西国街道をゆく(羅城門)

羅城門

西寺のすぐ近くにあるのが羅城門跡。黒澤明監督の映画「羅生門」は芥川龍之介の「藪の中」をモチーフにしていますが、芥川龍之介には他に「羅生門」があり、門の上で死人の髪を盗んでいる老婆が登場する荒れ果てた状態でした。

羅城門跡は小さな公園に石碑が建っているだけです。JR京都駅前に羅城門の模型があり、こちらで往時をしのべます。羅城門からは幅85mの朱雀大路を通して朱雀門まで見通せたようです。朱雀大路は軍の凱旋や外国からの賓客を迎えるイベントが行われる儀礼空間でしたので公卿を除いては朱雀大路に面して門を作ることができず、ずっと築地塀が続きました。

■羅城があった?
九条大路の発掘調査によると羅城門から西寺を超えたあたりまで高さは不明ですが羅城が存在していたようです。ただし羅城が都の全周を取り巻いているわけではなく平安京に入る人へのアピールだったようです。実際に羅城が築かれるのは秀吉のお土居ですね。

羅城門は980年の暴風雨で損傷してからは修理されることはなく、「光る君へ」に登場する藤原実資の「小右記」によると道長が法成寺建立に際して礎石を持ち帰った記録があり、源氏物語の頃は礎石しかなかったようです。道長のように礎石を持ち去ったものがいるので、現在まで羅城門の遺構が見つかっていません。

西国街道をゆく(西寺跡)

西寺跡

西国街道ファンの皆様、おまたせしました。

誰も待ってないって!まあ、そんなこと言わずに、お付き合いください。

長岡京跡から阪急・東向日駅、JR向日町駅を超えて北東を目指します。桂川は久世橋を渡って超え川沿いの西国街道をゆくと吉祥院を過ぎて九条御前に出ます。平安京の九条通りです。九条御前の近くにあるのが西寺跡。京都駅から東寺の五重塔がみえますが対になって建てられたのが西寺です。桓武天皇は平城京の抵抗勢力である寺社がよほどいやだったのか平安京では官営の東寺、西寺以外の造営を禁じました。

■空海VS守敏僧都
東寺は空海が西寺は守敏僧都(しゅびんそうず)が担当することになります。824年(弘仁15年)干ばつがあり、神泉苑で雨乞いが行われることになりました。守敏僧都は空海と法力で競いましたが敗れてしまいます。空海が雨ごいをしている時に守敏が世界中の龍を瓶の中に封じ、呪力で出さなかかったのを空海が破ったので雨が降ったといわれていますが、守敏僧都にそんな力があるなら、そもそも雨を降らせられるでしょう(笑)。空海の方が気象予報士としての才能が上だったようです。

西寺は親方日の丸で国家財政に頼っていましたが東寺は空海のカリスマ性もあって貴族の信頼を集めます。両寺とも同じように落雷による火災がありましたが厳しい国家財政で西寺は再建がすすまず、東寺は勧進(クラウドファンファンディング)で再建され現在に続きます。

信太の森

信太の森

高石まで出かけたので、帰りは南海・高石駅ではなくJR北信太駅を目指します。駅の近くにあるのが信太の森です。といっても住宅街になってしまい葛葉稲荷神社の周辺だけにしか緑は残っていません。信太の森は安倍晴明「葛の葉伝説」の舞台です。京都の晴明神社には、毎日たくさんの参拝客が訪れますが、葛葉稲荷神社には誰もいません(笑)。

■信太の森
安部保名(清明の父)が信太の森で狐を助けたところ、恩返しとして狐が女性となって現れ、やがて結婚し童子丸という子供をもうけます。この童子丸がのちの安部清明です。生まれたのは阿倍野で阪堺電車・東天下茶屋駅近くの熊野街道沿いに安倍晴明神社があり、ここが生誕地といわれています。葛葉稲荷神社よりは参拝客が多いです。

ところが童子丸が7歳のとき、妻の正体が狐であることがばれてしまいます。狐は全ては稲荷大明神の仰せと告白し「恋しくば尋ね来てみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」という歌を残して消えます。

