーム色、文字が赤色でした。これをオフイスになじむように渋めの茶系の配色にしました。マニアの意見を採用して改良され発売され、これが大ヒットに。価格は168,000円で外国製パソコンに比べてかなり安く、1983年に生産終了するまで25万台を売りつくしました。PC8001が発売されたのが1979年9月で、9月28日を「パソコンの日」としています。

桜井の別れ

桜井の別れ

JR島本駅前の公園にあるのが楠木正成と楠木正行の銅像。世にいう「桜井の別れ」です。西国街道の桜井駅で、楠木親子がここで訣別し、楠木正成は湊川の戦いに赴いて戦死し、今生の別れとなりました。「太平記」の名場面ですね。西国街道には実際に大原駅がありました。駅というのは官道に整備され、手紙や荷物を運ぶためにの中継ぎ場所で、馬が用意され次の駅までリレーされました。

感動的な「桜井の別れ」ですが太平記の創作のようで楠木正成の屋敷は京都の後醍醐天皇の内裏近くにありました。この時に楠木正行は同居していた模様です。世情が不安になった時に河内に楠木正行を送り返したようですので実際の別れは京都のようですね。

水無瀬神宮

水無瀬神宮

もともとは後鳥羽上皇の水無瀬離宮がありました。広大な離宮で、かなり離れた場所で庭園跡などが見つかっています。当時の天皇は離宮を作るのが好きだったようで鳥羽離宮などが作られました。離宮八幡宮(山崎)も嵯峨天皇が作った河陽宮という離宮跡です。

■承久の乱
後鳥羽上皇といえば承久の乱を起こした人物です。「鎌倉殿の十三人」でも描かれていました。後鳥羽上皇が城南寺(鳥羽)で流鏑馬を行う名目で西国の武士を集めると1700ほどが集まりました。これはいけると判断し鎌倉を攻めることにします。鎌倉側は迎撃論が主流でしたが、公家出身の大江広元が出撃しなければダメだと主張します。ちなみに大江広元の子孫が長州毛利家になります。

後鳥羽上皇は敗北し軍備の放棄を宣言します。古代から「武」で権力を維持してきた天皇が軍事に口を出さないと宣言し、武士の時代がはじまることになります。鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡、土御門上皇は土佐に流されます。

■鎌倉幕府が全国組織に
源平合戦で源氏が手に入れた平家の荘園は約500ケ所でした。承久の乱では6倍になり、西国の武士や貴族の荘園に東国武士が入り鎌倉幕府は地方政権から全国政権になります。ところが、西国に領地をもらった御家人は貨幣経済に巻き込まれてしまいます。陶器や茶道具などを買うにはお金がいるため土地を担保に金を借ります。これが借金をチャラにする徳政令につながります。結局はシステム的に破綻し、倒幕になります。

■百人一首は後鳥羽上皇の鎮魂?
「ちはやふる」の百人一首ですが、作ったのは藤原定家です。歌い手の多くが政争で負け零落した人物が多いのが特徴です。また藤原定家は後鳥羽院と近かったのですが、承久の乱が起きた時に裏切っています。これが百人一首を作る動機の一つになっているようです。

離宮跡に作られた水無瀬神宮は鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇を祭っています。

山崎の戦い 天正10年(1582年)6月13日

山崎宿

西国街道に山崎宿があり、摂津と山城の境に位置しています。写真付近にあったのが山崎西黒門跡で宿場の西門でした。山崎で有名なのが秀吉と光秀が戦った山崎の戦いです。山崎は隘路になっており新幹線、名神、阪急、JRが狭い場所に集中しています。光秀としては山崎宿で戦うのが有利なのですが、光秀は山崎では戦わないという禁制を山崎に発行していました。油座などで経済が発展していた山崎の経済力を温存したかったようです。ということで山崎を抜けた小畑川が戦場になりました。光秀は小畑川に布陣し、長篠の合戦を再現するつもりだったという説もあります。

■中国大返し
山崎の戦いは秀吉が中国大返しをして勝ったという雰囲気ですが、実際に戦ったのは摂津の高山右近、中川清秀、池田恒興です。もっとも「信長様は生きている」というフェークニュースを秀吉がばらまき、摂津衆をつなぎとめたのが大きかったです。諸説ありますが、中川清秀が山上、池田恒興が淀川沿いを進軍。高山右近軍が山崎にいたところ偶然、光秀軍と遭遇して戦になった模様です。

最初は互角でしたが秀吉軍が到着したため光秀軍は総崩れになった模様です。また秀吉が毛利と和睦した時に黒田官兵衛が小早川隆景から毛利の旗を20本借りています。尼崎まで戻った時に秀吉軍の先頭に旗をたてることで、毛利も秀吉に味方したと思わせるなど、勝つためになりふり構わなかった秀吉が一枚上手でした。

