篠山城(甲賀)

篠山城(甲賀)

篠山城は甲賀町鳥居野にあります。虎口から入ると長方形型の土塁に囲まれ2つの郭跡がまっています。少し藪がありますが、郭の形もよく分かり、もう一つの虎口も残っていました。

篠山城を築いたのは篠山氏です。本家が甲賀五十三家である大原氏で、大原景春が篠山に改姓し初代となりました。秀吉の時代、紀州の根来・雑賀の一揆を鎮圧するため甲賀衆が動員されて太田城・水攻めの堤を築かせましたた。ところが秀吉は不備であったと難癖をつけて甲賀衆の所領を没収します。大原氏はもともと三河武士だったようで篠山景春は徳川家康との関係を築いていました。

秀吉が死ぬと、笹山景春は近隣の代官に取り立てられ、豊臣勢力に備えて篠山城を築城したようです。関ヶ原の戦いの前哨戦となった伏見城籠城戦で徳川側として戦い討ち死にします。家康は功に報いるため、子孫を江戸城警護役や旗本(鳥居野の領主)として遇しました。

「改正三河後風土記」によると会津の上杉景勝を討つため伏見を出て石部で宿泊をしていたところ、水口岡山城主・長束正家が家康を岡山城へ招きます。篠山景春は、豊臣方の陰謀だと家康に告げ、夜中に鈴鹿峠まで家康を送ったと記録されていますが、長束正家は三成とも連携できていないはずですので、どうですかねえ。

竹林城(甲賀)

竹林城

甲賀駅から北に向かうと慶徳寺があり一帯に築かれたのが竹林城です。北側を大原川が流れていて堀替わりになっています。寺の入口付近に、すごく低くなっていますが土塁跡が少し残っています。ただ基部に石積みされ改変はされています。北側にも土塁があるということで寺の裏側にまわると、こちらは少し高めの土塁がそのまま残っていました。

甲賀、伊賀に多い四角形の城郭型で室町時代に造られたでしょうが、詳しいことは分かっていません。周りは住宅地になりましたが何とか残りました。

大原城

大原城

大原城

甲賀駅の近くにある城跡で子孫が今も住んでいます。とは言いながら屋敷などは現代風で屋敷を取り囲む土塁や堀跡がそのまま残っています。

もともとは大原数馬が城主で大原氏は甲賀53家の一つになります。大原氏は今も健在で城跡を居宅しており中世から数百年も城を守り続けています。大原家では忍術書「万川集海」を伝えており、大原数馬らが江戸幕府に献上しました。いわゆる忍術技術書で、伊賀・甲賀で一子相伝とされた忍書からの抜粋を体系的に集大成したものです。

水蜘蛛はでてきますが手裏剣は登場しません。

補陀楽寺城跡(甲賀)

補陀楽寺城跡

補陀楽寺城跡

JR草津線に乗っていると甲賀駅に停車する手前に寺が見えて敷地内に土塁のようなものが見えます。前から気になっていたのでのぞいてきました。補陀楽寺はもともとは近隣にあったのが火災で現在地に移ってきたため、その前に城があったようですが、城に関しては皆目わかっていません。

東西南北を土塁で囲まれていましたが今は北側と東側の2ケ所に残っています。発掘調査の結果では甲賀に逃れた六角氏と織田信長が戦っている頃の遺物が出ていますが、はっきりしたことは分かりません。近くには杣街道(古代の東海道)が通り、JRの線路の反対側には市場陣山城があります。

ミシガン

ミシガン

琵琶湖を就航する遊覧船「ミシガン」。有名なんですが乗ったことなかったので先日、ファイティング・コンサルタンツの面々と乗ってきました。大津は「成瀬は天下を取りにいく」で盛り上がっていて難読地名だった膳所もいまや全国区です。

15時の就航にまにあわせて14時頃に60分クルーズのチケット(2,400円)を買います。近くでビールを飲もうとお店に入るとアルコールはなし(笑)。仕方ないので就航までベンチでだべっておりました。14:50分にミシガンに乗ると3階にあるミシガンバーを目指します。ここビールを売っているのですが船が出てから販売ということで15時まで待って列に並んでビールをゲット。あとは展望デッキで船旅を楽しみます。

ミシガンって1982年(昭和57年)就航で、40年以上の歴史があるんですね。新入社員でプログラマをやっていた頃ですなあ。

ちはやふる 近江神宮

近江神宮

「ちはやふる」の舞台である近江神宮。創建はかなり新しく1940年(昭和15年)です。皇紀2600年を記念し天智天皇を祀る神社としてできました。

■百人一首の聖地
正月に坊主めくりで遊び、蝉丸をひいてしまったと叫んだ人も多かったでしょうが、古式ゆかしい、かるた取りの遊びです。百人一首とは藤原定家が選んだ秀歌集で大河ドラマ「光る君へ」の登場人物である赤染衛門、清少納言、紫式部、藤原公任の歌も採用されています。

