ファイティングコンサルタンツ忘年会

黒門市場

ファイティングコンサルタンツ研究会の忘年会。2008年頃から忘年会といえば黒門市場・寿恵廣です。インバウンド客が1本4000円の神戸牛串を注文し、大トロを食べている横を通り過ぎて、寿恵廣2階の座敷へ。今年は珍しく鰤シャブをした後に雑炊をしましたが、なかなか美味でした。

12時に集合してだらだらと飲み始め、インバウンド客が何組か入れ替わり、昼の営業が落ち着いて店員がまかないを食べている隣で、結局、4時間ほど飲んでました。

挙母城

挙母城

朝、ホテルを出て挙母城跡へ。公園になっていて散歩している人が多かったですね。挙母城は童子山という高台にあります。ここからは三河、尾張、美濃、信濃、伊賀、伊勢、近江の7つの国が見えることから、七州城とも呼ばれていました。もっとも三河、尾張、美濃は見られますが他はどうですかねえ。

挙母城が作られたのは江戸時代になってからで石垣しか往時のものは残っていませんが、1978年(昭和53年)には隅櫓が復元されています。寺部城跡に建てられた寺部陣屋の書院「又日亭」が移築されています。

本丸跡には豊田市美術館と豊田市博物館が建てられています。豊田市博物館は今年の4月にオープンしたばかりで、木が印象的な建物です。「旅するジョウモンさん ―5千年前の落とし物―」をやっていたので研修が終わってから見に行きました。

寺部城

寺部城

豊田にホテルをとっていたので岡崎から豊田に出たついでに夕暮れの寺部城跡へ。

永禄元年(1558)2月、若き家康が初陣を飾った城です。寺部城の城主は今川側でしたが離反して織田信長につきます。今川義元は元服したばかりの家康に寺部城攻撃を命じ家康は三河勢が支えます。家康は周到な戦いをしたようで、譜代の家臣団は「苦しいなかでお育ちになり、軍略は如何かと朝夕、案じていたが、めでたい」と涙を流して喜んだとあります。ただ大久保彦左衛門が書いた三河物語に出てくる話なんで話半分でしょう。ただ今川義元は初陣を評価し恩賞と腰刀を贈っています。

矢作川沿いに築かれた寺部城は土塁などが残り、藪の中には堀切などがありました。家康が天下をとると寺部城に槍の名手だった渡辺守綱が城主として入ります。大河ドラマ「どうする家康」ではジャイアンの声で有名な木村昴が演じていました。以後、渡辺氏が明治時代まで治めます。

岡崎城 持仏堂郭

持仏堂郭

上之郷城、深溝城と廻ったので、ついでに岡崎城へ寄ってきました。さすがに観光客が多いですね。

もともは三河守護代の西郷氏が砦を作り、やがて進出してきた松平一族が岡崎城として拡張整備します。家康はこの城で生まれますが青年期は今川の駿府で過ごしました。家康が関東に移されると田中吉政がさらに整備し、城下町を取り込んだ総構えとします。

小牧・長久手の合戦で連携していた織田信雄が秀吉と単独講和してしまったため、家康は秀吉と対峙することになってしまいました。この時に秀吉の侵攻に備えて三河の城を改修しましたが、岡崎城も改修されました。ところが天正地震(1586年)が発生し、大きな被害をうけた秀吉は戦争どころではなく家康と興和します。

■天守裏側の丸馬出し
天守から廊下橋でつながっている郭があり、ここに持仏堂があったので持仏堂郭と呼ばれる郭がありました。これが武田流の丸馬出しになっていて家康は武田からいろいろと学んで取り入れていました。天守に近づけば、馬出しから即座に反撃する攻撃的な拠点です。それはいいのですが、持仏堂郭なんか撮影している観光客は誰もいませんでした。

深溝城

深溝城

蒲郡駅から2駅行くと三ヶ根駅があり、普通しか止まりません。なんでこんな普通しか止まらない駅で降りたかというと、ここが家忠日記の中心地で深溝城がありました。ということで碑跡を見てきました。

■深溝城の築城
鎌倉時代末から南北朝時代にかけて深溝を支配していたのが三河大庭氏です。御家人だった大庭氏と関係があるかははっきりしません。この三河大庭氏が築城したのが深溝城で近くを東海道の脇街道である平坂街道が通っていました。中世になると松平氏が進出し大庭氏と戦になり、勝利し深溝松平家が誕生します。

■家忠日記
角川文庫から「家康家臣の戦と日常」(盛本昌弘)という本が出ていて、松平家忠が17年間にわたって残した日記があります。城の普請に駆り出されたり、連歌作りで交流したりして、京都へ行った時に里村招巴と対面しています。上之郷の鵜殿氏はこの頃は家康家臣となっており家忠の母は鵜殿氏になります。親戚なので家康が立ち寄ったりもしています。武田勝頼を倒した信長は三河を通って帰陣することになります。家忠はそのための普請などを行っていますが信長の行列を見たようで信長が黒人の弥介を連れているのを目撃しています。松平家忠は関ケ原の合戦の前哨戦となった伏見城の戦いで討ち死にします。

