飛鳥おもいで堂

飛鳥おもいで堂

飛鳥へ行ったついでに飛鳥おもいで堂へ寄ってきました。

飛鳥って果物や野菜などは販売していますが、意外におみやげ物が少ないのです。飛鳥おもいで堂では店主が3Dプリンターを使って埴輪グッズなど、様々なオリジナル商品などを作っています。

場所は石舞台古墳へ向かう道の途中にあるCafeことだまの裏側(駐輪場、駐車場)にあり、倉庫を改造した建物です。って、初めて行ったのですが(笑)

店主は西川さんという中小企業診断士仲間です。

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猿石

猿石

久しぶりに飛鳥へ出かけてきました。飛鳥駅の近くに吉備姫王墓があり、ここに猿石があります。以前に来た時は木々が生い茂っていたのですが、きれいに整備され見やすくなっていました。猿石はもともとは赤穂浪士の討入があった元禄15年(1702年)に田んぼから掘り出されました。

今昔物語集にも出てくるので欽明天皇陵の麓に昔からあったようです。高取城の入口にも猿石があり、掘り出された猿石群の一つだったものが高取城の築城時に運び去られたといわれていますが諸説あります。

北山城

北山城

北山城1988年、奈良大学城郭研究会によって発見された城です。多武峰城塞群は御破裂山城を中心に広い範囲に城郭跡が拡がっており、北山城は下居出城の西側で見つかった城です。談山神社から談山城、御破裂山城を経由し、念踊堀地区の城郭群はスルーして北山城を目指します。

■北山城
北山城の縄張図の地図しかなかったため、これかいなとあたりをつけて山林道から近くの山を登りますが、はずれが2回続きます。なかなか疲れます。ようやく手力雄神社手前で山林道からはずれる山道を発見、進んでいくと目印になる石仏があります。この石仏の裏側から尾根沿いに小規模な郭が続きます。各郭の高低差が大きく、主郭にたどりつくまで、ほとんど登山です。主郭からは、いくつかもの尾根沿いに小規模な郭が続いており堀切もありました。

■大和永享の乱の舞台
北山城については奈良大学の千田先生がまとめた資料があり、それによると1438年(永享10)に起きた大和永享の乱で幕府軍に対抗するために越智氏と箸尾氏が倉橋陣で戦い敗れた記録があり、北山城は大和勢の詰めの城として機能していたようです。北山城からの帰りは山林道をずっと下っていくと倉橋に着きました。距離的には談山神社と倉橋との間ぐらいで、北山城へ行くには倉橋から登るより談山神社から降りる方が楽そうですね。

御破裂山城

御破裂山城

談山からさらに登っていくと多武峰の頂上となり御破裂山という名前になっています。

藤原鎌足の廟所があり天下に異変があると鳴動するといわれ御破裂山と言われています。ここも多武峰城塞群の一つで廟所が郭になっていて帯郭が巡っています。北側には堀切があり、また談山から登っていく途中にも堀切がありました。ここには展望台があり大和三山や二上山がよく見えます。

談山城

談山城

談山神社の横から山道を登って多武峰を目指します。雪中行軍になってしまいましたが、頂上の手前にあるのが談山(かたらいやま)。中大兄皇子と中臣鎌足が乙巳の変の密談をした場所ですが、こんな高い山まで飛鳥から登るんですかね。岡寺の裏あたりで十分のような気がします。

戦国時代、談山は山城でした。ただ砦のような出城だったようで主郭と帯郭で構成されたこじんまりとした城になっています。大和では

永享合戦 永享10、11(1437,1438)年 後南朝+越智+箸尾 VS 室町幕府
永正合戦 永正3(1506)年      越智+箸尾+十一 VS 赤沢朝経(細川政元)
永禄合戦 永禄2-6(1559-1563年)   十一 VS 松永久秀

と多武峰から飛鳥にかけて合戦が行われました。談山が砦になったのは永享合戦の頃のようです。

雪の談山神社

談山神社

天気がよさそうなので、未踏の北山城(多武峰城塞群の一つ)を目指すことに、まずはベースになる談山神社を目指します。桜井駅からバスで深い山に入っていくと、あたりは雪だらけ。昨日、積もったんですね。十三重塔など社殿は雪だらけ。

