田町にある「西郷南洲・勝海舟会見の地という碑」のすぐそばにあったのが御穂鹿嶋神社という小さな神社。御穂神社と鹿嶋神社を合祀して御穂鹿嶋神社となったそうです。境内入口に橘右近という名前が入った碑がありました。碑をよく見ると「芝浜囃子の碑」とあります。
芝浜って、まさか古典落語の芝浜?
■芝浜とは
古典落語の芝浜は人情話で有名です。浜で大金を拾った亭主が儲かったといって帰ってきました。女房は大金で身を持ち崩したらダメだと、いい気になって酒を飲んで寝込んでいる間に大金は夢の話にしてしまいます。亭主は心をいれかえて熱心に働き、店をもつまでになります。そして女房が薄情するのですが、これが泣かせます。先代円楽の芝浜もよかったですね。
当時は、田町駅のあたりまで海だったんですねえ。そうか芝浜はここだったんだあ。
月: 2017年2月
おまわりさんの語源となった新徴組
先日、打合せで田町へ行った時、田町駅のすぐ見つけたのが西郷南洲・勝海舟会見の地という碑。
田町駅のすぐ近くに薩摩藩邸の蔵屋敷があったんですね。すぐ近くにあったのが上屋敷で、徳川幕府滅亡の原因となった薩摩藩邸焼き討ち事件が起きたところです。上屋敷は焼けてしまったので会見は蔵屋敷で行われたんですね。
■テロを起こした薩摩藩
徳川慶喜についてはいろいろと評価がありますが、なかなかの戦略家で薩長の先手先手をうつので、西郷隆盛などは困りはてます。そこで起こしたのが浪士による放火、掠奪、暴行。つまりテロで、これで江戸の治安を陥れます。逃げこむ先は薩摩藩邸で、つまり挑発です。
治安維持にあたっていたのが江戸市中取締にあたっていた庄内藩預かりの新徴組。新選組は京都に残った近藤勇や土方歳三が作りましたが、京都から江戸にもどって作ったのが新徴組。あまり知られていませんが先日、NHKが新徴組をテーマにした「花嵐の剣士 ~幕末を生きた女剣士・中澤琴~」というドラマをやっていました。
■おまわりさんの語源は新徴組
警察官のことを”おまわりさん”と言いますが、新徴組が江戸市中を見回ることから”御回りさん”と庶民に呼ばれるようになります。薩摩には手を出すなとお達しがありましたが、治安維持にあたっていた新徴組はついにキレテ、薩摩藩焼き討ちとなります。これが薩摩の思惑通りに戊辰戦争への道筋をつけることになります。そうか、薩摩藩邸は田町にあったんだあ。
【Red Ball】All Aboutガイドの集まり
All Aboutのガイドの集まりがRed Ball。All Aboutの赤玉から名づけられています。年一回開催されていて最近は品川駅前にあるTKPガーデンシティ品川で行われています。 Red Ball参加が目的で東京へ行っておりました。
受付で名札をもらうのですがRed Ballの参加回数が書かれていました。見ると12回で、しっかり数えているんですね。All Aboutがサービスインして16周年ですから、よく参加しています。
第一部はAll Aboutグループ全体の話や今年の編集方針などの真面目なお話。第二部は懇親会で、いろいろなガイドやAll Aboutスタッフと知り合いになれます。関西メンバーもけっこう参加していました。
バグ本の見本誌ができあがる
「バグは本当に虫だった-なぜか勇気が湧いてくるパソコン・ネット「100年の夢」ヒストリー91話 」ですが印刷は東京の池袋にある印刷所が担当しています。
たまたま東京へ行った日の夕方に見本誌ができあがるということで、印刷所の人と指定されたアメリカ大使館前で待ち合わせ。ところが指定されたアメリカ大使館へ行くとテロ対策でものものしい雰囲気になっていました。たくさんの警察官がいます。
雪降るなか、じっとアメリカ大使館を眺めているので案の定、警察官に声をかけられました(笑)。「待ち合わせです!」と返事。ようやく見本誌を受け取って、そそくさと退散して宴会場へ。神田の宴会で知り合いにお披露目してきました。
→ バグは本当に虫だった
神田でパソコン通信仲間と宴会
All Aboutへ
明日はAll Aboutのガイドが集まるRedBallというイベントがあり、1日前に東京へ到着。
恵比寿にあるAll Aboutへ行って編集者と打合せ。All About「企業のIT活用」のガイドも15年にわたってやっていますので、その間に編集者もいろいろと変っています。
記事内容の打ち合わせのはずが編集者が日野というか八王子近くの出身なので話題は八王子城へ。
八王子城というのは北条氏照が造った北条の支城です。秀吉の北条攻めで激戦となり落城しましたが、攻撃したのが上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの部隊。結局、歴史談義で終わってしまいました。八王子城、ぜひ行ってみたいのですが半日で行くのは難しく、どっかで休みをとらないとムリですねえ。
3年の短命だった恭仁京
先日、笠置山城へ登ったついでに加茂駅で降りて恭仁京跡へ行ってきました。駅から木津川を超え、高台に大極殿跡があります。三方が山に囲まれて南側は木津川が流れていますので、守りやすい要害の地になります。
恭仁京は藤原広嗣の乱が起きた後、聖武天皇が平城京から遷都した都です。ところが都づくりをしている最中に一山超えた紫香楽宮に移り、次に難波京、最終的には、もとの平城京へとめまぐるしく変わります。なぜ遷都を繰り返したのか古代史不思議の一つになっています。国分寺国分尼寺造立の詔は、この恭仁京で出されました。
造られた大極殿は、その後、山城国分寺が建てられた時に、そのまま金堂として利用されることになります。隣に七重の塔が建てられます。写真は、この塔の礎石になります。
笠置山城
鎌倉幕府打倒計画が漏れ、危なくなった後醍醐天皇は京都を脱出。三種の神器を持って挙兵したのが笠置山です。
ところが圧倒的な鎌倉幕府軍に囲まれ、笠置山は落城。後醍醐天皇は捕らえら隠岐に流されます。その間に楠木正成や赤松円心などの反幕勢力が勃興し、隠岐を脱出した後醍醐天皇と合流。足利尊氏、新田義貞を巻き込んで南北朝時代へ突入していきます。
全ての発端となったのが笠置山。ICカードが使えないJR笠置駅からすぐ見える山で、頂上に寺があり、ここが山城になっていました。あまり山城の遺構は残っていませんが稲荷神社や六角堂跡付近は高台で郭になっていました。ところどころに竪堀もあります。それはよいのですが笠置寺の住職が”猿が4匹、山の中を走りまわっているので気をつけて”と言っておりました。どう気をつけたらいいんだか。(笑)
笠置山の北、東、西は急峻な崖になっており、南側(柳生方面)は少しなだらかになっています。東海自然歩道から一歩入ると郭が5つほど並んでいました。こちらは戦国時代に造られたもののようです。