■葛葉城
大阪ではきつねうどんを「しのだ」とも言いますが、この信太の森からきています。また、ほとんど知られていませんが葛葉稲荷神社の境内一帯に葛葉城が築かれ土塁の一部が境内に残っています。

綾井筋

綾井筋

高石の地図を見ていると綾井筋という斜めに町を横切っている不思議な道があります。名古屋には栄のテレビ塔から斜めの道があり、こちらは飯田街道なので綾井筋も街道の跡かなと思って現地に行ってみました。なんの変哲もない道で案内も何もなく、市役所前通りなどを斜めにつっきっています。

古地図を調べると現在、鴨公園になっているところに鴨池という大きな池がありました。この池のへりを通る道があり、そのまま斜めに続いて今の取石中央線につながっています。第二阪和ができた時に、この斜めの道の一部がなくなって、高石駅周辺にだけ斜めの道が残ったようです。斜めの道の後に市役所前通りなどが作られます。

1935年(昭和10年)頃の地図に、この斜めの道はなく、戦後に作られたようですね。街道沿いにあった取石池もなくなっており、同じ頃に工事が行われたようです。

綾井の清水

綾井の清水

高石商工会議所の近くに綾井の清水がありました。綾織のように美しい水が沸くことから綾井になったそうで、綾井の地名の元になります。綾井の清水は農業用水などに利用されていましたが、今も街中に水路が通っており暗渠になっていないのがいいですね。

綾井はけっこう古い地名のようで中世には綾井荘がありました。綾井荘は広い範囲に分布していたようです。明治時代は取石村大字綾井として隣の取石(とろし)に取り込まれていました。取石も古い地名で奈良時代まで左溯れます。かって取石池があり万葉集に「妹が手を 取石の池の 波の間ゆ 鳥が音異に鳴く 秋過ぎぬらし」とうたわれています。聖武天皇が紀伊行幸の際には取石に頓宮がありました。渡来系氏族である取石造の居住地ともいわれています。

綾井城

綾井城

高石商工会議所で創業セミナーでしたので、ついでに綾井城へ寄ってきました。

綾井城は住宅街にあり、今は城蹟山専称寺の境内になっています。山門側だけに堀跡が残り、沼間日向守綾井城趾の碑が建っています。

綾井城は田代氏によって鎌倉期に造られ、戦国時代は沼間氏の影響力が強まり沼間伝内が綾井城に入ります。沼間氏は大阪湾の制海権の一翼をになっており、沼間伝内は織田信長に従い、石山本願寺に味方する毛利水軍が戦った木津川口の合戦で戦死しました。伝内の子である沼間任世も信長に仕えました。豊臣政権下では岸和田城に入った中村一氏の配下となり、徳川時代は旗本になっています 。

■和泉三十六郷士
元々強大な勢力の無かった和泉には、各地の地侍が一つになって(和泉三十六郷士)行動をとるような体制が出来ていました。三十六郷士は織田信長には無抵抗で降伏し、所領を安堵されていますが、大坂石山の合戦に参戦・第1次木津川口海戦で毛利水軍に大敗しほとんどの者が討ち死をとげています。

「板原家文書」に綾井城主・沼間任世が天正9年に各領主から差出を提出させ、まとめて安土にもっていって領地に対して交渉しています。これが和泉検知の一環だったようです。差出を無視した松尾寺や施福寺は焼き討ちされました。文禄2年(1593年)以降、助松(泉大津)から移転した専称寺の境内となりました。

西国街道をゆく(長岡京)

長岡京

住宅地に長岡京に大極殿跡などが点在しています。平城京から長岡京へ遷都したのは歴史で習った桓武天皇です。

■桓武天皇
桓武天皇は本来は天皇になる予定ではなかったのですが藤原氏の内紛から藤川百川によって帝位につくことにりました。母(高野新笠)の出自が低いことがコンプレックスだったようで、枚方の近くの交野(かたの)をしばしば訪れています。交野は母にゆかりがある百済王氏(くだらのこにきし)の本拠地でした。ここで中国の皇帝が行っていた行事を行います。神武天皇が鳥見山で行って以来の儀式でコンプレックスをなんとかしたかったのでしょう。

