「らんまん」とローマ字会

らんまん

「らんまん」を毎朝、見ているのですが、要潤さん演じる田邊教授がローマ字化をすすめるという話が出てきて、朝からびっくり。田邊教授が奥さんとの会話をしており、森有礼大臣が公用語を英語にしようという動いているが、それよりもローマ字化が必要だといった内容です。昨今は「かな漢字変換」という便利なものがあるので、漢字を書けない人が私も含めて増え、また外国人が人口の10%ちかくになるという報道を見るとローマ字化は再検討ですね。

■日本ローマ字会
いろいろ調べると田邊教授のモデルとなった矢田部良吉は羅馬字会(ろーまじかい)を設立します。ここが採用したのがヘボン式ローマ字です。この羅馬字会が発展し日本ローマ字会になっていきます。第二次世界大戦後、日本ローマ字会と日本のローマ字社に分かれ、日本ローマ字会は京都に移り、会長に梅棹忠夫先生が就任します。この頃に私も日本ローマ字会に関わるようになります。

1999年にワープロやパソコンでのローマ字書きに対応した99式ローマ字を発表します。例えば「つ」なら「TSU」→「TU」になります。そうか、ローマ字会に田邊教授が関わっていたのか!万太郎の敵役になっていますが、明日から応援しよっと!

中央線 400系

400系

6月25日からOsaka Metro中央線の新型車両400系が走っているのですが、ようやく乗れました。なかなか面白い見た目で宇宙船をイメージしたデザインだそうです。中央線は関西万博ではメイン路線になるので、それにあわせたデザインだそうです。デザインよりも冷房がよく効いていたのがうれしいですねえ。

反正天皇陵

反正天皇陵

方違神社のすぐ隣にあるのが反正天皇陵(田出井山古墳)です。反正天皇は「倭の五王」のうち珍に比定され、実在した天皇と考えられています。きれいな歯並びだったそうで瑞歯別皇子(みつはわけのみこ)という名前が日本書紀に記録されています。

日本書紀では仁徳天皇陵、反正天皇陵、履中天皇陵の順に墓を造ったとあり、近年の研究では上石津ミサンザイ古墳、仁徳天皇陵、田出井山古墳の順に造られたようので、それでいけば現在の仁徳天皇陵(大仙古墳)が反正天皇陵という確率が高くなります。となると方違神社の隣にあるのは履中天皇陵かも。

方違神社

堺で仕事だったので方違(ほうちがい)神社へ寄ってきました。

方違神社

昔、方違え(かたたがえ)という風習がありました。仕事先から東の方向にある自宅へ帰ろうとしたら、東の方角に方違えの対象となる神様がいると、真っ直に家へ帰ると差しさわりがあります。そこで、いったん他の方角にある知人宅などで一夜を明かして翌朝家に帰ると、東への移動を避けられます。家に帰らず、飲みに行く時の言い訳じゃないのかとも思いますが(笑)昔はけっこう信じていたようです。来年の大河ドラマ「光る君へ」は紫式部の物語のようですが、源氏物語の「帚木」に光源氏が方違えするシーンが出てきます。

堺にある方違神社は「どの方角にも属さない」神社で方角の厄を取り除くそうです。ですので、家の普請、転宅、旅行等には最適です。このあたりは摂津、河内、和泉の境界で、どこの国にも属さない方位の無い清地であると言われたことが発端のようです。ですので堺や三国ヶ丘の地名が今も残っています。

太子堂

太子堂

八尾での仕事の帰りに太子堂へ寄ってきました。ここは物部守屋が滅んだ地で、住宅街にポツンと大聖勝軍寺があります。

587年に丁未の乱が起きます。日本史では崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋の戦いと習いましたが、実際は物部氏の勢力地には阿刀(あと)氏や鞍作氏など崇仏派もいて、しかも渋川廃寺まで作っていたので本当は王位継承をめぐる争いだったようです。ただし渋川廃寺は丁未の乱の後に建立されたという説もあります。

初戦は餌香川(えがのがわ、今の石川)と旧大和川の合流地点でした。近鉄・安堂駅の近くですね。蘇我軍が物部軍の先遣隊を破り、聖徳太子は高井田横穴墓群がある高井田から指揮していたといわれています。戦場は河内国渋川で大聖勝軍寺には守屋塚などがあり、寺の南にある光蓮寺が守屋軍の砦といわれています。ただ守屋が討たれたのは衣摺(きずり)で、もう少し北にあり光泉寺には守屋の稲城跡の碑が建っています。大聖勝軍寺とは4.5kmも離れていますので広範囲な戦場だったようです。

仏教を信仰した聖徳太子にとって物部守屋を滅ぼしたのは、かなり打撃だったようで、各地に鎮魂のためのお寺を作っています。四天王寺は元は玉造にあったそうで、一帯が物部守屋の土地で邸宅跡に作られたそうです。玉造のすぐ横の「森ノ宮」は「守屋の宮」が変わったのではという説もあります。信濃も物部氏が支配する土地で、善光寺には守屋柱があり、ここも鎮魂の寺になっています。

小田原城・総構

山ノ神堀切

先月、茅ヶ崎で集会があった後、大阪へ帰るついでに小田原駅に寄ってきました。目的は小田原城です。とは言いながら天守閣は以前に行ったので今回はパス。小田原駅の北側からひたすら坂を登って城山を目指します。戦国時代の小田原城には城の周りに長大な総構があり、武田信玄、上杉謙信、秀吉が小田原城を攻めましたが落城することはありませんでした。秀吉は小田原城攻めで総構の鉄壁さを知ったため、このあと大坂城にも取り入れています。

