大坂城築城残石群

大坂城築城残石群
前島(牛窓)の展望台近くにあるのが大坂城築城残石群。
大坂の陣で廃墟となった大坂城を土に埋めて、造り直すために運ばせたのが瀬戸内海の石です。船で輸送しやすいからで江戸城を造る時は伊豆半島から運ばれました。
けっこうな山の上に広大な石切り場がありました。石垣にするには整形しなけらばなりません。石を割る必要があり、目(割れる方向)を見定めて、石に矢穴と呼ばれる穴をあけて石を割り石垣にしていきます。
残石のなかには松江藩堀尾家(国宝・松江城の城主)、鳥取藩池田家(姫路城城主でしたが池田光政の時代に鳥取藩に移ります)の刻印が残っています。

小野ケ城はどこだ?

倉敷
倉敷の街を見下ろす鶴形山にあるのが阿智神社。応神天皇の時代に渡来した阿知使主(あちのおみ)が住み着いた場所として伝わっています。阿知使主は古代氏族・東漢氏(やまとのあやうじ)の祖となります。東漢氏といえば乙巳の変で蘇我蝦夷、入鹿の蘇我本家が滅ぶ時に最後まで付き従って戦いました。この東漢氏が後に長尾氏となり、戦国時代に生まれたのが長尾景虎。そう、あの上杉謙信です。
■小野ガ城はどこだ?
さて阿智神社で見つけたのが城山稲荷。また倉敷代官所があった倉敷アイビースクエアで見つけたのも同じ城山稲荷です。倉敷アイビースクエアの説明版には戦国時代に小野ケ城という砦があったと記載されていましたが、どうも怪しい。城山稲荷となっているので城山にもともとあったのだろうと登ったのが倉敷アイビースクエアの隣にある向山。お墓や住宅地として開発されており山城の遺構はありませんでした。
となると阿智神社がある鶴形山が戦国時代の砦跡なのかなあ。同じく城山稲荷はあるし、神社境内になっていますが削平地なんで大きな砦を作ることができます。写真は倉敷アイビースクエアで右手に見えるのが阿智神社のある鶴形山です。

倉敷代官所跡

倉敷代官所跡
クラボウ(倉敷紡績)の跡地にできたのが倉敷アイビースクエア。ホテル、レストラン、倉紡記念館などがあります。ここには江戸時代、倉敷代官所がありました。はたまた、その前の戦国時代には「小野ケ城」という名前の城があったそうです。
関ケ原合戦の後、宇喜多秀家が敗れたため、倉敷は徳川幕府の直轄地となり、備中国代官として派遣されたのが茶道や庭園で有名な小堀遠州。陣屋を作り、陣屋を拠点に倉敷湊から大阪冬の陣で使う兵糧米を輸送しました。小堀遠州は豊臣秀長(秀吉の弟)→秀保(秀長の養子)→秀吉→徳川家康と仕えていますので藤堂高虎と重なります。その関係から奥さんは藤堂高虎養女として藤堂家からもらっています。
陣屋は、やがて倉敷代官所となり江戸時代を通じて天領を支配する拠点となりました。倉敷代官所は周りを環濠で囲まれていましたが、一部だけが敷地内に残っていました。代官所時代、倉紡時代を通じて敷地内に稲荷社があったのですが、倉敷アイビースクエアの中を探しても何もありません。稲荷社は道路を隔てた目立たないことに移設されていました。ひょっとすると、この稲荷社は戦国時代の小野ケ城時代からあったかもしれません。

船場総研20周年で岡山へ

牛窓
船場総研の20周年記念旅行で倉敷、牛窓、岡山と巡ってきました。船場総研はパソコン通信Nifty-ServeのFlicフォーラムから生まれた船場勉強会のOB組織です。中小企業診断士試験の勉強会で最新の「企業実務」(同友館)に船場勉強会が紹介されているそうです。
もともとは船場勉強会に参加するOBが受験生の邪魔ばかりするので隔離の意味で20年前に生まれた組織だそうです(笑)私は15年前に合格したので、それ以降に参加しました。
倉敷見学の後、牛窓の先にある前島へ。道中にコンビニやお店があれば買い出し予定でしたが、結局、フェリー乗場までお店がなく、フェリー売場の売店でもお酒は売っていませんでした。フェリーで渡った前島にはコンビニはおろかお店もなく、宿で宴会した後はおとなしく部屋でお酒なしでだべっておりました。健全な夜でした。(笑)

