水間鉄道

水間鉄道
水間鉄道

貝塚駅と水間観音駅を結ぶのが大正時代にできた水間鉄道です。水間観音への参詣鉄道でした。バブルの時に不動産事業に乗り出したのですがバブル崩壊で倒産。グルメ杵屋が支援をすることになり、子会社になっています。

2両編成のワンマン運転で1時間に2本の割合で走っています。貝塚駅を出発すると大きく左に急カーブします。もともとカーブの先に海塚駅があり、ここが起点でしたが南海・貝塚駅ができたことで乗り入れするために急カーブになったようです。

貝塚から水間観音駅間は15分で、けっこう短く、単線のため途中の名越駅で行き違いします。千石堀城の最寄り駅になります。関西のローカル線ながらICカードが使えるのがいいですね。

千石堀城

千石堀城の隣の尾根
千石堀城の隣の尾根

高井城と同様に根来衆の出城となっていたのが千石堀城です。高井城とは近木川をはさんだ反対側にあります。千石堀城は周りを囲む堀が二重になっていて、特に東堀と北堀が明瞭に残っています。主郭へ続く虎口は食い違いになっています。千石堀城には根来方が千数百人が立て籠もり、なかなか落城しませんでしたが、筒井順慶軍が放った火矢が城内の火薬に引火し爆発で落城したといわれています。

千石堀城ですが、以前は藪から直登するしかなかったのですが、空堀に入れる遊歩道ができており、難なく郭内に入ることができるようになっています。紛らわしいのは紀泉鉄道計画路線跡に出ている案内版で城とは反対の南の尾根に登るようになっています。千石堀城を攻める付城がないかなと登りましたが展望台があるだけで遺構はなかったです。展望台からは遠くに関空が見えます。

高井城

秀吉と家康が直接、戦った小牧・長久手の戦いですが、関ケ原の合戦と同様に戦場は全国で家康に呼応していた根来衆は岸和田城を攻めます。城主は中村一氏でなんとか根来衆を撃退します。この時に大蛸に乗った僧と数千の蛸に城を救われたという伝説から蛸地蔵駅があります。

高井城
高井城

翌年、天正13(1585)年に秀吉は紀州根来衆征伐に乗り出します。大坂城から10万の軍勢を率いて岸和田城に入場します。根来衆は貝塚の海から山まで近木川沿いに出城を13も築きます。その一つが高井城。現在は公園になっていて案内板だけがあります。3つの郭と3重の堀に囲まれていました。籠城していたのは根来寺の行左京・熊取大納言と近隣の農民約200名でしたが福島正則の軍勢によって攻められ落城しました。

當麻寺

當麻寺
當麻寺

聖徳太子の弟が創建したと伝わる當麻寺。奈良時代から平安時代に建てられた東と西の三重塔(東塔・西塔)がいいですね。當麻と言えば當麻蹶速(たいまのけはや)という人物が古代にいました。互角に力比べできるものはいないと豪語していたため、対戦相手を探していたところ出雲に野見宿禰(のみのすくね)がいました。出雲は島根県という説もありますが桜井から東に入ったところにも出雲があり、こちらの方が合理的です。

當麻蹶速と野見宿禰の相撲による試合が行われ、垂仁天皇が見守りますので天覧試合です。勝ったのは野見宿禰では當麻蹶速は殺されてしまいました。口は禍の元ですねえ。天覧試合が行われたのが山の辺の道沿いにある穴師の相撲神社です。野見宿禰は土師氏の祖となり出雲の畑のなかに塚が作られ近鉄電車から見ることができます。

當麻山口神社

當麻山口神社
當麻山口神社

鳥谷口古墳から坂を下りていくと、すぐ近くに當麻山口神社があります。延喜式神名帳に記載された式内社ですので、古い神社ですね。ひっそりとした境内です。祭神は大山祗命(おおやまつみのかみ)で山の神様です。

山の神様なんで生駒や鴨、都祁などに山口神社があります。法人番号検索サイトで「山口神社」で検索すると全国に39あり、そのうち奈良には15ありますので、半分弱が集中しています。山口神社は奈良を取り囲むように配置され、中心部にも耳成山や畝傍山に配置されています。

