
泉北高速鉄道・深井駅のすぐ近くにある株式会社ユニバーサルCEへ。
以前は地下鉄・御堂筋線で「なかもず」へ出て泉北高速鉄道に乗り換えできましたが、みんな乗り換えるので、頭にきた南海電車が泉北高速鉄道からそのまま難波へ出るようにダイヤを変更。各駅停車以外は中百舌鳥駅を通過するようになりました。ということで天下茶屋駅から深井駅へ向かうことに、まあ御堂筋線よりかは早いです。
ユニバーサルCE(略称ユニバ)の会議室に入ると「いい会社にしよう」というスローガンがかかっていて、”今はいい会社じゃないからね”と皆に突っ込まれていました。この会議室でファイング・コンサルタンツ研究会という中小企業診断士の研究会です。
昨日は珍しくまともな話をしてから”餃子の王将”で打ち上げ予定でしたが、”脂っこいものはダメ”とドクターストップがかかっているメンバーがいるため、各駅停車で中百舌鳥駅へ出て、以前によく行っていた”じょうもん”で久しぶりに宴会でした。
若槻環濠(大和)
パンダくろしお
湯浅姓のふるさと

斎藤さんの故郷である斎宮には何もありませんが、湯浅さんの故郷である湯浅には湯浅ふるさと会がありました。
藤原氏だった武将だった宗重が湯浅を支配するようになり、ここを本貫とし湯浅宗重と名乗ります。平清盛が熊野詣している最中に起きたクーデター(保元の乱)に際し、平清盛を助け共に上洛した武将として有名です。それ以降、平家側で戦いましたが最後は源頼朝に降伏し所領を安堵され、鎌倉御家人となります。この武士団が湯浅党となります。紆余曲折があり南北朝時代には全国にバラバラになったようです。
湯浅ふるさと会では年1回、全国から湯浅さんが集まるイベントを開催します。そういえば以前、湯浅城へ登った時に全国の湯浅さんが登っているという話を聞きました。
畠山館(広川町)
白樫城(湯浅)
沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀の国みかん船”

湯浅といえば醤油発祥の地だけでなく、”稲むらの火”でも有名です。
安政南海地震が発生し津波が襲った時、濱口梧陵という庄屋さんが藁の束(稲むら)に火をつけて避難路を確保し村人が助かった史実です。2次被害を防いだだけでなく、偉かったのがその後、住人の多くが家や職を失い、村人は津波の再来におびえて、他の村へ移住する者も出りました。そこで庄屋さんは私財を投じて堤防造りを行います。村人に日当仕事を与えることにもなりました。こうして出来上がったのが広村堤防で、今も海岸沿いに残っています。写真の道路の両側にあるのが堤防です。この庄屋さんがヤマサ醤油の当主です。
湯浅と言えば、もう一つ。”沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀の国みかん船”、そう紀伊国屋文左衛門です。この紀伊国屋文左衛門が生まれたのも湯浅です。紀州出身の松下幸之助が建てた紀伊國屋文左衛門生誕の碑が残っています。
「最初の一滴」醤油醸造の発祥の地 紀州湯浅

お仕事で醤油発祥の地・湯浅へ。少し時間があったので町をぶらついてきました。
鎌倉時代の禅僧が宋で修行して金山寺味噌を持ち帰り湯浅の人に製法を伝えます。味噌を造る過程でそれまで捨てていた、野菜から染み出した水分が、とても美味しいことに気づき、これが醤油の発祥となります。
この湯浅の出身だった濱口儀兵衛が銚子に渡り、できたのがヤマサ醤油です。ですので「最初の一滴」醤油醸造の発祥の地が湯浅となります。
日本遺産にも登録されたそうです。大和ハウスが湯浅を舞台にしたテレビCMを流していましたが、醤油醸造の「角長(かどちょう)」が今も残り、醤油を船で積みだした大仙堀には醤油発祥の地と看板があがっていました。街中に醤油の匂いが漂うのがいいですねえ。
→ 共創共生「湯浅町・醤油少年」
筒井城

大和を中心に活躍した戦国武将といえば筒井順慶、河内から大和に攻め込んできた松永久秀と戦っていました。大和の国人が筒井側、松永側などに分かれて戦ったため大和一帯は戦場となり、あちこちに環濠集落ができることになります。東大寺大仏殿を焼け落ちたのも松永久秀との戦いの一つです。
松永久秀は足利義昭を奉じて上京してきた織田信長にいち早く恭順してしまい、大和の一任を認めてもらいます。あとがなくなった筒井順慶は落ち延びてチャンスを待ち、松永久秀が織田信長を裏切った時に足利義昭に接近、辰市城の戦いで宿敵・松永久秀を打ち破ることに成功します。明智光秀のあっせんもあり織田信長からは大和守護を任じられ、この後、織田信長の戦いに駆り出されることになります。
筒井順慶が危なかったのが本能寺の変。明智光秀はいろいろと恩をかけた筒井順慶は味方についてくれるだろうと考えていましたが、順慶は日和見することなく中立を選びました。明智光秀は洞ヶ峠に出陣し筒井順慶を待ちましたが現れませんでした。後世、なぜか「洞が峠をきめこむ」という日和見をあらわす慣用句として使われるようになります。
■激戦の舞台 筒井城
近鉄・筒井駅の近くにあるのが筒井城です。筒井一族の城で常に激戦の舞台となり、城を取ったり取られたりした平城です。城は微高地になっていますが周りは湿地帯で攻める方は大変。水攻めの舞台となった備中高松城や忍城と同じような形態の城です。今は農地と住宅地になっていますが、堀や土塁の一部が残っています。
筒井順慶は居城を筒井城から近くの大和郡山に城を築き移します。やがて秀吉の時代になると、秀吉の弟である秀長が大和郡山城へ入り、筒井順慶は国替えとなり伊賀上野城を築きます。伊賀上野城には筒井時代の天守台跡が今も残っています。
昔、筒井康隆の小説に「筒井順慶」がありました。
京都橘大学で情報処理講座

1年ぶりに京都橘大学へ行ってきました。
以前は学生相手に情報処理講座を担当していましたが、最近はWOC認定看護士講座だけを担当しています。受講生は学生ではなく北海道~四国から集まった現役の看護士さん。教室でいつ倒れても大丈夫です(笑)。
京都駅から大学まで乗り入れている山急バスで行ったのですが、丘の裾野にバスロータリーができていて終点がこのロータリーになっていました。以前は丘の上が終点だったんですが正門が3月から変わったそうです。
ですので丘の裾野から丘の上の方にある情報処理教室まで、ひたすら階段を上がることに。私の母校の京都産業大学のように階段が多い大学に変貌していました。こりゃ通学するだけで体が鍛えられますなあ。今日一日で講座が終わったのでミニ・アスレチックは終了です。



