総社はめんどうくさいから生まれた

吉備津彦神社
備中高松城シリーズの番外編。
岡山から高松城へ行く途中にあった備前国一宮・吉備津彦神社へ行ってきました。中山の麓にありますが、山の反対側には備中国一宮・吉備津神社があります。吉備津彦命は崇神天皇の時代に日本の4ケ所に派遣された四道将軍の1人で、山陽道に派遣されました。お墓は山の上にありますが、
邪馬台国ではないかといわれている奈良の纏向遺跡から吉備の土器が見つかっており、最初の国造りに参加したのは確実なようです。吉備津彦神社のあたりが古代の聖地だったんでしょうね。
岡山に総社市というところにありますが、昔、国司が任地に赴任すると一宮から順番に土地の神様を回っていました。ところが、全部回るのは面倒くさいと始まったのが総社です。これは国内の神社を国府の近くの1ケ所に集めることで、総社神社や六所神社という名前で全国に残っています。
岡山県の総社市には美作国の総社神社があります。

宇喜多家の陣跡

宇喜多陣跡
先日行った、備中高松城シリーズ第4段!(笑)
秀吉側で戦った宇喜多忠家の陣跡。八幡山の山頂で、現在は八幡神社が建っています。宇喜多といえば宇喜多直家が有名で、当初は毛利方でしたが後に織田信長に降参しています。これで備前(岡山)は織田方となったため毛利との境目は備中となりました。毛利方の防波堤となったのが備中七城、その一つが備中高松城です。いわゆる境目の城となりました。
宇喜多直家は備中高松城の前年に病没しており、後は嫡男の宇喜多秀家が継ぎましたが、まだ10歳と若かったため叔父の宇喜多忠家(直家の弟)が宇喜多勢を率い高松城攻めに参戦しています。宇喜多忠家が陣をかまえた八幡山の眼下が高松城で、向こう側には堀尾吉晴や秀吉の陣が見えます。なかなか眺めがよい陣跡です。
家督を継いだ宇喜多秀家は秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を正室として秀吉の一門衆となりました。関ヶ原の戦いでは石田三成と共に戦い敗北。薩摩まで逃げ島津が家康と交渉してくれ、結局、八丈島に流されることになります。83歳まで長生きし、関ヶ原を戦った大名の中では最後に残った一人となりました。

国宝・松江城を造った堀尾吉晴が38歳の時に戦っていた場所

堀尾吉晴陣
先日行った、備中高松城シリーズです。(笑)
秀吉の本陣がある石井山のすぐ前に小高い岡があり、ここに陣を構えていたのが堀尾吉晴。今は神社になっていますが、神社の裏側にまわると堀切が残っていました。
秀吉の家臣団の中でも尾張時代から仕えていた最古参の重臣が堀尾吉晴。今度、天守が国宝となる松江城を造ったことでも有名です。備中高松城の水攻めをしたていた頃は38歳の壮年でした。秀吉の信任も厚く、備中高松城城主の清水宗治が自決した時は検死役を務めています。
備中高松城の戦いが終わり、中国大返しの時の山崎の戦いでは明智光秀軍に対して先手の鉄砲頭として参加し手柄をたてます。九州征伐や小田原征伐にも従軍。小田原征伐の後、関東に移封された徳川家康の旧領・浜松城主12万石に封じれます。秀吉が亡くなった後は徳川家康と結び、関ヶ原の戦いでは東軍側に参加。
やがて松江24万石に封じられ、尼子氏の本拠地だった月山富田城に入りますが、山城だったので平地である松江に松江城を造ります。この時に築城年を記した「祈祷札」が天守につけられました。築城の年代を証明する大事な札でしたが、1937年以降に所在不明となったため松江市が懸賞金500万円をかけて探したところ松江神社にあるのを発見。これが決め手となって国宝の申請をします。札が見つかった松江神社は懸賞金の受け取りを辞退しています。
松江城を造った堀尾吉晴が38歳の時に戦っていたのが、この場所です。

「本能寺の変」の知らせが飛び込んだ秀吉本陣

秀吉本陣
岡山へ行ったついでに備中高松城と付城(敵城を攻めるための城)を巡ってきました。まず、備中高松城を見下ろす石井山。ここに秀吉の付城がありました。石井山の頂上に登ると開けたところがあり、ここが秀吉の陣跡。備中高松城が眼下に見えますが、かなり近いので人の識別ができるほどです。ここなら清水宗治の姿もよく見えたでしょう。
この秀吉の陣に飛び込んできたのが「本能寺の変」の知らせ。通説では毛利軍と間違って使者が紛れ込んでしまったとありますが、旗指物を見たら、どの軍かわかるし、毛利軍は水攻め堤防の先の山々に陣取って、同じように旗指物を上げていましたから、間違うことはなかったでしょう。となると明智光秀が秀吉に知らせたことになりますが、抜け目ない秀吉だったので、なにか変事が起こればすぐに知らせを送る自前の通信網をあらかじめ作っていたのでしょう。
いずれにしても、この場所で安岡寺恵瓊を通じて毛利方と交渉が始まります。清水宗治の自害と引き換えに城兵を助けることで話がつき、清水宗治は秀吉から贈られた酒と肴で別れの宴を行い、小舟に乗って、舞を踊った後に自害。首は秀吉の陣に運ばれて、首実検が行われ、篤く葬られました。陣のすぐ隣に清水宗治の首塚がありました。
毛利軍の撤退を確認した後、水攻めの堤防を決壊させ、ここから秀吉の「中国大返し」が始まります。ここが、まさに、その場所だったんですねえ。以前に書いたガイド記事が、ちょうどこの場所のことでしたので感慨深いものがありました。
→ 中国大返し 秀吉に本能寺の変の第一報が