鳥谷口古墳

二上山の雄岳と雌岳の間にある馬ノ瀬から奈良側に下ると高台に鳥谷口古墳があります。方墳で石棺が残っています。大津皇子のお墓は雄岳に比定されていますが、実はこの鳥谷口古墳が本当の大津皇子の墓ではないかと言われています。

鳥谷口古墳
鳥谷口古墳

雄岳の墓はこんもりとしていますが古墳かどうかは定かではありません。また鳥谷口古墳の所在地が染野(しめの)という土地で標野(皇室や貴人が占有し、一般の者の立ち入りを禁じた地)からきているのではと言われています。額田王が「あかねさす標野行き野守は見ずや君が袖振る」と近江にあった標野で歌っています。また石棺が加工途中で急ごしらえで造ったようです。

鳥谷口古墳は山の中腹にあり畝傍山などがよく見えるので、二上山を弟と見るという万葉集の歌も矛盾がないようです。大津皇子の辞世の句は磐余の池で詠まれ、磐余の池跡に歌碑が建っています。

貝塚寺内町巡り

貝塚寺内町巡り
貝塚寺内町巡り

船場総研(中小企業診断士の勉強会である船場勉強会のOB組織)の催しで貝塚へ

Nifty-ServeのFlic(ライセンス)フォーラムから誕生していますので、なんやらかんやらで24年も続いています。来年は25周年ですね。

15時に貝塚駅に集合し、ガイドに説明してもらいながら貝塚寺内町を巡りました。海から見るとこんもりと山になっているところがあり、ランドマークになっていました。これが海塚で、転じて貝塚になったそうです。

感田神社から願泉寺、寺内町の北限などを1時間半ほど巡ります。時間は1時間半ほどでしたので駅前に着いたのが16:30頃。17時に予約していた駅前の「やたい寿司」が16時から開店していたので、これ幸いと宴会に突入しました。

二上山城(雌岳)

二上山の雄岳から馬ノ瀬に降りて、今度は雌岳に登ります。雌岳も山城跡で頂上の郭をとりまくように郭が配置されています。雌岳は周りの木が切りはらわれているので河内国、大和国ともよく見えます。二上山城は大和と河内の国境にある絶妙な位置にあり、昔から要の城になっていました。

二上山(雌岳)
二上山(雌岳)

二上山城を築いたのは楠木正成で河内国七城の一つであると考えられていますが裏付けはありません。確実なのは河内守護だった畠山氏が古市の高屋城の支城として二上山城を整備していました。室町時代にいろいろと改修され、合戦の舞台となりました。現在の城郭になったのは木沢長政の時代のようで木沢長政は河内、山城南部の守護代で主家を上回る下剋上を成し遂げた人物です。三好長慶に敗れて討死しますが、死ななければ信長や松永久秀のように著名な戦国武将となったでしょう。

二上山城(雄岳)

最近、奥方は山登りにはまっていますが、こちとら山登りには何の興味もなく、ついていくことはありません。

大津皇子墓
大津皇子墓

先日、二上山に登るということで、ついていきましたが目的は二上山城です(笑)。途中、二上山の麓に岡城があるんですが、岡城に入るには切岸を直登しないといけないので、さすがに文句が出るだろうとあきらめ、ゼイゼイ言いながら山登りを続けます。ようやく雄岳頂上の大津皇子墓跡へ。ここが郭の一つです。墓跡は横に回り込めますので高い切岸を楽しめることができます。

雄岳にある山城は神社のある頂上部から北東と南西の尾根沿いに郭が続きます。

立売堀

大阪の難読地名である立売堀(いたちぼり)の近辺で最近、仕事をしています。

立売堀川
立売堀川

名前の由来は諸説ありますが、その一つが大坂の陣。この地域を陣地にしていたのが伊達政宗。大坂夏の陣では、「道明寺の戦い」で後藤又兵衛らと戦います。遅れて到着した真田信繁とも交戦しますが、後退を余儀なくされます。

陣地にしたので堀を作っていましたが、堀跡を掘り進んで川としたことから伊達堀(「だてぼり」が「いたちぼり」に変化)と呼ばれるようになります。この川の沿岸で材木の立売(たちうり)が行われるようになり字を立売堀と改めますが、読みは「いたちぼり」のままなので難読地名となりました。

江戸時代の大坂は水運が発達し川だらけで、ここから西に流れていたのが立売堀川です。近くには2つの川が交差し四つの橋がかけられた四ツ橋がありました。