■長岡京
延暦3年(784)年に長岡京に遷都します。前年に和気清麻呂を摂津大夫に任命し難波京の解体を始め、淀川を使って運びます。長岡京は後期難波京とをそのまま移したため同じ8堂になりました。平城京の仏教界は遷都に大反対。いろいろ確執があったところに発生したのが造営の指揮をとっていた藤原種継暗殺事件。関係者として早良親王が浮かび、皆さんよくご存じの「陰陽師」につながっていきます。

■伊勢神宮
桓武天皇は皇太子時代に伊勢神宮に参拝しています。紀作良(きのつくら)に命じ、延暦4年に斎宮を造営します。また桓武天皇の時代から「紙幣禁断の制」となり、個人的に参拝祈願すると遠流(島流し)に相当する重罪でした。

■武士の時代へ
桓武天皇は常備軍を持とうと健児の制(こんでいのせい)を始めましたがコストがかかりすぎて、結局は武士に丸投げ。昔は大王自体が戦いましたが、桓武天皇の時代から部下を征夷大将軍に任じ、刀を持たずに汚れ仕事を武士に任せるようになります。最初は命令すればよかったのが武士が力を持ち始め平治の乱あたりから貴族が恐れる存在となります。

西国街道をゆく(一文橋)

一文橋

西国街道が小畑川を渡るところにあるのが一文橋。山崎の合戦が行われた小畑川のずっと上流の方です。なんでも日本最古の有料橋なんだそうで通行料が一文だったことから一文橋と呼ばれました。今、見るとおとなしそうな川なんですが、何度も洪水により橋が流されることから架け替え費用の捻出のために通行料をとっていました。今は通行料を払わなくても通れます。

有料橋で有名なのが大井川にかかっている蓬萊橋で世界一長い木造歩道橋としてギネスに認定されています。テレビや映画のロケ地によくなっています。あとは祖谷のかずら橋ですね。十津川にある谷瀬のつり橋は無料で通れます。

西国街道をゆく(調子八角)

調子八角

西山天王山駅は2013年(平成25年)にできた阪急京都線の駅で長岡天神駅と大山崎駅の間にできました。住宅街や立命館中学校・高等学校があるので乗降客で賑わっています。駅を出ると交差点があって、調子八角という変な名前がついています。この交差点が西国街道と丹波街道の分岐点で丹波街道が調子八角で分岐し、大枝の沓掛まで進んで山陰道に繋がります。

■光秀が通る街道だった
亀岡城を出た明智光秀が本来は沓掛から丹波街道に入り、調子八角から西国街道を通って備中高松城を水攻めしていた秀吉の応援にいくはずが、沓掛からそのまま都へ入って本能寺の変を起こします。

■調子八角の由来
調子は山城国乙訓郡調子荘を本拠地とした調子氏に由来するそうです。もともとは下毛野氏だったそうで栃木あたりの豪族だったようです。八角は八角堂があったかという説などいろいろあります。交差点には元禄時代の道標が残っていて「右 あたご道」、「左 たんば道」と書かれています。西国街道から愛宕詣でするための道案内でした。

西国街道をゆく(神足)

神足駅

JR長岡京駅近く西国街道沿いの公民館前に神足(こうたり)駅の看板があります。1995年(平成7年)に神足駅から長岡京駅に駅名変更となり、それまで使われていた看板です。駅名が長岡京になっていますが大極殿跡などは阪急・西向日駅が近く、JR長岡京で降りると、かなり歩くことになります。神田神保町へ行こうと神田駅で降りるのと同じで学生時代にやりました(笑)。もっとも広い都ですから長岡京に駅が含まれていることは確かです。

神足は古い地名で桓武天皇が長岡京にいた時に夢を見ました。田村にあった池に天から神が降り立ち、都を襲おうとした悪霊を防いでいました。神を見ようとしても頭を上げられず足しか見えません。そこで神社を建て、これが神足神社となります。田村という地名も神足になりました。