
ジョーシス(情シス)というサイトに2016年1月から連載してきましたが、いよいよ最終記事になります。「断捨離しましょう」という記事がアップされていますので、ぜひご覧ください。
内容は最近、よく発生しているFacebookなどでのアカウントの乗っ取りです。知り合いに言われて始めたけれど、いつのまにかやめてしまい、ほったらかしになっているアカウントなどはありませんか。例えば昔、よくやったMixiとか。使わなくなったアカウントは自分でしっかり削除して、少しでもリスクを下げておきましょう。
→ 断捨離しましょう
堺東駅

南海電車の急行などに乗ると難波の次に止まるのが星野リゾート・ホテルで話題の新今宮駅。次が天下茶屋駅で天下茶屋を出たところで南海本線(和歌山へ)と南海高野線(高野山へ)に分かれます。南海高野線を天下茶屋駅から10分ほど走って着くのが堺東駅です。
堺は大坂の陣では最初は豊臣方、冬の陣前には徳川方に味方しました。夏の陣となり徳川方である和歌山の浅野長晟を攻めるために大坂城を出撃した大野治胤(大野治長の弟)は徳川方に味方した堺を焼き、焦土にしてしまいます。真田信繁率いる真田軍が家康本陣に突っ込む時、徳川方を動揺させるため「浅野殿が裏切られた」と叫んだ浅野殿とは浅野長晟のことです。
大坂の陣が終わり、復興事業がはじまります。元和の町割が行われ大小路は東西方向(横筋)の基幹道路として整備され、堺の市街地の東端にある土居川には大小路橋がかけられます。現在、川は埋め立てられましたが大小路という地名は残っています。ここが竹内街道や西高野街道と接続する堺の東玄関となります。堺東駅はもともと大小路駅という名前でしたが、すぐ堺東駅となりました。大小路駅の方が由緒があってよかったのに!
方違神社

堺東駅から少し歩いたところにあるのが方違(ほうちがい)神社。”かたたがえ”や〝かたちがい”とよく間違えられますが、正式には”ほうちがい”です。堺東駅から少し歩いたところにあるのが方違(ほうちがい)神社。”かたたがえ”や〝かたちがい”とよく間違えられますが、正式には”ほうちがい”です。
神社のある場所は三国ヶ丘といって摂津、河内、和泉の境でした。ですので堺市の市章は、三国から市の字を三つ組み合わせた形になっています。方違神社がある三国ヶ丘は摂津国から見ると南にあり、和泉国から見ると北にあります。これで南北が相殺できます。東西も相殺できるので、ここは方角がない土地となります。
陰陽道では方違え(かたちがえ)があり、方位が悪いと前夜に別の方角に行って泊まり、方角を変えてから出発することで凶方を避けました。方違神社なら一か所で三国を旅したことになり、おのずと方違えしたことになります。ということで古くから信仰を集めていました。
方違神社は、けっこう古い時代で応神天皇の時代に祀られたとあります。応神天皇は実在した最初の天皇ではないかと言われ、母は神功皇后です。方違神社の横には応神天皇の孫にあたる反正天皇陵があります。越前から出て新王朝を建てたのではないかといわれる継体天皇は応神天皇5世の子孫となります。
ファイティング・コンサルタンツ研究会
御城番屋敷(松坂)

松坂城に建物は残っていませんが、搦手には御城番屋敷が江戸時代のまま残っていて、現在も人が住んでいます。松坂城は蒲生氏郷が築きましたが、最終的には紀州藩が支配していました。ここを舞台に起きたのが紀州藩田辺詰与力騒動です。
■辞職して浪人に
発端は徳川頼宣が紀州に赴任した時、徳川家康に仕えた横須賀党という武士団が徳川頼宣につけられて紀伊に赴任しました。赴任場所は紀伊田辺で、田辺詰与力となり田辺城主である安藤家から扶持をもらうことになります。
横須賀党の面々は出向扱いで、紀州藩直属の直臣だと思っていましたが、扶持を出している安藤家は自らの家臣と思っています。これが200年にわたる諍いとなります。幕末に安藤家がいよいよ締め付けしてきたので、与力衆20名は集団で辞職し、浪人してしまいます。
■明治維新ですべてチャラ
一橋慶喜を巻き込むなど、紀州藩への復帰運動を行い、6年かかりましたが紀州藩直臣となり松坂の御城番になることができました。そして住んだのが新しく建てられた御城番屋敷です。職場復帰できたので、これで万々歳なんですが、しばらくして起きたのが明治維新。今度は士族全体が失職になってしまいました。士族授産で得た資産を元手に合資会社苗秀社を作り、明治の荒波を乗り切っていきます。現在も苗秀社は存続しています。
蒲生氏郷が築いた松坂城