烏帽子型城(河内長野)

烏帽子型城
専門家派遣が午前中で終わり、雨も上がったので河内長野へ、烏帽子形城へ出かけてきました。
河内長野駅を降り、風情がある高野街道を歩くと天野酒の蔵元・西條合資会社があります。享保三年(1718年)創業の蔵で、豊臣秀吉が愛した僧房酒を復活した蔵元としても有名です。蔵元のすぐ近くから城跡まで看板が出ていました。山城跡で看板があるのはありがたいですね、さすがは国指定史跡。城跡は河内長野駅の近くにある烏帽子形山の山頂にあります。
烏帽子型城は楠正成が作ったといわれていて、当時は上赤阪城などと連携していたのでしょう。室町時代は畠山氏の城となり、秀吉の紀州攻めでは中村一氏が城の普請をしています。イエズス会の報告書にも出てくる城でキリシタンの領主もいたようです。烏帽子型城は単郭の城ですが、かなり複雑な縄張になっています。掘跡や櫓の跡がはっきり残っていて、公園になっていますから木も伐採されていて、郭跡もよく分かり、堀跡も歩けます。もっとも公園化によって改変された所もあります。
南海特急が停車する駅から少し歩いた所に見事な山城が残っているのがすごいですねえ。烏帽子形城はきちんと整備されており、スーツ姿でも登れる山城で、おすすめです。ただ縄張図などは事前に調べて行かないと、説明がどこにもないので要注意。予備知識がないと、なんでこんなにデコボコしたり、穴が空いているだけで、どこが公園なんだ、になってしまいます。

4支援機関合同連絡会議

4支援機関合同連絡会議
あいち産業振興機構、三重県産業支援センター、岐阜県産業経済振興センター、名古屋市新事業支援センターの4支援機関が集まって、年2回、会議をしております。
今回は岐阜県産業経済振興センターが幹事。岐阜では、いつも西岐阜駅からコミュニティバスみたいなのに乗っていかないといけない県庁横の岐阜県産業経済振興センターでやっているんですが、今日はソフトピアジャパンが会場。大垣駅からバスに乗っていかない点は同じです。
ソフトピアジャパンは岐阜県が作ったITの拠点で、何回か来たことがあるんですが、この中に大学院大学があるって、はじめて知りました。IAMAS(情報科学芸術大学院大学)で、定員20名で2学年あわせてわずか40名。日本で2番目に小さな大学なんだそうです。教員は19名。学部生はいませんので、どこかの大学を卒業して修士で入学します。吉田学長に学内を案内していただきましたが、なかなか贅沢な環境でフォボラボ(3Dプリンターなど)も完備されていました。卒業生は各界で活躍されています。
終わってから大学の建物の2階である居酒屋で宴会。さあ、大垣から米原経由で大阪へ戻ります。

備中高松城 水攻め土塁跡

蛙が鼻
昨日、せっかく岡山まで行くので、吉備線に乗って備中高松駅へ。
駅近くに秀吉の水攻めで有名な備中高松城がありますが、駅は完全なローカル駅で、駅の中には何の案内もなく、駅を出たところに看板があるだけ。
駅から少し歩くと蛙が鼻築堤跡があります。水攻めにするために堤防を築いたのですが、この堤防の土塁が今も残っています。
土塁を発掘したことろ一番下には土留めに使われた木杭や土を入れた俵の跡などが見つかり、しっかり基礎をつくってから土を盛ったようです。発掘現場も展示されていました。残っている築堤跡は高さ3~4メートルほどで、江戸時代の地誌類では高さ8mとあります。この堤防を延々と3kmも築き、高松城を水攻めにしました。わずか12日で完成したという話ですが、本当ですかねえ。
水攻めは中国の歴史書には出てきますが、日本では高松城が本邦初。水攻めの策を考えたというのは黒田官兵衛と言われています。
去年、大河ドラマが黒田官兵衛でしたので、それにあやかって「黒田官兵衛 備中高松城を水攻めにする」という記事をAll Aboutに書いたのですが、現地を見たのは今回がはじめて。(笑)書いた内容はだいたいあっていたので一安心。
→ 黒田官兵衛 備中高松城を水攻めにする (戦国武将に学ぶシステム作りシリーズ)

