長髄彦(ながすねひこ)本陣跡

長髄彦(ながすねひこ)本陣跡

神武天皇は吉備高島宮から船で大阪湾に入り、大阪平野は梅でしたので生駒山の麓の港である日下に到着。ここから生駒山を超えて大和に入ろうとしましたが、大和を治めていた長髄彦が立ちふさがり戦いとなります。

長髄彦の本陣が生駒市白庭台の住宅地にあります。近鉄けいはんな線の白庭台駅からちょっと行った矢田丘陵の北の先にあり生駒山を超えてきた敵を高台から迎え撃てます。もっとも生駒山に前線をおいていました。長髄彦は登美能那賀須泥毘古と記載され頭に登美(とみ)がついています。現在も登美ヶ丘や富雄駅の名前が残っているので、このあたりに本拠地があったようです。

田原城

田原城

ようやく涼しくなってきたのでリハビリがてら田原城へ。場所は四条畷にあります。

四条畷といいながら生駒山の西ではなく東側なので、実質的に生駒の北になります。田原城は三好長慶の飯盛山城の東を守る支城でした。比高30mほどの小山に複数の郭が作られ、堀切と切岸で守られた遺構がよく残っています。山城には珍しく、よく整備され案内版まであります。西出丸までめぐってきました。

三好長慶時代はキリスト教が盛んで城主の田原氏もキリシタンとなり、洗礼名は「レイマン」だったという記録がルイス・フロイスの書簡に残っています。2002年(平成14年)に近くの千光寺跡から十字架とイエズス会を示す「H」マークの下に天正九年(1581年)と記載されたレイマンの墓碑が出土しています。

西国街道をゆく

西国街道

西国街道は東寺から大坂を経ないで西国(下関)へ至る街道ですが、西宮までのルートは別名「山崎通」とも呼ばれていました。

当時は1日あたり40kmほど歩いたので東寺を出て長岡京(向日町)から山崎宿を通り、芥川宿、郡山宿を抜けて瀬川宿(箕面線の桜井駅ちかく)で宿泊すると約40kmです。2日目は昆陽宿(伊丹)・西宮宿(西宮市)から灘五郷を通って神戸にいたり生田神社あたりで40kmほどになります。山崎通りを2日で通り抜けていて、昔の人は健脚ですね。

西国街道は大坂の北の方を通り、大坂をバイパスする街道になっています。大坂ー西宮間には浜街道があり、西宮で合流します。当時の倍にあたる4日ほどかけて歩きましたが、ほとんど途切れることなく東寺から三宮まで街道が続いていました。

ボジョレーヌーボー

ボジョレーヌーボー

ボジョレー・ヌーボー、バブル景気の頃は大騒ぎしていましたが、2004年から長期減少傾向が続いていて輸入量が減っています。日本のワイン消費量は広がっているので、ボージョレ・ヌーボーの「1人負け」とも言える状況ですね。とは言いながら縁起物みたいなものなので飲んでいます。けっこうフルーティーな味でした。

バブル景気の頃、ワインパーティをやるぞと会社の先輩が言いだし、そこまではよかったのですが、下宿にボジョレー・ヌーボーの樽を送ってきてパーティの日に持ってこいと今ならパワハラ行為ですなあ(笑)。樽には説明書がついていて湿度をたもつよう濡れた雑巾で一日一回拭けとか書いてあります。おかげで残業して帰ってからせっせと拭いておりました。パーティの日、フレームのバックパックに樽を紐づけて運びました。

西国街道をゆく(東寺)

東寺

寺が西国街道のゴールです。新幹線で五重塔が見えると京都に来たなという感じになりますが、あの五重塔があるのが東寺です。五重塔の高さですが80mほどで北山通りの標高と同じになります。京都で「上がる下がる」といいますが、高低差から理にかなっています。東寺は平安時代に官寺として西寺とセットで建てられ、羅城門を入ると朱雀大路の両側に五重塔がゲートのようにそびえていました。

やがて空海が真言密教の根本道場として東寺を活用します。この時の印象が強く、東寺といえば空海となっていて、毎月21日(弘法大師の月命日)には弘法市が境内で行われています。同時期に最澄が顕教を広めますが、修行者が一つ一つ教えを積み重ねる必要がありますが、これに対して密教は仏の力を借りて、呪文(真言)のような言葉で短期間で悟りに達するため、修行がいやな貴族に歓迎されます。

■どら焼きは東寺が発祥

東寺といえば「どら焼き」は東寺の僧侶が寺でも作れて腹持ちがよいお菓子を命じられ誕生しました。銅鑼で皮を焼いたことから「どら焼」と命名されます。関西では三笠山に似ているところから三笠と呼ばれています。

    西国街道をゆく(羅城門)

    羅城門

    西寺のすぐ近くにあるのが羅城門跡。黒澤明監督の映画「羅生門」は芥川龍之介の「藪の中」をモチーフにしていますが、芥川龍之介には他に「羅生門」があり、門の上で死人の髪を盗んでいる老婆が登場する荒れ果てた状態でした。

    羅城門跡は小さな公園に石碑が建っているだけです。JR京都駅前に羅城門の模型があり、こちらで往時をしのべます。羅城門からは幅85mの朱雀大路を通して朱雀門まで見通せたようです。朱雀大路は軍の凱旋や外国からの賓客を迎えるイベントが行われる儀礼空間でしたので公卿を除いては朱雀大路に面して門を作ることができず、ずっと築地塀が続きました。

