阪神優勝

阪神優勝

阪神が優勝しましたが阪神百貨店のいか焼きやジョーシンでよく買っているプリンターインクが安くなるわけはなく縁なき衆生でございます。

阪急阪神ホテルズ直営レストランが安くなっても、そもそも行かないし...堺筋本町の居酒屋で「阪神優勝記念 50分飲み放題450円」を1軒、見つけたぐらいですね。2年ぶりの優勝なんで、あんまり新鮮味がないようです。

1985年に21年ぶりに優勝した時はすごかったですね。なんせ採算を度外視した店主がビール1本21円で提供する飲み屋が多く、大いに利用させてもらいました。暴徒化した阪神ファンがカーネルサンダースの人形を道頓堀に投げられ、その呪いから優勝できなくなったと言われました。

黒木御所

黒木御所

後鳥羽上皇が鎌倉幕府に敗れて隠岐に配流になったのが1221年。それからおよそ100年後の元弘2年(1332年)に鎌倉幕府の倒幕に失敗した後醍醐天皇が隠岐に流されます。後鳥羽上皇は島前の中ノ島ですが、御醍醐天皇は対岸にある西ノ島です。これが黒木御所で黒木とは皮を削っていない木材のことです。130段の階段を上った別所港をみおろす高台にあります。

後鳥羽上皇は19年を過ごして隠岐で亡くなりますが、御醍醐天皇は1年半ほどで脱出をします。大塔宮や楠木正成が倒幕運動をやっていたので希望があったのでしょう。島の豪族たちと交渉して脱出計画を作っていたようです。黒木御所の近くにある別所港には隠岐守護である佐々木清高が島に見張り所を作っていました。今は見付島という名前になっています。

別所港は使えないので山越えをして西ノ島の西側にある港から脱出したようです。佐々木清高もまさか配流した天皇が逃亡するとは考えていなかったようです。

隠岐の島(5) 手形

隠岐に流された後鳥羽上皇に亡くなる前に今まで尽くしてくれた家臣に摂津国(大阪府)水無瀬・井内両荘の領地を与える証文を書きますが、両手で真っ赤な手形を押しています。最後の力を振り絞って手形を押したことが伝わる証文で、国宝になっています。「後鳥羽天皇筆 御手印置文」

隠岐には写しが展示されており、現物はサントリー山崎工場の近くの水無瀬神宮(後鳥羽上皇の水無瀬離宮跡)にあります。このように昔、証文に「必ず払うから」と手に墨をつけて手形を押したので”手形”と言うようになりました。これが約束手形や為替手形となっていきます。

長年にわたり紙で運用されてきた手形ですが、2027年3月末に全廃となり「でんさい(電子記録債権)」に全面移行となります。

隠岐の島(4) 後鳥羽上皇行在所

後鳥羽上皇行在所

「鎌倉殿の13人」で尾上松也が演じていたのが後鳥羽上皇です。承久の乱に敗れ隠岐の島に配流となりました。島前の海士町(中ノ島)にあった源福寺が行在所になりますが、今は敷地跡しかありません。近くに上皇を祀った隠岐神社があります。ここで19年間を過ごし亡くなり火葬されました。

■承久の乱とは
実朝が暗殺され北条氏が政権を牛耳るようになり頭にきた後鳥羽上皇は城南寺(鳥羽)で流鏑馬を行うという名目で1700ほどの西国武士を集めます。北条義時追討の院宣が出され、義時は朝敵になってしまい頭をかかえこんでしまいます。この時、北条政子が「頼朝公のご恩を忘れるな」と大演説をぶち、東国武士は迎え撃つことで一致しますが、大江広元が迎撃論を抑え込んで、都へ向けて出撃させます。ちなみに大江氏の子孫が長州毛利家です。

後鳥羽上皇の意図は倒幕ではなく、北条から三浦にすげかえることを狙っていたという説もあります。後鳥羽上皇は敗北し戦争放棄を宣言します。古代から「武」で権力を維持してきた天皇が軍事に口を出さないと宣言し、武士の時代がはじまることになります。

■鎌倉幕府が全国組織に
敗北した西国の武士や貴族の荘園に東国武士が入り鎌倉幕府は地方政権から全国政権になります。ただ土地本位制だった東国武士が貨幣経済に巻き込まれてしまうことになります。

■小倉百人一首とは
藤原定家の私撰和歌集が小倉百人一首。正月のカルタ遊びでおなじみですが、どうも後鳥羽院の鎮魂のためにつくられた和歌集のようです。歌い手の多くが政争で負け零落した人物が多く、また藤原定家は後鳥羽上皇と近かったのですが、承久の乱が起きた時に裏切っています。これが百人一首を作る動機の一つになっているようです。

■徳川家康の遠大な根回し?
吾妻鑑などをよく読んでいた家康は朝敵になると、えらいことになると思ったのでしょう。天海に命じて寛永寺のトップに京都から皇族を迎える制度を作りました。反徳川勢力が京都の天皇を擁しても、幕府が朝敵にならないための仕掛けでした。実際、戊辰戦争では寛永寺にいた輪王寺宮能久親王が奥羽越列藩同盟の盟主になっています。

隠岐の島(4) フェリー事情

別府港

島後の西郷港と島前の3島はフェリーで結ばれています。島前では中ノ島の菱浦港、西ノ島の別府港、知夫里島の寄居港を巡ります。このフェリーですが6月17日から繁忙期を除いて1日3便から2便になりました。運行している隠岐汽船によると船員不足が減便の理由のようです。