市街地にあった総構は早川口など一部には残っていますが、山側の総構が比較的によく残って整備されています。山ノ神堀切、稲荷森、小峰鐘ノ台大堀切と巡ってきました。小田原駅にいた、たくさんの観光客の誰一人もこんな場所にはいませんね(笑)。

大庭城

大庭城

先月、鎌倉巡りをした後、藤沢という所へ泊ったので朝から大庭城へ出かけてきました。藤沢駅からバスが出ていました。大庭城は城址公園として整備されていて登りやすくなっています。この地域にあったのが大庭御厨という伊勢神宮領、いわゆる荘園です。大庭氏が支配していましたが、石橋山の合戦で大庭景親(國村隼さんが演じてました)が源頼朝を打ち破ります。結局は頼朝に負けますが、景親の兄である大庭景義が頼朝に仕えていたので御家人としては残ります。

大庭城は大庭氏の拠点として作られましたが、本格的に手をいれたのは太田道灌のようです。後に後北条氏が改造しました。台地の端に築かれた城で、空堀や土塁が残っています。台地の端に連郭式に郭が作られており一番奥には建物跡などが見つかりました。同じ連郭式の深大寺城に似ています。切岸の下には帯郭が見事に残っていました。後北条氏の時代のようです。

薩摩藩伏見屋敷

薩摩藩伏見屋敷

今は石碑しかありませんが丹波橋駅からずっと西に行ったところに薩摩藩伏見屋敷があります。寺田屋で襲われた坂本龍馬が深手をおって材木屋に隠れ、お龍が助けを呼びに行った先です。龍馬はこの薩摩藩邸に運び込まれます。傷がある程度、癒えると薩摩藩の計らいでリハビリのため、お龍と霧島(九州)へ向かいます。これが日本最初の新婚旅行になります。高千穂峰では天の逆鉾を抜こうという、迷惑行為をやっています。当時はSNSがなくて良かったですね。

NHK大河ドラマ「篤姫」ではが京の近衛家に仕えていた老女・幾島(松坂慶子)によって篤姫(宮崎あおい)が、お姫様養成のための特訓が行われた場所です。鳥羽伏見の戦いでは御香宮神社に本陣を置いたため、伏見屋敷は会津藩によって焼かれてしまいました。そうそう、龍馬は経済感覚が強く、討幕に動き出したら長崎運上所の金をおさえるよう土佐藩の佐々木高行事前に言っております。鳥羽伏見の戦いがはじまった時に亡き龍馬に従っておさえました。金がなけえば戦はできません。

ファイティング・コンサルタンツ伏見散策

寺田屋

ファイティング・コンサルタンツという、いまや単なる飲み会集団があります。丹波橋駅に集合し伏見探訪へ。まずはブラタモリでも紹介されていた総本家駿河屋・伏見本舗で羊羹の買い出し。買い出し後は大手筋商店街でランチです。ランチと言いながら内容は宴会です。ようやくランチが終わって街歩きへ。ここまでで2時間が経過。

鳥羽伏見の戦いで薩摩藩などが本陣を置いた御香宮神社へお参りし、すぐ近くにある伏見奉行所跡へ。こちらは新選組や会津藩など幕府軍側です。指月伏見城跡を見ながら宇治川まで出て、月桂冠まで歩いたところで「甘酒サイダーが飲みたい」との声が。歩いて1時間しかたっていませんが、しようがないので、おっさん連中には似合わない月桂冠旧本社で、しばし休憩。次に寺田屋を目指すと16時で閉館でした。ランチで宴会したのが失敗でしたね。外から眺めて薩摩藩屋敷跡まで歩き、夜の宴会へ向かいます。

八幡神社(新羅三郎)

いざ鎌倉へシリーズもいよいよ最後です。

八幡神社(新羅三郎)

祇園山見晴台から下ると八幡神社の境内に着きました。案内を見ると新羅三郎が勧請した神社と記載されていました。おお!新羅三郎!

河内源氏の祖である源頼義には息子が3人いました。長男は八幡太郎義家、次男が賀茂次郎義綱、三男が新羅三郎義光です。長男は石清水八幡宮で元服したので八幡太郎、次男は加茂社で元服したので加茂次郎に、三男は新羅明神(三井寺)で元服したので新羅三郎になりました。

源頼義は奥さん(桓武平氏)の実家から鎌倉の大蔵にあった邸宅や所領、郎党を譲りうけ、鎌倉を拠点に東国経営に乗り出します。鶴岡八幡宮も最初は頼義が由比郷に石清水八幡宮から勧請したところからスタートしています。なので河内源氏の七代目の頼朝は大蔵に幕府を開きます。

陸奥で起きた「前九年の役」では朝廷から源頼義、源義家親子が派遣され、この時に奥さんの実家から譲られた坂東武者を引き連れています。後三年の役では、長男の義家を助けるため、新羅三郎が官職をなげうって駆けつけたと伝えられ、その途上、鎌倉で疫病が流行っており、京都の祇園社を勧請し八雲神社を創建したそうです。そんなことをしている暇があったのですかねえ。

■甲斐武田家
この新羅三郎の子孫が、ひたちなか市にある武田に居を構えますが争いに敗れ甲斐に流されます。これが甲斐武田家になります。新羅三郎の家として御旗という日の丸の旗と楯無という鎧が代々伝わります。武田家では重大な決定をする時に家宝の「御旗」と「楯無」に誓約します。武田信玄が出陣時に「御旗楯無 御照覧あれ」と発するシーンがよく出てきます。