坂上田村麻呂の城 志波城

志波城
志波城とは征夷大将軍である坂上田村麻呂が造営した古代城柵で、蝦夷に対する最前線の城でした。志波城ができたのは蝦夷の首長アテルイを降伏させた翌年の803年(延暦22年)になります。
もっとも蝦夷から見たら、平和に暮らしていた共和国になだれ込んできた、ならず者の帝国軍(坂上田村麻呂軍)ということでしょう。
■征夷大将軍とは
源頼朝、足利尊氏、徳川家康と皆、征夷大将軍です。幕府を開く条件が征夷大将軍になることだと思っている人も多いのですが、そんなことはなく大将軍の一つの役職です。源頼朝が朝廷に大将軍に任命してほしいと依頼したら、縁起が良い坂上田村麻呂を先例としようと朝廷から征夷大将軍に任じられただけです。豊臣秀吉は関白職で、武家も公家も支配していました。
■蝦夷の首長アテルイ
文献に志波城が登場しますが、どこにあるか分からず長らく幻の城でした。東北自動車道建設に伴う発掘で発見、今は公園として整備され南門や築地塀が復元されています。外郭は840メートル四方という広大な城で、自転車じゃないと回れません。
坂上田村麻呂に降伏したアテルイは平安京に連れてこられ、坂上田村麻呂の助命嘆願もかなわず処刑されました。アテルイのお墓は枚方市のどこかにあるようですが詳細は分かっていません。地元の名士ですので、東北本線では急行「アテルイ」が走っています。タカラヅカでは「阿弖流為―ATERUI―」の公演も行われました。
坂上田村麻呂の墓は京都・山科の勧修寺近くに坂ノ上田村麻呂公園があり碑が建っていますが、近年、ここではなく西野山古墳が本命視されています。

ネットを使って魅力発信

大館商工会議所
大館商工会議所で「ネットを使って魅力発信」というタイトルでセミナーをしてきました。
大館には松下村塾が模築されており、大館の将来を明るく夢のある街にしていくためのトップリーダーならんとする人材を育てる場として大館松下村塾が開講されています。この大館松下村塾でのセミナーでした。
塾長は知的生産の技術研究会でお世話になっている高橋さんで、午前中は高橋さんによるマネジメントゲーム、午後が私の担当でした。
講師の話を一方的に聴くような形態ではなく、受講生自らが考えて、行動を起こすような場をというリクエストでしたので、講義半分、演習半分という形で4時間のセミナーをしてきました。皆さん、熱心に取り組んでおられました。

大館へ

大館
お仕事で秋田犬の故郷・大館へ到着。
ザギトワ選手にマサルを送ったのが秋田犬・大館の秋田犬保存会。そして忠犬ハチ公の故郷でもあります。そうそう忠犬ハチ公の飼い主である上野先生は久居(今は津市)出身で久居駅前に上野先生とハチ公の銅像が建っています。
■大館への道
大館と聞いても土地勘がないので、東北新幹線から在来線に乗ればよいと思ったら、東北本線が盛岡までで、そこから先はIGRいわて銀河鉄道になっていました。

IGRいわて銀河鉄道経由を使って大館へ行くこともできますが、本数がない!というわけで盛岡駅から大館駅へ向かう「みちのく号」に乗車。
高速をひたすら走るものだと思ったら、安代というバス停では途中で高速で降りてバス停に寄ってから、また高速に再度、乗りました。オイオイ。高速を降りて、鹿角あんとらあ前からは延々と地道を走ります。そら盛岡ー大館間が2時間以上かかるはずです。
■地元スーパー「ITOKU(いとく)」
そうそう大館は「えだまめ」の産地でもあります。地元のスーパーであるITOKUの野菜売り場を覗いてみましたが「えだまめ」は時期ではないようで鹿児島県産の「えだまめ」が売られていました。時期といえば大館あたりでは、最近田植えが行われたようで、早場米の産地である三重に比べると2ケ月ほど遅いですね。
充実していたのは精肉コーナーで桃豚や比内鶏などが安く売られています。ITOKUスーパーは秋田から青森にかけて25店舗展開しているそうです。
ホテルの横に広大な空地があり、これがジャスコの跡地。タクシーで聞いたら、地元のITOKUに負けて撤退した後なんだそうです。

