
「櫻の井」がある若桜神社ですが、ここが城跡になっています。桜井駅から近いので時間があると寄っています。社殿の周りを土塁が巡り特に西側の土塁が見事です。西側と南側には堀切もあり市街地で城跡が楽しめるのがいいですねえ。東側は神社への階段などがつくられているので、こちらの遺構は残っていません。谷氏という武士がいたようで、この谷氏の城といわれています。
「櫻の井」がある若桜神社ですが、ここが城跡になっています。桜井駅から近いので時間があると寄っています。社殿の周りを土塁が巡り特に西側の土塁が見事です。西側と南側には堀切もあり市街地で城跡が楽しめるのがいいですねえ。東側は神社への階段などがつくられているので、こちらの遺構は残っていません。谷氏という武士がいたようで、この谷氏の城といわれています。
奈良に春の訪れを告げる「お水取り」です。
■お水取りとは
3月12日深夜に二月堂の前にある閼加井屋(あかいや)に水を汲みにいくことから「お水取り」と呼ばれるようになります。この水は若狭国から10日かけて地下を通ってやってきます。「お水取り」は修二会(しゅにえ)という不退の行法で3月1日から14日まで行われます。修二会が始まったのは大仏開眼の年である天平勝宝4年(752年)。不退の行法ですので以来、途絶えることなく続き今年は1274回目になります。
修行を行うのは11人の僧侶で練行衆と呼ばれます。以前、NHKが練行衆の修行に密着した番組を放映していましたが深夜まで五体投地などすさまじい行法をやっていました。有名な火の松明は練行衆が二月堂に登廊を登る時の道明かりです。これが江戸時代ぐらいから大きくなり練行衆を先導する童子の見せ場としてパーフォーマンスされることになります。
■スケジュール
練行衆登壇の30分前になると二月堂付近の木々などに消防ホースで大量の水が掛けられます。20分前になると修二会の解説があり、その後に英語、中国語による短めの解説があります。ハングルはないんですねえ。直前になると付近のライトが消え、真っ暗な中、鐘が響き、二月堂への長い回廊を大きな火の松明に導かれて練行衆が登廊していきます。
いよいよ童子が火の松明を振り回しますが、その前に大きな木を打ちつける音がします。内陣に入る前に練行衆が木沓にはきかえ、礼堂の床を踏みならす儀式で、これを合図にテレビでよく見る松明の行事が始まります。松明自体は20分ほどで終わりますが、練行衆は夜明け前まで修行を続けます。
帰りは観客が一斉に移動するので、なかなか大変です。南大門を通らずに横に抜ける道で奈良駅を目指すと早く帰れます。
上之宮遺跡から下っていき桜井駅が近づいてくると稚櫻神社があり、ここが第17代履中天皇の磐余若桜宮(いわれわかざくらのみや)比定地です。
境内には桜井の名前の元になった「櫻の井」という井戸もあります。日本書紀によると履中天皇は磐余池を造り、船遊びをした時に杯に季節はずれの桜の花びらが舞い落ちたことから、磐余稚桜宮としたとされています。ところが磐余池がどうもずっと西にある東池尻・池之内遺跡(中ツ道沿いにあります)だったようですので、近くにある磐余稚桜神社が磐余若桜宮のようです。こっちも高台になっています。
多武峰街道を少しはずれて上之宮遺跡へ
河岸段丘の上ですので高台になっていて住宅地の真ん中に公園があります。このあたりから6世紀末ぐらいにつくられた大きな邸宅跡が見つかりました。邸宅だけでなく庭園も整備されていて石組みによる園池遺構が見つかり復元されています。水の祭祀場遺構という説もあります。
■聖徳太子の上宮?