知的生産の技術研究会・岡山 発足17周年

知研岡山
知的生産の技術研究会・岡山が発足17周年を迎えるということで岡山へ行ってきました。
知的生産の技術研究会は1969年に発刊された梅棹忠夫先生の名著『知的生産の技術』(岩波新書)の影響を受け、1970年に発足した研究会。本部は東京で今年、45年目を迎えています。全国に支部があり、岡山が発足して17年目を迎えました。
17周年ということで記念講演会が行われ、講師は轡田隆史氏。元朝日新聞記者で夕刊「素粒子」を執筆され、ニュースステーションのコメンテーターもされていました。
私は行けなかったのですが東京で行われた知研の総会でも講演をされ、終わった後の懇親会で、岡山まで来てくださいよと依頼され、また周りがぜひ行ってあげてくださいよと、酔った勢いで言うものだから、轡田氏も酔って引き受けてしまったそうです。(笑)
岡山の寺の門に焼夷弾の跡が残っていた話から永井荷風が岡山へ疎開した話になって、また居酒屋で飲んだ話も重り、鳥取の詩人・尾崎放哉の俳句「墓のうらに廻る」につながっていきます。結局、ジャーナリズムとは何ぞやということで、全部がつながっていきます。めちゃめちゃ面白い話でした。
さて知研関西もやっていますので、ぜひどうぞ!
次回は「知って損なしコンビニ裏話!何でセブンイレブンが圧倒的に強いのか?業界3位のFマートで全国1位になった元SVが語る」という長いタイトルです!
6月26日(金)19:00-20:40
場所:大阪産業創造館 5階 研修室C
http://tiken-kansai.org/

本町の曲がり

本町の曲がり
大阪府よろず支援拠点のすぐ西側を東横堀川が流れています。
もともとは豊臣秀吉が大坂城の西惣構堀として掘った堀川。ちょうど上町台地が終わるところで、防御上のメリットもありました。この東横堀側が大坂城の西の境界にあたり、大坂冬の陣では徳川側の蜂須賀と豊臣側の塙団右衛門が激突した激戦地となります。東横堀川が本町橋を過ぎたところで曲がっていて、上を通っている阪神高速も曲がっています。
てっきり横矢をかけるために堀を曲げたのかなと思ったのですが、どうも当時あった浄国寺という寺を避けるために曲げたようです。ここが「本町の曲がり」とよばれるようになり、江戸時代は誰もが知っている自殺の名所で、恐ろしい化け物が行き交う場所だったそうです。曲げたことで水流が岸にあたり、渦となるので水難事故も多かったことが原因だったかもしれません。
上方落語「まんじゅうこわい」では、暇な連中が集まって嫌いなもの、怖いものを言っていき、なかの一人が「俺はまんじゅうが怖い」と言い出すことから話が展開していくんですが、冒頭で皆が怖いことを言っていくシーンで、この「本町の曲がり」が出てきます。
「南農人町(のうにんまち)から本町の曲がりへかけて、そりゃ夜は人も通らん寂しいとこやった」と幽霊の話になっていきます。ビジネス街だし、この辺りはあまり店もないので、今も夜になると寂しい通りなんですが、江戸時代は心霊スポットだったんですねえ。

八宮巡りコンプリート

七宮神社
生田裔神八社で最後まで残った七宮神社。これで一宮神社から八宮神社まで完全制覇、八宮参りコンプリートです。とりあえず厄除けはこれで大丈夫。他によいことないかなあ。(笑)
七宮神社は兵庫港の近くにあり、阪神・阪急の新開地駅かJR神戸駅から少し歩いたところにあります。七宮神社の隣を阪神高速が走っていて交通量が多いところ。主祭神は大己貴命なんですが、他にも大国主命、大物主神、葦原醜男、八千矛神、大国玉神、顧国王神と七つの名前のある神様ですので、それで七宮神社というそうです。へ~え。
平清盛が日宋貿易の拠点である大輪田泊を作り、この時に七宮神社の社殿を建てました。清盛が遷都した福原京も近くにあり、当時は大いに賑わったでしょう。大輪田泊は中世には兵庫津となり、信長に反乱を起こした荒木村重を破った池田恒興が兵庫津に城を造り、これが兵庫城となります。七宮神社のある兵庫津周辺が当時の繁華街でした。淡路出身の高田屋嘉兵衛が拠点をかまえたのも兵庫津です。
ところが幕末となり、兵庫津のお隣の神戸は寒村で土地もあったので、勝海舟が海軍操練所をつくり坂本龍馬や陸奥宗光が学びます。開国で神戸港が外国船の停泊地に指定されたのをきっかけに、神戸が発展。三宮神社周辺が居留地となります。いまや神戸の中心地といえば三宮ですが、本来は七宮だったんですね。