    ■羅城があった?
    九条大路の発掘調査によると羅城門から西寺を超えたあたりまで高さは不明ですが羅城が存在していたようです。ただし羅城が都の全周を取り巻いているわけではなく平安京に入る人へのアピールだったようです。実際に羅城が築かれるのは秀吉のお土居ですね。

    羅城門は980年の暴風雨で損傷してからは修理されることはなく、「光る君へ」に登場する藤原実資の「小右記」によると道長が法成寺建立に際して礎石を持ち帰った記録があり、源氏物語の頃は礎石しかなかったようです。道長のように礎石を持ち去ったものがいるので、現在まで羅城門の遺構が見つかっていません。

    西国街道をゆく(西寺跡)

    西寺跡

    西国街道ファンの皆様、おまたせしました。

    誰も待ってないって!まあ、そんなこと言わずに、お付き合いください。

    長岡京跡から阪急・東向日駅、JR向日町駅を超えて北東を目指します。桂川は久世橋を渡って超え川沿いの西国街道をゆくと吉祥院を過ぎて九条御前に出ます。平安京の九条通りです。九条御前の近くにあるのが西寺跡。京都駅から東寺の五重塔がみえますが対になって建てられたのが西寺です。桓武天皇は平城京の抵抗勢力である寺社がよほどいやだったのか平安京では官営の東寺、西寺以外の造営を禁じました。

    ■空海VS守敏僧都
    東寺は空海が西寺は守敏僧都(しゅびんそうず)が担当することになります。824年(弘仁15年)干ばつがあり、神泉苑で雨乞いが行われることになりました。守敏僧都は空海と法力で競いましたが敗れてしまいます。空海が雨ごいをしている時に守敏が世界中の龍を瓶の中に封じ、呪力で出さなかかったのを空海が破ったので雨が降ったといわれていますが、守敏僧都にそんな力があるなら、そもそも雨を降らせられるでしょう(笑)。空海の方が気象予報士としての才能が上だったようです。

    西寺は親方日の丸で国家財政に頼っていましたが東寺は空海のカリスマ性もあって貴族の信頼を集めます。両寺とも同じように落雷による火災がありましたが厳しい国家財政で西寺は再建がすすまず、東寺は勧進(クラウドファンファンディング)で再建され現在に続きます。

    信太の森

    信太の森

    高石まで出かけたので、帰りは南海・高石駅ではなくJR北信太駅を目指します。駅の近くにあるのが信太の森です。といっても住宅街になってしまい葛葉稲荷神社の周辺だけにしか緑は残っていません。信太の森は安倍晴明「葛の葉伝説」の舞台です。京都の晴明神社には、毎日たくさんの参拝客が訪れますが、葛葉稲荷神社には誰もいません(笑)。

    ■信太の森
    安部保名(清明の父)が信太の森で狐を助けたところ、恩返しとして狐が女性となって現れ、やがて結婚し童子丸という子供をもうけます。この童子丸がのちの安部清明です。生まれたのは阿倍野で阪堺電車・東天下茶屋駅近くの熊野街道沿いに安倍晴明神社があり、ここが生誕地といわれています。葛葉稲荷神社よりは参拝客が多いです。

    ところが童子丸が7歳のとき、妻の正体が狐であることがばれてしまいます。狐は全ては稲荷大明神の仰せと告白し「恋しくば尋ね来てみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」という歌を残して消えます。

    ■葛葉城
    大阪ではきつねうどんを「しのだ」とも言いますが、この信太の森からきています。また、ほとんど知られていませんが葛葉稲荷神社の境内一帯に葛葉城が築かれ土塁の一部が境内に残っています。

    綾井筋

    綾井筋

    高石の地図を見ていると綾井筋という斜めに町を横切っている不思議な道があります。名古屋には栄のテレビ塔から斜めの道があり、こちらは飯田街道なので綾井筋も街道の跡かなと思って現地に行ってみました。なんの変哲もない道で案内も何もなく、市役所前通りなどを斜めにつっきっています。

    古地図を調べると現在、鴨公園になっているところに鴨池という大きな池がありました。この池のへりを通る道があり、そのまま斜めに続いて今の取石中央線につながっています。第二阪和ができた時に、この斜めの道の一部がなくなって、高石駅周辺にだけ斜めの道が残ったようです。斜めの道の後に市役所前通りなどが作られます。

    1935年(昭和10年)頃の地図に、この斜めの道はなく、戦後に作られたようですね。街道沿いにあった取石池もなくなっており、同じ頃に工事が行われたようです。

    綾井の清水

    綾井の清水

    高石商工会議所の近くに綾井の清水がありました。綾織のように美しい水が沸くことから綾井になったそうで、綾井の地名の元になります。綾井の清水は農業用水などに利用されていましたが、今も街中に水路が通っており暗渠になっていないのがいいですね。

    綾井はけっこう古い地名のようで中世には綾井荘がありました。綾井荘は広い範囲に分布していたようです。明治時代は取石村大字綾井として隣の取石(とろし)に取り込まれていました。取石も古い地名で奈良時代まで左溯れます。かって取石池があり万葉集に「妹が手を 取石の池の 波の間ゆ 鳥が音異に鳴く 秋過ぎぬらし」とうたわれています。聖武天皇が紀伊行幸の際には取石に頓宮がありました。渡来系氏族である取石造の居住地ともいわれています。