遺跡が見つかった時、大騒ぎになったのが聖徳太子の上宮(かみつみや)ではないかという報道です。聖徳太子が幼少の頃、磐余(いわれ)に住んでいました。宮殿は上宮と呼ばれ、聖徳太子は上宮厩戸豊聰耳太子と呼ばれていました。日本書紀によると斑鳩に移るまで住んでいたようで、父である用明天皇の磐余池辺犨槻宮の南に上宮があったということです。
磐余池辺犨槻宮の伝承地が2つあり、1つが石寸山口神社周辺で、もう一つが吉備春日神社です。これなら上之宮遺跡が南側にあるので上宮の可能性が高くなります。ところが2011年に人工池の堤跡などが発見され、これが磐余池ではないかといわれています。伝承地のずっと西にあります。こうなると上之宮遺跡は東南になりますので、このあたりを拠点にした安倍氏関係かもしれません。
渡辺津から熊野三山を目指すのが熊野街道です。
江戸時代、渡辺津には八軒の宿があり八軒家浜と呼ばれていました。今の天満橋で大川を遊覧する船が発着する川の駅「はちけんや」が整備されています。江戸時代はここから伏見まで船運で結んでいて東海道を行き来する旅人が使っていました。坂本龍馬なども伏見との行きかいに使っていました。ちなみに大川は仁徳天皇がつくった難波の堀江(つまり運河)ではないかと言われています。
渡辺津をあがると上町大地の坂を登り熊野街道がスタートします。坐摩神社・元宮には窪津王子がありました。王子とは熊野古道沿いに在する神社で九十九王子あります。1番目の王子になるのが窪津王子です。
桜井から談山神社のある多武峯まで続く古道が多武峯(とうのみね)街道です。聖林寺から坂を下っていくと杉玉が!!
西内酒造で150年続いているそうで、なんとも雰囲気があるお店です。明治10年に建てられたそうで、酒蔵は江戸時代のいつ建てられたのかは分からないそうです。玄関の看板に「にごり酒の新酒があります」と記載されており、そっこう店内に入って買ってきました。
まだまだ多武峯街道歩くので一升瓶はやめて720mlです。奈良県産米を70%に精米し、火入れしていない生のにごり酒です。家を帰って飲んだら、とてもクリーミーでいけました。
OSAKAしごとフィールドで出張相談があったのでエル大阪へ。「働く女性・働きたい女性のための相談会」で、創業相談などにのっておりました。エル大阪は豊臣時代、加藤清正の屋敷があったと推定されています。大手道だった高麗橋通りのすぐそばですので一等地ですね。
エル大阪のすぐ前にあるのが坐摩(ザマではなくイカスリよよみます)神社・元宮。ずっと工事中でしたが、きれいになっていました。神功皇后が三韓征伐より戻った時に坐摩神を祀ったのが始まりで、神功皇后の鎮座石が境内に残っています。坐摩神社のすぐ近くが大川で渡辺津があり、渡辺姓はここから始まりました。秀吉が大坂城築城するにあたって坐摩神社は船場に移されました。そこで元宮と呼ばれるようになります。
朝ドラをちゃんと見始めたのは93作目の「あさが来た」からで、これで見る習慣がついたので、あとは半分、惰性で見ていますね。現在は111作目の「おむすび」で、2週間にわたってヒロインが出てこないことでも話題になった朝ドラです。朝ドラのヒロインはなぜか気象予報士など資格取得に励むことが多く、今回は管理栄養士の仕事の内容がよくわかる内容になっています。
撮影が行われたNHK大阪放送局・1階で「おむすび」セット公開をしていたのでのぞいてきました。(~3/9(日)までやってます)糸島にある米田家や神戸のヘアサロンヨネダなどが展示されています。
昨日は「ひなまつり」、3月3日って何かあったなと思ったら去年、清算結了(清算業務を終え消滅すること)した合同会社エムアイティエスの設立記念日でした。設立時、法務局にたまたま書類を出しに行ったのが3月3日で、提出日が設立日になりました。
2月末決算にしていたので去年の今頃は財務諸表や別表を作ったりして法人決算が大変でした。法人をなくしたので、役員報酬からの特別徴収をしなくてすみ、個人事業だけだと楽ですねえ。まもなく前期高齢者になるので身辺整理をはじめております。とりあえず大阪府中小企業診断士会は退会。診断協会には引き続き加入しています。
倉梯柴垣宮のすぐ近くに崇峻天皇陵があります。592年、崇峻天皇は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺されて、その日のうちに倉橋岡上陵に葬られました。東漢直駒は口封じなのか蘇我馬子に殺されました。
明治になってから崇峻天皇陵として比定されましたが、崇峻天皇をまつった金福寺が以前にあり、跡地を古墳でもないのに比定したようです。江戸時代までは近くにある赤坂天王山古墳が崇峻天皇陵と言われていました。赤坂天王山古墳は石室に入ることができ、「会いに行ける大王墓」ということで今城塚古墳(継体天皇)と同じですね。
尼ヶ辻駅からずっと西に行った安康天皇陵も戦国時代の城跡を天皇陵に比定したようで、けっこうめちゃくちゃです。飛鳥の牽牛子塚古墳は八角形墳ということが分かり斉明天皇陵と言われています。