
「近鉄沿線ディープなふしぎ発見」に奈良競馬場跡が載っていました。
秋篠寺の近く、神功皇后陵のすぐ隣にみえるのが巨大な楕円形で、これが奈良競馬場跡です。1939年につくられた一周1600mの超巨大な競馬場でした。戦後、競輪ブームが起きるとパドック等に競輪場を開きます。1954年に競馬場は廃止となり、維持が簡単な競輪場のみとなったそうです。それで横に奈良競輪があるんですねえ。
和田賢秀の墓(四条畷)

大阪府よろず支援拠点の仕事で四条畷商工会へ。途中にあるのが和田賢秀の墓です。
和田賢秀は楠木正季の息子です。楠木正季は楠木正成の弟で、湊川の戦で兄である正成と共に討死しました。楠木兄弟が戦死した後、一門の棟梁となったのが楠木正行です。楠木正成・正行父子が訣別する桜井の別れで有名です。
そういえば高校の歴史教科書から、武田信玄、上杉謙信、坂本龍馬と共に楠木正成の名前もなくなるんですね。
和田賢秀は従兄弟の楠木正行と共に四條畷の戦いに出陣し、討死します。伝説によると、討死の際に敵将の首に噛み付き睨んで放さず、敵はそれが原因で死んだと言われています。
■楠木一族なのに、なぜ名前が和田?
もともとは饒速日命の後裔で、物部氏や穂積氏とは同祖となります。河内国の和田正遠が楠木氏の家系を継承したことから楠木正成一族は楠木の名前を使います。
ただ他の一族は和田を称しており、和田賢秀の兄である和田高家は岸和田古城を築きます。岸と呼ばれた土地の和田からダンジリで有名な岸和田という地名になります。
四条畷商工会でIoTセミナー

大阪府よろず支援拠点の仕事で四条畷商工会へ行ってIoTセミナーを行ってきました。
「未来の年表」(講談社現代新書)という本が話題になっていますが、これから人口減少社会に突入します。今から100年前、夏目漱石がロンドンへ行く途中にパリ博でできたエッフェル塔に登っていますが、当時の人口は3,000万人ほどでした。それが現在は1億2,800万人となり、国内企業の外部環境は右肩上がりで4倍近く人口増加することが前提でした。
いよいよ人口減少社会となり100年先は5,000万人になると言われています。人口が減るなかITによる生産性向上が欠かせません。近未来はこうなりますということを中心にセミナーをしてきました。
大坂の陣巡り

中小企業診断士の集まりであるファイティング・コンサルタンツ研究会で大坂の陣巡りをしてきました。昨年のコース(真田丸跡→安居神社、茶臼山→九度山)の続きです。
まずは河内国分駅に11:10に集合。電車の時間まで掲載したのに、さっそく15分も遅れてくるメンバーがでてきます。まずは駅近くの小松山へ。道明寺合戦の舞台となったところで後藤又兵衛が討死したところです。「後藤又兵衛の碑を見たい」という希望があり、予定にはなかった市立玉手山公園へえっちらおっちら登ります。ここには碑だけでなく供養塔などもあります。急坂なんで「しんどい」と文句が出ますが、碑が見たいと言うたのは誰や!
河内国分駅から若江岩田駅へ。駅前の中華料理店でさっそくミニ宴会。そこからひたすら歩いて若江城跡、木村重成墓を巡ります。飲んでいるので、このあたりから、どんどんと「しんどい」と文句が出始めます。そもそも最初から「今日は歩きまっせえ」って言うてましたやん!
若江岩田から上六へ出て、仁徳天皇の高津宮跡、空堀商店街、榎木大明神などを巡って、最終目的地の大阪城へ。終わってから昔、研究会でよく行っていた谷四の「いつもの場所」へ。結局、2万歩以上歩いた大坂の陣巡りでした。お疲れさまでした。
アマゾンのレコメンデーション

レコメンデーション機能をご存知ですか?
レコメンデーションとはサイトにアクセスしてきたユーザの好みを分析し、そのユーザにとって興味がありそうな情報を選択、表示するサービスのことです。
アマゾンでは、本の紹介の下に「この商品を買った人はこんな商品も買っています」と別の本が推薦されます。アマゾンではデータベースを駆使し、同じ本を買った人がよく買っている別の本を推薦し、関連購買を誘います。これは協調ベース型と呼ばれるやり方です。同じような興味や嗜好をもつ人をグループ化し、そのグループに属する人は同じような行動をするだろうという仮説で商品やサービスを推薦します。
■イタズラ企画があった
以前、知り合いが本を出す時に陰でメールがまわっていました。知り合いの本をアマゾンで買うのと同時にアダルト本を買うようにタイトルが指定されていました。「この商品を買った人はこんな商品も買っています」にアダルト本が出るように狙ったイタズラなんですが、さすがに実行に移す人が少なかったようです。
それはよいのですがアマゾンの推薦本、本業のITや経営戦略などの本を差し置いて、なんで山城の本ばかり並ぶのだろう?
ラズベリーパイからはじめよう!中小企業のIoT導入
大和 畑城

二上山城(雄岳)に登ったついでに麓にある畑城(岡城)に寄ってきました。前回、行った時は道がわからず切岸(崖)を登った山城です。跳水タンク横に道があるのを前回、見つけたのでそちらから登りましたが、結局、迷ってしまい、また切岸を登る羽目になりました(笑)。
山城は大字「畑」にあり「ダイジョウゴウ」と呼ばれている山に山城があります。山城を造ったのはこのあたりを支配した国民(春日社の被官)である岡氏です。大和と河内を結ぶ交通の要地だったので、河内方面の武士の動向を窺いながら大和の他の国民とくっついたり離れたりしていました。松永久秀が大和を支配していた頃は松永久秀に属していました。最終的には織田信長、筒井方と戦うことになる滅んでしまいます。
城跡は藪だらけですが、見事な堀切跡などが残っています。
IoT活用入門セミナー
岸和田古城
大津皇子の墓(二上山)

二上山の雄岳頂上にあるのが大津皇子の墓。円墳になっていて里中満智子の「天上の虹」で有名です(笑)。
大津皇子は天武天皇と大田皇女の間に生まれた子供で、大田皇女は鸕野讃良皇女(のちの持統天皇)の姉でしたが、大津皇子が小さい頃に亡くなり、後ろ盾がありませんでした。そのため天武天皇と鸕野讃良皇女の息子である草壁皇子が皇太子となりますが、朝廷内には大津皇子を推す声も多かったようです。
天武天皇が亡くなると、大津皇子は謀反をたくらんだと捕えられ24歳の若さで殺されます。黒幕は我が子可愛さの鸕野讃良皇女のようで叔母さんに殺されちゃうんですね。ところが草壁皇子が早世してしまい、予定が狂ってしまいます。しょうがないので草壁王子の息子だった文武天皇を14歳の若さで即位させ、実権は持統天皇がにぎりました。これが院政のモデルとなります。
さて大津皇子の墓ですが麓にある鳥谷口古墳が実際の墓ではないかと言われています。姉の大来皇女の有名な歌「うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟と我が見む」とも矛盾しません。濡れ衣かもしれませんが謀反人の墓を都から見える二上山の上に造るのもどうかなという気がする。としたら誰の墓なんだろう。


