枚岡祭り

枚岡祭り
枚岡祭りは河内一ノ宮・枚岡神社の秋郷祭で、各町内から太鼓台23台が宮入りします。10月14日、15日の曜日固定で、今年は運悪く、名古屋と津で仕事の日。ちなみに地元では企業の多くは社員が担ぎ手で、お休みになる所が多く、学校も休みになります。
津から枚岡へ着いたらちょうど20時。祭は夜遅く(宮出は23:30頃)までやりますので、全然OKで神社内を太鼓台を練り歩いていました。
小太鼓は中高生が担いでいることもあり、21時ぐらいに帰りだしますので、それについて出ます。ウチの子供が小太鼓を担いでいた頃から宮を出た所で、4台の小太鼓が掛け合いをするようになり、これが見所になっています。
写真は掛け合いが終わって4台の小太鼓を持ち上げているところで喜里川の太鼓台。
そのまま家に帰ったら誰もおらず、家族は最後まで見るつもりですなあ(笑)さあ、歴史秘話ヒストリアを見ようっと!

ITC三重 定例会

多湖
三重県産業支援センターでITC三重 定例会を開催。出席は13名でした。ITC三重というのは県内のITコーディネータなどを中心に構成している団体。
■コミュニティFMのIT事情 株式会社サンアイ代表&いなべFM局長 多湖ITC
三重県の最北端にあるのが「いなべ市」で隣は岐阜県、滋賀県。
もともとは防災無線の老朽化からデジタル化しないといけないが多額な費用がかかるため、もっと安い方法はないかというところからコミュニティFM作りがスタート。しかし開局するには苦労の連続でした。そんな苦労話や放送の裏側などいろいろなお話しをうかがいました。
→ いなべFM サイマルラジオはインターネットで聞くことができます
■PIA評価について 三井システム企画 村阪ITC
「行政手続きにおける特定の個人を識別するための番号の利用などに関する法律」(番号法)が成立したため各自治体には年1回、PIA(プライバシー影響評価)の政府に対する報告が求められるようになりました。PIAが求めるもの、ITコーディネータがどう関わっていくのかというお話。

九条駅の名前の由来

九条駅
三宮にある「ひょうご産業活性化センター」へ行くのに地下鉄・中央線の九条駅で阪神電車に乗り換えています。
でも、なんで九条駅なんですかねえ。奈良には近鉄・九条駅がありますが、ここは平城京の九条通りのあった所。京都市地下鉄の九条駅も同様に平安京の九条通りがあった所です。大阪には難波京がありましたが大阪の九条駅は難波京からずっと西にいったところですから、位置的には一条です。
ネットで調べると諸説ありました。もともとは衢壊(くじょう)というまったく読めない地名だったそうです。漢字が難しすぎ読めないので九条にしたようです。そもそも衢壊(くじょう)という地名は淀川の河川工事で、このあたりの衢(みち)を切ったことから衢壊(くじょう)と名づけられたそうです。
他にも洪水で京都の九条家の笏(しゃく)が流れ着いたからという説がありますが、笏に持ち主の名前が書いてあったんですかねえ。条里制からつけられたという説もありました。西成郡に十八条村があり、一条からずっとありましたが、現在は十三(じゅうそう)、九条が地名として残ったという説です。十三は13番目の橋だからと名づけられたという話を聞いたんですが、どっちが本当ですかねえ。
九条ですが昔は川の砂洲が散在する地帯で九条島だったそうです。九条駅の次の駅が西九条駅で、なんで西九条があって東九条がないのかも不思議です。

新幹線が止まる

新大阪
台風の影響で家を出る時は風と雨がすごかったですが、新大阪に着くと雨も降っていなく遠くには青空が見えています。と思って改札に入ると新幹線が止まっています。(泣)
静岡近辺で大雨なんだそうで全線運休状態。東京ではなく途中の名古屋まで動いてもらったらいいんですが、電車が団子状態になっているので、それも無理。
新幹線の中で1時間ほど待っていましたが、いっこうに動く気配はありません。しょうがないので名古屋市新事業支援センターに電話すると、今日は相談予約が入っていないということ。休みにして別の日に振替してもらいました。
新幹線を降りるとホームや改札は人であふれ、混雑する様子をテレビ局や新聞社が取材に来ていました。とりあえず家へ帰って、「隣の人間国宝」を見ています。(笑)さあ、セミナー準備をしなきゃあ!