晴れているので木の枝に積もった雪がボコボコと爆弾のように落ちてきます。

太田城

太田城

丸勘城から山裾を進んでいくと太田集落に城があります。尾根の先端に作られたなかなか規模の大きな城でした。事前に調べると太田城へ行くには王田神社を目指せと書いてあるんですが、神社への急な階段は崩落していて通行止めになっていました。脇に道があったので登っていくと、これが堀道になっていてようやく郭に到達。堀切で遮断された郭が続きます。王田神社も高台にあり出城になっているようです。

城を堪能した後に、近くに別の城があるということで池横をずっと進んでいきます。隣の尾根先の春日社にも城があり、郭が連続していました。春日社が主郭で一城別郭になっているようです。それにしても大きな城ですねえ。城主は地元の松井氏といわれていますが詳しいことは分かっていません。明智光秀の丹波攻略では光秀に従ったようで本能寺の変の後に帰農したようです。

丸勘城

丸勘城

亀岡市稗田野町鹿谷(ろくや)に丸勘城という平山城があります。別名を鹿谷城ともいいます。北面の武士だった竹岡氏が野武士となり、南北朝時代には丸勘城に移り住んだようです。八木城の南側を守る位置にあり明智光秀の丹波攻略で落城します。

丸ヶ条集落の小高い丘に築かれていて、とても分かりにくい民家の間の細道を登っていくと小さな祠があり、ここが郭になっています。虎口があり、ここから主郭に入ることができます。主郭はけっこうな広さで周りを帯郭が巡っていました。あまり技巧的ではなく、縄張りはわりと単純ですが、集落の中によく残っています。

井内城

井内城

湯の花温泉の峠を越えて今度は下っていきます。目指すは井内城です。城への行き方を事前に調べると372号線から小道に入ってしばらく行ったところに獣害防止フェンスの入口があると記載がありました。

着いてからいろいろと探しますが、なかなか見つかりません。ようやく見つけたのがビニールテープで結んだ簡易的な入口です。こりゃ、分かりませんでえ!とりあえずテープをはずして中に入り、もう一度結び治します。なんとかフェンスの中に入れましたが、その先はいきなり崖になっています。

■井内城
もともとの城の虎口は山の反対側にあり、こちらは一番高い主郭になっています。何とかよじ登り始めると竪堀に入れました。あとは竪堀に沿って登っていくと、主郭に到達します。主郭はなかなか広く、主格から4つの郭が連続していて、土塁や堀跡がしっかり残っていました。

今は藪だらけで外が見えませんが篠山街道を見張るには最適な城でした。もともとはこのあたりの豪族だった井内氏の居城だったようです。明智光秀による丹波攻めで天正6年に攻め落とされました。

篠山街道(湯の花温泉)

湯の花温泉

亀岡駅を降りて井内城を目指します。けっこう距離があるので事前にバスの時間を調べると9時15分に出るバスがありました。ところが亀岡駅を降りるとバスがいない。よく見ると9時15分発は平日ダイヤで土日はほぼ2時間に1本でした。次のバスまで1時間以上あるので、待つのも面倒だしと歩き始めます。城は篠山街道沿いにあるので、ひたすら篠山街道を歩きます。

篠山街道は山陰と亀岡で分かれ篠山を通って矢名瀬で再び山陰道に合流するまでの約90kmの街道です。明智光秀が八上城など丹波平定をするために使った街道でもあります。Googleマップを見ながら篠山街道を進んでいきますが、途中で372号線を通るコースと篠山街道をそのまま進むコースに分離します。そのまま街道を進んだ方が距離が短いなと判断したのが運の尽き、だんだんと坂道を登ることになります。

そして現れたのが湯の花温泉です。昔、泊まりに行った時に、えらい山の上だなと思ったのを思い出しました。今さら遅いですね(笑)。結局、峠越えをして372号線と合流しました。