島後は空港がありますが島前はないのでフェリーで本土にでるか島後に行くしかありません。時刻表をみると本土へ渡ると、帰れるのは翌日になってしまうんですね。問題は食料品で、本土(七類港)を9時半に出て別府港に12時に着くフェリーがなくなってしまい、本土(境港)を14時に出て別府港に17時に着くフェリーに食料品を積み込みことになります。この時間になると夕方の買い物時間に間に合わなくなります。

万博

ネパール館

万博に行く予定はなかったのですが、諸事情から行くことに

台風通過でキャンセルが多く、すいているのではないかというのは甘い期待で、昼から行ったら東口は長蛇の列でした。9月になったことで駆け込みが多いですね。

最後まで開館が遅れていたネパールパビリオンにも入ってきましたがクーラーがよく効いていました(笑)。面白かったのはコモンズ館Aの誘導で、UAE(アラブ首長国連邦)と同じでフリーパスで行列をどんどん入れて出しています。ちょうど雨あがりで虹が出ていて、「どんどん進んでください。虹の写真なんか撮ってないで、とにかく前へ進んで」とか「間隔をあけていると割り込みする悪い人が出てきますよ、さあ間隔をつめて進んで、進んで」とアナウンスしてました。

隠岐の島(3)スーパーマーケット事情

スーパーマーケットひまり

隠岐のスーパーマーケット事情

■島前と島後
隠岐諸島は島後(どうご)と島前(どうぜん)から成り立っています。都にちかいほうが島前になりますが、越前、越後と同じです。昔は道後、道前だったんですが江戸時代の役人が「島」と書き間違えて以来、島後になったとか、隠岐の人に聞きましたが、ほんまかいな。でも島と書いて確かに「どう」とは読みませんなあ。

■スーパーマーケット
道後は平野が少なく空港やフェリー乗場などがある西郷湾のあたりが中心地になります。道後にあるスーパーマーケットは2軒だけですが、この平野にあります。現在、ショッピングセンターひまり(Himari)が改装中で、なんでも平の前ショッピングモールができるそうです。もう一軒のスーパーマーケット「ショッピングプラザ サンテラス」が車で5分ぐらいのところにあり、人口減のところ、なかなか熾烈な戦いですね。

紀田順一郎さん  亡くなる

MACの達人―紀田&松田のFAX交遊録

あれまあ、紀田順一郎さんが亡くなったんですね。

ワープロの時代からデジタル化をすすめていた御仁です。MacSEを使っていた頃、「MACの達人―紀田&松田のFAX交遊録」という松田純一氏とFAXを使った対談集を出しており、面白かったですね。Apple2のヘビーユーザでもある両氏が1985年~1987年にやりとりしたFaxをまとめたもので、ちょうどMac Plusが出た頃でした。本には漢字Talkは期待はずれだが一太郎はいいと言った話題がでてきます。演算星組の書道シュミレータやHyperCardなど懐かしいなあ。

また神保町など古書の造詣も深く、「古本屋探偵の事件簿」などは古い本なんですが新刊にリメイクされて出ています。本屋で見かけカバーから帯から全部変わっているので思わず買いそうになりました、危なかった
(笑)。本には稀覯本(きこうぼん)を巡る騒動「殺意の収集」などが収録されています。この分野は「ビブリア古書堂の事件手帖」に引き継がれています。

隠岐騒動

隠岐騒動

幕末の動乱期、天誅組など各地で小競り合いが起きましたが、隠岐でもあったんですね。隠岐は天領でしたが、松江藩が実効支配をしていました。隠岐にも外国船があらわれ上陸するようなことが発生します。ロシア軍艦のよる対馬占領事件も起きる時代だったので騒然としていたのでしょう。

慶応4年(1868年)に隠岐島民が隠岐島民が松江藩の郡代を追放し、80日間にわたる自治を行ったのが隠岐騒動です。騒動を起こしたのが私塾・膺懲館で学んでいた若者です。隠岐出身で中沼了三という人物がいて、この中沼了三が京都で作った塾で学んだ若者が隠岐に戻って作った塾でした。騒動は鎮圧されましたが明治新政府になったことから島民、松江藩ともども処分を受けました。

津では藤堂監物による監物騒動もあり、各地でこんな騒ぎが起きていたのですね。

隠岐の島(1)

隠岐

奥さんと隠岐の島へ 

なんでも離島巡りにはまっていて、旦那をおいて、いろいろな離島へ行っています。「隠岐の島なら行く」ということで隠岐へ。

■隠岐の島ウルトラマラソン
大阪府中小企業診断協会に「走る診断士」という青いTシャツを着た謎の集団があります。「走るためなら死んでもいい」というストイックな団体で、この団体が押し寄せる大会の一つが隠岐の島ウルトラマラソンです。なんで参加費まで払って100kmも走らないといけないのか、よう分かりませんが、まあ人にはいろいろな趣味がありますので強いことは言えません。

前泊、後泊しないといけないし終わった後に宴会をしますので隠岐の島の経済効果には大いに貢献しています。

隠岐の島との空の定期便は伊丹空港と出雲空港の2路線だけですが秋などはチャータ便が各地から出るようです。船はジェット船で1時間半ほどで本土と結んでいます。