浄土寺城

浄土寺城
安濃は城が密集している城塞群になっていますが、その一つである浄土寺城。 

小高い丘の上に築かれ主郭跡には郷社稲荷神社があります。北畠氏の木造城を攻める為、築城されたとあり。城主は1584年、秀吉の家臣守岡氏が在城したと記録にあります。この時は小牧・長久手合戦の影響で戸木城(現在の久居にあり木造氏の本拠)攻めの包囲網の一つふだったようですが、本当かどうかは分かりません。 

稲荷神社の階段を上がったところが主郭で階段の右側に一段高くなった土塁があり横矢がかかるようになっています。3つの郭がある割と大きな城で、保存状態もよく土塁や堀跡も残っています。高台なので眺めがいいですねえ

成果の出るWeb活用法をモノにする No2

大阪よろず塾
大阪府よろず支援拠点主催のよろず塾ワークショップ。
前回に引き続いて第2回目となり今回もマイドーム大阪8階の会議室で開催しています。18~21時の長丁場で前半は西谷コーディネータが先でソーシャルメディア活用の話。後半は私の担当でホームページを中心とした話となります。
講義の間にワークを2回行いますので、まずは今回も皆さんからの自己紹介をしていただき、ちょうど西谷さんの講義が始まりました。
さあ21時に終わったらビールだあ!

新村猛と広辞苑

今朝、日経新聞朝刊の文化欄に載っていたのが広辞苑の父である新村出。”にいむら”ではなく”しんむら”と読みます。昭和10年に出た辞苑の改訂作業を続け、太平洋戦争で中断もありましたが校正刷りが戦火を生き残り、昭和30年に広辞苑が出ました。これが大ヒットします。
新村出ともに次男でフランス文学者の新村猛が辞書編纂を手伝います。太平洋戦争が終わった後、世界市民の育成をめざしできたのが京都人文学園。この初代園長が新村猛です。主に京都大学の講師陣が教育に関わり、羽仁五郎の自由学園の影響もあって、生徒自治、無試験、無規則、無処罰と革新的な教育をしていました。この京都人文学がめぐりめぐって関西文理学園となります。
昔、関西文理学園が運営する専門学校で働いた時期があり、本部に京都人文学園の設立趣意書などが残っていました。新村猛の名前を見た時には、”エッー、あの広辞苑の新村猛!”と驚いたものです。

清和源氏発祥の地 多田院

多田院
清和源氏武士団発祥の地が能勢にある多田院。現在は多田神社になっていますが付近には多田院という地名が残っています。
源満仲が国司を務めた摂津に土着し、やがて多田盆地を開拓して家臣団を組織し、これが清和源氏武士団となります。能勢の国人だった能勢氏、野間氏、塩川氏などは多田院御家人となります。源満仲(多田満仲)が拠点にした多田院ですが、南と西を川に囲まれ、周囲は高台になっていて、まさに城郭です。
多田神社の付近の地図を見ると、すぐ近くに新田城山公園というのを見つけました。城山という名前がついているのは昔、城郭があったところです。調べてみると住宅地の建設で遺構は残っていませんが、ここにあったのが新田城のようです。塩川氏が拠点とした山下城の出城という説があるようです。

池田恒利の屋敷跡

小城町
池田恒利といえば池田恒興のお父さんです。
池田恒興は織田信長の乳兄弟(信長の乳母が池田恒興の母)で、信長のそばで戦い続けました。信長に謀反を起こした荒木村重の花隈城をおとした後、兵庫城を造り城主におさまります。本能寺の変の後、織田家の行く末を決める清須会議にも参加し、秀吉側につきます。
秀吉が家康と戦った小牧・長久手の戦いでは遠く迂回して三河を攻める作戦に従事しますが家康に見破られ、戦死します。嫡男も戦死したため、家督は次男の池田輝政が継ぐことになります。そう、今に残る姫路城を造った池田輝政です。
さて池田恒興のお父さんだった池田恒利の屋敷跡ですが、何も残っておらず、ただ地名が小城町となっています。前田利家の城のすぐお隣さんだったんですねえ。

前田利家の荒子城

荒子城
久しぶりに名古屋でお仕事
大阪は晴れていましたが名古屋へ出てきたら雪景色。日が当たっているところは雪が解けていましたが、日陰はアウトバーン状態で危ない、危ない。
場所が荒子だったので、ちょっと早いめに行って荒子城跡へ。そう前田利家ゆかりのお城です。このあたり一帯を治めていました。単郭で堀が巡っていたようですが、遺構は何もなく石碑が建っているだけです。跡地は神社になっています。場所は荒子観音の西南200メートルほどのところにあります。