大石内蔵助屋敷・長屋門

大石内蔵助屋敷・長屋門
播州赤穂城に元禄時代の建物は残っていませんが筆頭家老だった大石内蔵助屋敷の長屋門だけは残っています。元禄14年3月14日に発生した松の廊下での刃傷事件を知らせるため、早かごが仕立てられ、江戸からわずか4日半という通常では考えられない早さで赤穂に到着したのが早水藤左衛門と萱野三平。大石内蔵助に知らせるため、この二人が叩いたのが、この長屋門です。
結局、浅野家は改易となり、大石内蔵助は城を明け渡します。残務処理の後、6月に京都・山科へ移動し、遊興にふけったとあります。映画、舞台では敵の目をあざむくためと描かれていますが、本当に遊んでいたのかもしれません。
お大石内蔵助は家再興を画策していましたが、潰えたため江戸に移動し、討ち入りとなります。切腹した赤穂浪士のお墓は泉岳寺にありますが、幕府は泉岳寺から1kmも離れていた高輪大木戸をわざわざ泉岳寺近くへ移転させます。品川宿と高輪大木戸はすべての旅人が通る道で、必然的に泉岳寺がクローズアップされます。旅人を通じて日本中に忠義の話が伝わるようにしたのは、幕府の教育政策だったようです。
赤穂、山科とも大石内蔵助の屋敷跡は大石神社になっています。

播州赤穂城

播州赤穂城
忠臣蔵で有名なのが播州赤穂城。
元禄の頃は海に面した城で、海が近いこともあり井戸を掘るわけにいかず、はるか先の千種川から上水道を敷設し、城内のみならず城下各戸にも給水するシステムを構築していました。
元禄14年、3代目だった浅野長矩が松の廊下で吉良義央に対する刃傷事件を起こしたことで浅野家は改易となります。この時、喧嘩両成敗ならよかったのですが、吉良は、おとがめなしとしたため、仇討ちにいたりました。もっとも浅野長矩は性格的に問題があったという説もあります。
幕府は仇討ちを後押ししていたようで、吉良邸が北町奉行所などがあった一等地の呉服橋門内から倉庫街の本所へ移され、さも討ち入りをどうぞという形にしたのは有名ですが、江戸幕府はいろいろと仕組んでいたんですね。まず赤穂浪士の1/3がひそんだのが麹町周辺。江戸城は半蔵門が正門ですので、麹町は目と鼻の先、岡っ引きを張り巡らしている幕府が黙認したとしか考えられません。赤穂城は堀と石垣だけでしたが、門や櫓などが復元されています。

稗田環濠

稗田環濠
稗田環濠
大和郡山市にある稗田環濠。広い水堀が村を取り囲んで残っています。現在は5mほどですが往時の水堀は10m以上はあったそうで、西南には大規模な横矢がかかる張出がありました。平城京の羅城門から延びる下ツ道が西の境を通っています。
稗田荘は仁和寺、興福寺領で古市氏(奈良市古市町が本貫)が支配しており、古市氏は筒井氏と覇権を争っていましたので稗田環濠が筒井氏に焼き討ちされたという記録が残っています。また筒井氏の大和郡山城を攻める時、松永久秀側の付城にもなっていました。松永久秀の甥とか嫡男と言われている松永金吾が布陣していたようです。ちなみにiモードを開発した松永真理さんは松永氏の子孫となります。

IT補助金活用セミナー

桑名商工会議所
桑名商工会議所でIT補助金活用セミナー。
まもなくIT補助金の第2期公募がはじまるので、その話なんですが補助金の話だけをしても仕方ないので、前段は「仕事」と「作業」を切り分ける話でした。なるべく「作業」をIT化などで置換えることで効率化する必要があります。宿泊業での事例やAirレジやクラウド会計freeを活用したちょっとした効率化のやり方についてお話してきました。

稗田阿礼

賣太神社
大和郡山の近くに稗田(ひえだ)という集落があります。稗田と聞けば出てくるのは稗田阿礼です。記憶力がすごい人物で帝紀、旧辞を暗記し、太安万侶が稗田阿礼のしゃべる内容をまとめたのが古事記と言われています。
古事記は神代における天地の始まりから推古天皇の時代に至るまでの様々な出来事を記した書物です。江戸時代となり松阪在住の本居宣長が35歳頃から35年をかけて書いたのが「古事記伝」。古事記の注釈書で全44巻でした。
太安万侶については1979年に奈良市の茶畑から墓誌が発見され墓が特定され考古学上の大発見となりました。問題は稗田阿礼で、古事記の序文以外には、まったく登場しません。なかには実在を疑う声もあります。稗田氏はアメノウズメを始祖とする猿女君と同族と言われていることから女性説もあります。
写真は稗田阿礼が主祭神の賣太神社(めたじんじゃ)。

地震で電車がとまる

近鉄東大阪線の新石切駅へ向かうと、案の定、地震で止まっていました。そのまま自転車で谷町四丁目を目指します。
途中、地下鉄の入口近くのコンビニは大勢のビジネスマンがひたすら復旧を待っていました。
1時間半ほど自転車に乗ってマイドーム大阪へたどりついたらエレベータが全部止まっている!大阪府よろず支援拠点は7階にありますが1~3階はホールなので実質、10階分ほどの階段があります。最後にとんでもない難関が待ち構えていました。

息も絶え絶えで大阪府よろず支援拠点にたどり着くと、同じように自転車でたどりついたコーディネータがおりました。というわけで大阪府よろず支援拠点は平常対応しており、朝から相談をこなしています。