松ヶ島城

松ヶ島城
松阪にある松ヶ島城跡。
畑のど真ん中に小山が残っていて、ここが天守閣跡。松ヶ島という名前がついていますが、、現在の海岸線は500mも先。戦国時代には海のそばにあって島になっていたとは、とても思えません。
松ヶ島城を造ったのは織田軍に備えた北畠氏。やがて織田と北畠で和議が結ばれ、北畠(織田)信雄が城主となります。本能寺の変の後に織田信雄は清州城に移り、家臣の津川義冬にまかせますが、秀吉と織田信雄が対立すると、秀吉は信雄の家臣が吉に寝返った流言を流し、まんまと信じた信雄は津川義冬を殺してしまいます。
次に松ヶ島城をまかされたのが滝川雄利。北畠家の一族、木造氏でしたが、北畠と織田の和睦を斡旋。また滝川一益に気に入られ娘婿として迎えられます。これで名前が滝川になります。織田信雄の家老となりますが、信雄が没落した後も秀吉に気に入られ、豊臣秀次事件も乗り切り、関ヶ原の戦いでは西軍で戦い、敗れて出家。ところが家康に呼び出されて領地をもらい御伽衆の一人になっています。戦国時代を見事に乗り切った武将です。
滝川雄利は小牧長久手の戦いの時は織田信雄の家老でしたので、秀吉軍と松ヶ島城に籠城して戦いましたが落城。秀吉の命で蒲生氏郷が入ります。やがて蒲生氏郷は現在の松坂城を造り城下町ごと移転、松ヶ島城は廃城になります。松ヶ島城から山の方を見ると松坂城の森を見ることができます。

伊勢・川方城

伊勢川方城
近鉄名古屋線の久居駅-伊勢中川駅の間に桃園駅という普通電車しか止まらない駅があります。
桃園駅近くに住宅街が広がっていて地名が川方。住宅街の中にあるのか伊勢・川方城です。城の遺構はほとんどなくなっていてマンションの裏手の竹藪の中に土塁が残っているだけ。案内板もなにもないので、これが城の遺構だと気づく人はほとんどいないでしょう。
伊勢川方城を作ったのは木造城主だった木造政宗。久居に戸木城があり、戸木城と木造城を結ぶ線上に造られた城です。小牧・長久手の戦いで秀吉と北畠(織田)信雄が争った時は、戦場となり木造は北畠側でしたので秀吉側の蒲生氏郷に攻められて落城します。
それにしても不思議なのは城の場所。久居は南側が崖になっている台地で、伊勢川方城は、この崖を利用して造られています。南には強いですが北からの攻撃は台地続きなので弱くなります。
実際、蒲生氏郷も北側から攻めています。戸木城も同じ崖の上で、北側に出城として造った宮山城を蒲生氏郷に奪われ、高台から攻撃されています。ここに造るしかなかったんですかねえ。考えると不思議な城です。