大山崎油座

離宮八幡宮

織田信長の楽市楽座、習いましたね。「座」というのは営業を独占する権利で、座に加盟しないと商売ができませんでした。JR山崎駅前にあるのが離宮八幡宮に大山崎油座がありました。座の構成員は離宮八幡宮の神人で、灯油を石清水八幡宮に貢納する役目がありました。

司馬遼太郎の「国盗り物語」では、若き斎藤道三が、離宮八幡宮の油商人として登場します。永楽銭の間に油を通して、穴のふちに油がついたら、お代はいらないといった口上をして業績を伸ばします。実演販売の鏡ですなあ。もっとも最近の学説では親子2代で美濃の国主になったようで、油商人をもししていたなら道山の父親のようです。

NPV(正味現在価値)

大阪府中小企業診断協会

昨夜は大阪府中小企業診断協会の交流会。毎回、発表が2枠あります。1枠目は「選択と集中の意思決定」で投資案件の採算性を評価する指標であるNPV(正味現在価値)などのお話。NPVとは投資によって将来受け取ることができるお金を現在の価値に換算するといくらになるかということです。

中小企業診断士試験の受験勉強でNPVやIRR(内部収益率)などを勉強した覚えはあるのですが、からきし覚えていません(笑)。なかなか新鮮でした。

武衛陣(二条城)

武衛陣

織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、信長が岐阜に戻ると本国寺を御座所にしていた足利義昭を三好三人衆が襲います。大河ドラマ「麒麟がくる」では光秀が足利義昭を守って戦うシーンが出てきます。岐阜にいた信長は大雪の中、わずか10騎で救援に駆け出します。三好三人衆の攻撃をなんとかしのぎましたが、守りを固めるため信長は武衛陣があったところに二条城を建設します。

■武衛とは
武衛とは天子を守る武官で、将軍のことです。大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」で頼朝が豪族から、最初は「佐殿(すけどの)」と呼ばれます。これは右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)という官位に頼朝がついていたからです。ところが平治の乱が起きたため、わずか15日で解任されます。「佐」が位をあらわし伊豆に流された時に官位はありませんが坂東武者たちは敬意を込めて佐殿と呼んでいます。

坂東の支配が確立していくと坂東武者たちは頼朝を「武衛」と呼ぶようになります。実質的に兵衛府(唐名が武衛)のトップ(督)だと、いう意味です。頼朝も悪い気はしなかったでしょう。

■武衛陣
室町時代になると兵衛権佐の官職は斯波氏の当主が任じられるようになり、同家を武衛家と称するようになりました。斯波氏の館があったところが武衛陣と呼ばれるようになります。館と言いながら櫓を備え堀もあった城郭でした。斯波氏は管領として室町幕府を支えましたが応仁・文明の乱の頃から弱体化しました。尾張の守護でもありましたが、補佐する守護代の織田氏にやられるようになり、やがて守護代の家来だった織田信長が台頭していくことになります。信長にとって武衛陣に二条城を建てる時、感慨深いものがあったでしょうね。

妙顕寺城の遺構が発見される

妙顕寺城の遺構が初めて確認されたと報道がありました。

大政奉還の舞台となったのが現在の二条城ですが、この前にいろいろと二条城があり妙顕寺城は秀吉が築いた二条城です。まずは武衛陣という、もともとは斯波氏の屋敷で将軍御所となった場所があります。武衛陣の近くに作られたのが織田信長が足利義昭のために築いた二条城です。ルイス・フロイスが初めて織田信長と出会ったのが、この二条城の工事現場でした。信長が足利義昭と敵対した後に作ったのが二条新御所になります。

■妙顕寺城
本能寺の辺の後、信長が造った二条城新御所の西側にあった妙顕寺を移転させ、1583年(天正11年)に城を造りました。今も古城町という地名が残っています。信長が本能寺の変で亡くなったことを教訓に堀や天守閣を備えた強固な城でした。今回、遺構が見つかったのが、この城になります。

二条という土地は足利将軍の武衛陣があったこともあり、武家政権の聖地になっていました。ですので信長、秀吉、家康はこの地に城を作ることになります。

ヤマトタケル(伊吹山)

伊吹山

新幹線からよく見える伊吹山です。9合目から最後の標高100メートル少しを40分ほどかけて登れば山頂に着きます。標高が高いので涼しいかなと思っていましたが、山の上も暑さが厳しく登っていると汗だくになります。以前は麓から登れましたが大雨で道が崩れて登山道は閉鎖されています。

伊吹山といえば日本武尊ですね。山頂に像があります。東征の後、素手で伊吹の神と対決しに行きましたが敗れて病身になってしまいます。大和を目指しますが能煩野(亀山)で力つきて亡くなります。日本武尊は東奔西走して戦いますが、宋書倭国伝に倭王武(雄略天皇?)の上表文が掲載されており、先祖代々、東は毛人を征すること55国。西は、衆夷を服すること66国。渡って海北を平らげること95国とあるので、これが日本武尊に反映されているようです。