この百人一首の第1歌が「秋の田のかりほの庵の苫を荒みわが衣手は露にぬれつつ」という天智天皇の歌で、このために近江神宮で全国高等学校かるた選手権大会や競技かるた名人位・クイーン位決定戦などが行われるようになります。「ちはやふる」の聖地となりましたが、「けいおん」豊郷小学校のような賑わいはないですね。

大津宮

大津宮

「白村江(はくすきのえ、はくそんこう)の戦い」を覚えていますか?
倭の同盟国だった百済を支援していましたが新羅・唐に攻められ滅んだため、中大兄皇子は百済復興のために海外派兵を決定、倭に滞在していた百済の太子を帰国させ戦わせます。結局は白村江の戦いで倭軍は敗北。

実は孝徳天皇や大海人皇子が唐派で中大兄皇子と対立していたのではという説もあり、こうなると朝鮮情勢で対立した物部vs蘇我と同じですね。中大兄皇子は唐・新羅に対抗するため北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて多数の朝鮮式山城を築きます。岡山の鬼ケ城や大阪の高安城はこの時にできました。大宰府では水城など羅城で囲みます。

■なんで大津に遷都?
中大兄皇子は都を飛鳥から大津に移し、天智天皇として即位しますが、なんで大津に遷都したのかが不明です。防御説もありますが敦賀に上陸されて琵琶湖を南下されたら大津はすぐやられます。

天智天皇が亡くなった後に壬申の乱が起き、最後の戦いが瀬田の唐橋で行われ、大友皇子は敗れます。結局、大津宮は5年半だけ使われた幻の都となりました。錦織地域の住宅建築などによる発掘調査で幻の都だった大津宮が見つかりました。住宅地に宮跡が残っています。

ミシガン

ミシガン

大昔はコンサルティング・ファームを目指していたファイティングコンサルタンツ研究会。発足当初は1週間に1回集まるような熱い集団だったことが判明。その熱気はどこへやら単なる散策&酒飲み集団になっています。

昨日は本屋大賞「成瀬は天下を取りにいく」で話題になっている大津へ。いつもはランチから宴会なんですが、蕎麦屋に入ったので宴会する雰囲気ではなく90分の予定が20分ほどの短縮され、ゆったりとした旅でした。大津京跡、近江神宮を巡り、ミシガンに乗船。琵琶湖ってけっこう来ていますがミシガンに乗ったのは初めてですね。

合同会社 清算への道(5)

(10)12~5月の法人市民税・法人府民税納入 
法人住民税(市民税・府民税)と源泉所得税を年2回納付しますが、4月末で解散したので12月~4月分までを納付します。

PC-Deskを立ち上げて納税メニューから個人住民税(特徴)を選んで、5ケ月分を一つづつ手入力します。送付したらメッセージを確認し、納付情報をもとにインターネットバンキングで振込します。源泉所得税の場合は1月ずれて1~6月ですので、こちらも4月分まで納付します。こちらはe-TaxWeb版で申請から新規作成を選んで、納付情報登録依頼をします。源泉所得税(告知分)を選んで送信。メッセージを確認して同様にインターネットバンキングで支払います。

(11)解散・債権申出の公告(解散後遅滞なく)
2か月以上の期限を定め、会社の債権者は申し出るべき旨の官報公告を行いなさいとあります。「エー、官報載せるのに金かかるし債権者なんていないし、みんな本当に載せているのと」とインターネットで官報を見てざっと調べてみましたが合併公告ばかりで解散公告を載せているところはないですね。とりあえず無視して定款で会社のホームページに公告すると記載しているので、とりあえずはホームページに掲載しました。

(12)労働基準監督署への届出
事業廃止の日から50日以内に「労働保険確定保険料申告書」を提出とありますが、経営者は労働者ではないため、そもそも労災保険の対象外ですから、こちらは無視。

【ここまでかかった費用】
清算人個人の印鑑証明書 300円
解散の登録免許税学 39.000円
履歴事項全部証明書4通 2,400円

高野瀬城

高野瀬城

佐々木六角氏に仕えた高野瀬氏の城が高野瀬城です。高野瀬氏は愛智氏の分家にあたり、愛智氏の本貫は尾張国愛智郡で愛智義成から始まります。義成のお父さん(義円)は源義経の兄になります。(頼朝とはお母さんが違います)義成のお母さんが常磐御前で母から愛智郡の所領を受け継いだようです。「鎌倉殿の13人」ではブラック義経にそそのかされた義円が墨俣川で討死にするシーンがでてきます。

■高野瀬城
愛智氏の分家が高野瀬へ移り、高野瀬氏を名乗ります。高野瀬城は近江鉄道・豊郷駅の近くにあり、現在は古河オートモーティブパーツの豊郷工場になっていますが一部だけ土塁が残っています。高野瀬隆重が佐々木六角氏の命令で肥田城を築きますが高野瀬城はそのまま使われたようです。この辺りは北近江の浅井長政と南近江の六角承禎の支配の拮抗する境の城でした。

ところが高野瀬氏が浅井長政へ寝返えり、怒った六角承禎が肥田城の水攻めをしますが失敗。織田信長と浅井長政が対立した時には織田方につきました。柴田勝家に仕え、越前出兵で討ち死にしたようです。