日本最古の神社で神事

獅子岩
地元の中日新聞を見ると熊野市にある花の窟神社で縄掛け神事が行われたという記事が出ていました。
花の窟神社は熊野灘に面した海岸沿いにある神社で、ご神体は「いざなみのみこと」と「かぐつちのみこと」。神社に拝殿はありますが、ご神体はそびえたつ大きな岩になっていて、ほとんど崖。
日本書紀によると、火の神である「かぐつちのみこと」」を生むときに陰部を焼かれて「いざなみのみこと」が死んでしまいます。「いざなみのみこと」が埋葬されたのが熊野の有馬村。季節の花を供えて祭った岩屋なので、花の窟神社と呼ばれています。
夫の「いざなぎのみこと」は死んだ妻「いざなみのみこと」を追って、根の堅州国(ねのかたすくに)に行くのですが、変わりはてた妻の姿に逃げ出します。この時に逃げた道が黄泉比良坂で出雲にあると言われています。一説には、根の国は熊野にあったという説もあります。
熊野は神武東征の土地でもあり、古代から聖地ですね。最近はサッカーの聖地にもなっていますが。写真は熊野灘に面する獅子岩です。

開業50周年は新幹線だけじゃない

桔梗が丘駅
■桔梗が丘駅 開業50周年
新幹線・開業50周年が話題になっていますが、名張市にある近鉄・桔梗が丘駅も開業50周年です。地元の中日新聞に掲載されていました。
大阪・上本町から青山町駅まで快速急行が出ており、桔梗が丘駅までは1時間強。桔梗が丘は大阪のベッドタウンとして開発され、たくさんのビジネスマンが近鉄で通勤しましたが、定年退職などで通勤定期の売上ががたっと減っています。
■田原本線も50周年
JR新王寺駅から西田原本駅までの路線が近鉄・田原本線。本線ではなく田原本・線です。大和八木から京都方面へ向かうと最初に急行がとまるのが田原本駅。橿原線と田原本線とは接続しておらず、田原本駅から改札を出て西田原本駅まで歩かないといけません。田原本線は近鉄ではなく、もともとは大和鉄道でした。1961年に信貴生駒電鉄へ合併されます。
■生駒線も50周年
信貴生駒電鉄は生駒駅と王子駅を結んでいる線。もともとの鉄道会社が異なっていたので王子駅に両方の線が乗り入れていますが、接続されていません。王子駅の西と東にそれぞれ改札があり、歩かないといけません。ほとんどの乗客は王子駅からJRに乗り継ぐので、それほど影響はないようです。
この信貴生駒電鉄が1964年10月1日に近鉄に吸収合併されて、現在の近鉄・生駒線になりました。つまり田原本線、生駒線とも近鉄になってから50周年になります。
1963年10月1日に近鉄が奈良電気鉄道と合併したので、昨年は近鉄京都線・誕生50周年となりました。それにしても10月1日ばかりに近鉄は合併していますなあ。

Yahoo!カテゴリーが終了

Yahoo!
Yahoo!カテゴリーが今年末(2014年12月31日)で終了します。ただしアメリカYahoo!の話で、日本のYahoo!は継続する模様。
Yahoo!カテゴリーとは分類のことで図書館で本を探す時に「総記」→「書誌学」と細分化して本を探せると同様に膨大なサイトを分類し、カテゴリーをたどっていくことでサイトに効率よくたどりつけます。私の個人HPも教育カテゴリーに登録してもらっていました。
スタンフォード大学の博士課程に在籍中のジェリー・ヤンが、友人のデビッド・ファイロと、ホームページの検索サービスを趣味で始めたのがYahoo!の原型です。そして、1993年頃から「ジェリーのWWWガイド」というサイトを作り始めます。ホームページのアドレスを単純に並べるのではなく分野ごとに整理し、リンクで飛ぶことができました。これが使いやすいと口コミで評判になり人気サイトになっていきYahoo!を創業します。
サイトが増えるに従って、現在のGoogleのようなロボット型検索が登場しますが精度は、それほどでもなく質を求める時にYahoo!カテゴリーは便利でした。ただし人間が介在しますので、爆発的に増えるサイトに対応するのは難しくなったのとGoogleの精度があがったことがあり、今回の決断になったのでしょう。写真はYahoo!がはじまった頃(1995年10月)のサイトです。