キリシタン大名・高山右近といえば高槻城が有名ですが、高槻の後に築城したのが明石の船上城(ふなげじょう)で明石川の河口に造られた水城です。
吉が関白になった時に全国的に国替えが行われ、高山右近は高槻から明石に国替えとなりました。明石は目の前が淡路島で現在は明石海峡大橋がかかるぐらい狭いところなので瀬戸内航路を監視するにはもってこいの場所です。当時は堺に行き来する貿易船の中継港としても使用されていました。
船上城ですが堀跡が小さな水路として残っているだけで、住宅地に埋没してしまいました。主郭のあったところだけは、こんもりとして丘になっています。近くの児童公園に船上城の説明版がありました。一国一城令が出て明石城が造られる時に船上城の部材がリサイクルで使われました。明石城の巽櫓は船上城の天守か櫓といわれています。
高山右近ですが、この船上城時代にバテレン追放令が出ます。
その後、右近は天正15年(1587年)に発令されたによって船上城を追放されてしまった。高山右近は信仰を守ることと引き換えに領地などを捨てることを選んで、世間を驚かせます。