昨日は朝から松坂城へ行っておりました。松坂には海岸沿いに松ヶ島城があり、北畠家を乗っ取った織田信雄が築きました。やがて近江・日野の領主だった蒲生氏郷が伊勢を収めることになり松ヶ島城に入ります。
蒲生氏郷は織田信長に若い頃から気にいられ、信長の娘と結婚し婿になっています。本能寺の変の時は安土城にいた信長の家族を守りながら日野城に避難させています。
松坂に入った蒲生氏郷は松ヶ島城では城下町の発展がないと思い、現在の松坂城に築城して移転します。松坂城内に櫓や門などの建造物はありませんが、石垣や郭がそのまま残っていて、いくつもある枡形虎口が見事ですね。
郷里の日野から商人を連れてきて、これがカリヨンプラザがある日野町になっています。そういえば昔、蒲生氏郷の伊勢への国替えをテーマにAll Aboutで記事を書いておりました。むりやりペアプログラミン具と結び付けています。(笑)
→ 蒲生氏郷の国替え 秘策ペアプログラミング
松坂の一夜

7月10日(月)に松阪市産業支援センター開設にあわせ、三重県よろず支援拠点まつさかサテライトが併設されました。
本日は担当コーディネータが休みで交代で行けということで、まつさかサテライトに来ております。場所は松阪駅近くの「かりよんプラザ」1階。始業は8:30ですが、8:30に行ってもシャッターが開いていないから、ゆっくり行けばよいと事前に聞いていたので、朝から松坂城を見てからサテライトに行くと既にシャッターは開き、おまけに三重県産業支援センターの理事長が座っていて、あせりました。(笑)
■松坂の一夜
サテライトがある「かりよんプラザ」には江戸時代、旅籠・新上屋があり、本居宣長が尊敬する賀茂真淵と生涯で一度だけ出会って教えを受けた場所です。「松坂の一夜」の舞台として有名で、尋常小学校では教科書に掲載されていました。
当時、松坂の医者だった本居宣長は34歳。 賀茂真淵は江戸に住む国学者で67歳。伊勢へ旅する賀茂真淵に古事記の研究について教えをこいます。二人が会ったのは、これ1回だけで後は手紙による通信教育となります。そして本居宣長は注釈書「古事記伝」を大成させます。
ちなみに本居宣長の子孫が映画監督の小津安二郎です。
走人足止め(杭全神社)

大阪の難読地名の一つが「杭全」。さて、なんてよみますか?
正解は「くまた」。平野郷には坂上田村麻呂の孫が建てた杭全神社があり、祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)です。神社の前には狛犬がありますが、狛犬の手にはグルグルと糸のようなものが巻かれています。
これは「走人足止め」という願掛けだそうです。走人とは家出人のことで、紐を二本用意し、一本を狛犬の足に結んで、願を掛けます。もう一本を持ち帰り、走人(家出人)が残した履物に結んでおきます。これによって走人の居場所がわかったり、家に帰ってきたりするという言い伝えがあります。これが転じてお店では客足が遠のかないように、恋人が離れないようになどの願掛けにも使われています。
平野環濠

大坂の古地図を見ると、必ずあるのが平野の文字。古代から栄えた集落です。坂上田村麻呂の次男である坂上広野麿が”薬子の変”の武功でこのあたりの土地を得て開発しました。広野麿の広野(ひろの)が平野(ひらの)という地名に転訛したと言われています。広野麿ですが、酒の飲み過ぎが原因で死んだといわれています。平野は500年間、宇治平等院の寺領でした。
戦国時代には7つの集落を集めて一つの郷とし、郷の周囲に町の周りに二重の濠と土居を巡らせ防御を整えて自治都市となりました。堺と同じ環濠自治都市です。堺と同様に織田信長から矢銭を要求され、最初は断っていましたが抵抗できず支払うことなります。環濠には13ヶ所の出入口が設けられ各地への街道に接続されていました。大坂の役では、平野に徳川秀忠の陣がおかれたこともあり、戦場となり町は焼け落ちましたが復興されました。
環濠は大正時代ぐらいまで残っていたようですが、昭和になって埋め立てられてしまいました。一部が復元されています。
理論更新研修

中小企業診断士の資格更新要件の一つに理論更新研修があり、毎年、受講する必要があります。どうせ受けるならと一番最初の研修に申込んだら、講師は中村さん、原理事と知り合いでした。
最初はお決まりの中小企業白書についての話。2015年度の大阪府の開業率は5.9%、廃業率は3.6%で開業率が上回っています。開業率No1は沖縄県で7.0%になっています。開業率が増えないので、経営者の年齢分布がどんどん上がっており1997年の経営者で一番多かったのが47歳でしたが、直近は66歳となっています。そら廃業が増えるはずです。
次は中村さんによる営業マンを育成する行動観察の話。自分の得意分野なので、生き生きとしゃべっていました。そういえば昔、知的生産の技術研究会でも行動観察をエルネットさんに話をしてもらいました。なかなか面白い手法です。
→ 知的生産を支援する「行動観察」の概要
後半は原理事による事例演習。飲食業の3つの事例で、実際はどうだったかという話もあり、こちらもなかなか面白かったですね。