■板倉勝重
江戸時代になると板倉勝重の次男の知行地となりますが、もともと深溝松平家の所領の一つ小美村で生まれたのが板倉勝重。板倉家は深溝松平家の家臣でした。板倉勝重は出家していましたが家督を継いだ弟が戦死したため、家康の直臣となり京都所司代などを歴任します。

上之郷城

上之郷城

西三河で研修の仕事だったので、ついでに上之郷城へ。あくまでも仕事です。上之郷城はよく整備され、城跡からは三河湾が見渡せました。

上之郷城は鵜殿氏の城で鵜殿という名前から分かる通り、本貫は三重と和歌山の県境にある鵜殿です。やがて蒲郡一帯をおさめるようになり、鵜殿長照が上之郷城・城主でしたが今川義元の妹の子で義元の甥にあたり親戚でした。桶狭間の戦いの時は大高城を守っていましたが信長が鷲津砦、丸根砦を築き、大高城を封鎖したため、兵糧をいれたのが家康です。今川義元が討たれた後、家康は独立しますが、鵜殿長照は今川川に留まります。

■甲賀忍者が上之郷城をおとす
永禄5年(1562年)、家康は上ノ郷城を攻めますが、なかなか落ちません。そこで甲賀衆が城内に火を放ち、その混乱の中から攻め入り、鵜殿長照は討死にし、長照の子が捕らえられます。大河ドラマ「どうする家康」にも服部半蔵らが活躍するシーンが描かれていました。

城主・鵜殿長照を討ち取ったのは甲賀衆・伴与七郎という記録が残っています。

家康は駿府にいた正室の瀬名姫と嫡男の竹千代、長女の亀姫らとの人質交渉を行い、今川氏真にとって、親族であった鵜殿兄弟を見捨てられず交渉は成立し双方の人質が交換されます。

生駒ケーブル

生駒ケーブル

日下の直越道に行く前に、まずは生駒山をえっちらおっちら登ります。まずは縦走路に入れる生駒山麓公園を目指します。公園にはアスレチックなどいろいろありますが、生駒ケーブルの古い車両がありました。

生駒ケーブルは大正7年に開業し宝山寺への参詣に活躍します。生駒ケーブルは生駒山上遊園地まで続いています。生駒山上遊園地から大阪平野と奈良が見渡せますので戦中は飛行塔が防空監視所として使われました。そのため生駒ケーブルは金属類回収で廃線になる鉄道が多い中、存続しました。

現在も動いているケーブルとして生駒ケーブルが最も古くなりました。なかなか味わいがある車両でした。

五瀬命負傷碑

五瀬命負傷碑

日下の直越道の尾根道沿いに五瀬命負傷碑があります。最初、気づかずに通り過ぎてしまいました。五瀬命は神武天皇のお兄さんで交戦中に長髄彦の放った矢に当たってしまいました。五瀬命は「我々は日の神の御子だから、日に向かって戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして戦おう」と助言します。って、大坂から大和へ攻め込む前に分かってたでしょうに、よう分かりません。

神武天皇は草香津(くさつ)まで退き、盾をたてて雄叫びしました。草香津は盾津と呼ばれるようになります。草香津から船出して紀州へ向かいます。ところが五瀬命は傷が悪化し紀伊国の男之水門で亡くなりました。和歌山市の竈山神社に墓があります。神武天皇は紀州をまわって熊野から八咫烏を道案内に大和へ攻め込みます。

日下の直越(ただごえ)道

神武天皇・孔舎衛坂顕彰碑

「直越の この道にてし 押し照るや 難波の海と 名づけけらしも」と万葉集にも出てくる古道です。神武天皇が生駒山から大和へ入る時に使った道と言われ、どの道だったかは諸説あります。

一番可能性が高い神武天皇・孔舎衛坂顕彰碑がある尾根道を目指すことにします。生駒山の峰の一つ饒速日山伝承地(ニギハヤヒが天降ったとされる峰)を過ぎ生駒縦走路を「こぶし谷」へ向かいますが、途中に山道を発見。ウーン、日下の直越ポイ道だと分け入ります。

■日下の直越道(尾根道)

山道を進みますが、下草が多く道が見えないところが所々にありますが、途中に日下直越道(尾根道)の道標(板切れ)があり合っているこを確認。夏はまず無理な道です。

日下の直越道には谷筋道もありますが、尾根から攻撃されるので、やはり尾根道でしょう。日下の直越道をひたすら降りていくと神武天皇・孔舎衛坂顕彰碑を発見。日下から少し登ったところにありました。

日下の直越道はハイキングコースとは全然、違う道なので誰も歩いていませんでした。

長髄彦(ながすねひこ)本陣跡

長髄彦(ながすねひこ)本陣跡

神武天皇は吉備高島宮から船で大阪湾に入り、大阪平野は梅でしたので生駒山の麓の港である日下に到着。ここから生駒山を超えて大和に入ろうとしましたが、大和を治めていた長髄彦が立ちふさがり戦いとなります。

長髄彦の本陣が生駒市白庭台の住宅地にあります。近鉄けいはんな線の白庭台駅からちょっと行った矢田丘陵の北の先にあり生駒山を超えてきた敵を高台から迎え撃てます。もっとも生駒山に前線をおいていました。長髄彦は登美能那賀須泥毘古と記載され頭に登美(とみ)がついています。現在も登美ヶ丘や富雄駅の名前が残っているので、このあたりに本拠地があったようです。