柳生但馬守、柳生十兵衛といえば徳川将軍の剣道指南役で、柳生新陰流で有名です。
”新”という名前がついているので、もともとは陰流がありました。伊勢の五ヶ所浦出身の愛洲移香斎が編み出した流派です。柳生石舟斎(但馬守)が戦国時代の人を殺す剣法ではなく、人を活かす活人剣として発展させ、また無刀取りでも有名となりました。
柳生石舟斎は筒井氏に敗れ、柳生城などが落城し筒井順慶に従うことになりますが、やがて筒井を追い出して大和を支配した松永久秀の配下となります。ところが勢力を盛り返していた筒井純慶と松永久秀が辰市城でぶつかり松永久秀は敗退します。この時、柳生は久秀側で戦います。のちに筒井とは和睦しますが柳生の里に逼塞することになります。逼塞している時に新陰流の祖、上泉伊勢守秀綱と出あい新陰流の奥意を極めることになります。自身も鍛錬していた家康との縁ができ、将軍指南役になっていきます。
柳生城のすぐ近くの丘の上にできたのが柳生陣屋。柳生石舟斎の子である柳生宗矩が築きました。ここが柳生藩の政庁となります。横は川が流れ、高台にあり城にはもってこいの立地でした。
月: 2017年3月
三州屋(神田)
2月にRedBall(All Aboutのガイドの集まり)で東京へ行った時、飲んだのが神田にある三州屋というお店。玉子焼きを頼んだら出汁巻ではなく、甘くて、しっとりとした寿司屋さんに出てくるような玉子焼きが出てきたお店です。
一緒に飲んだのはパソコン通信Nifty-ServeにあったFchiken(知的生産の技術)フォーラム時代の知り合いで、参加者の浜田 信郎さんが居酒屋礼賛に、その時の様子をアップされています。
細かいところまでよく観察されていますね。パソコン通信時代は風早人というハンドル名で一緒にFchikenのフォーラムスタッフをしておりました。
→ なんといっても鳥豆腐 … 大衆割烹「三州屋(さんしゅうや)」(神田)
→ 京急もつ煮ライン (3/3) … やきとり「鳥佳(とりよし)」(上大岡)
柳生古城
柳生城から北側に少し歩いたところに古城山があります。城山という名前の通りに、こちらにも山城がありました。バス停の背後から剣塚に向かう山道を歩くと城跡にたどりつけます。剣塚があるところが主郭となっています。
柳生古城もいつできたのか分かりません。ひょっとすると柳生城と同じ時期に造ったのかもしれません。奈良から月ヶ瀬に抜ける街道を柳生城と挟撃する形になっています。
柳生城と違い、藪もなく整備されているので堀切などがよく分かります。手前の堀切はL字型になっていて食違虎口のようになっているのが特徴です。ただ北側は二重堀切で防御を固めていますが、ちょっと北へ行くと直ぐに山頂になっていて、なんでここに郭をつくらなかったのかが不思議です。北側の笠置方面からの攻撃はあまり想定していなかったようです。
柳生城
今日は原稿書きの予備日だったんですが、思ったより早く原稿があがったので、奈良からバスに乗って柳生へ出かけてきました。
柳生氏の菩提寺である芳徳禅寺の東南の丘にあるのが柳生城。
ただ案内も何もないので登る道が分かりません。とりあえず坂を登っていくと堀切と曲輪の一つを発見。主となる曲輪は8メートルほど上がったところのようです。仕方ないので切岸、つまり崖を直登します。けっこう広い曲輪がありました。登った反対側に虎口があり、そこからだと直登しなくても、よかったのですが後の祭りです。
芳徳禅寺の前に石舟斎塁城跡の碑があります。柳生石舟斎とは柳生宗厳のことです。高台にある芳徳禅寺も曲輪の一つだったようです。
城が造られたのはいつか分かりませんが、天文13年(1544年)に筒井氏の大軍に攻められ、落城したとあるので、それ以前に城はあったのでしょう。柳生家巌・宗巌父子は筒井氏に降ることになります。
客坊城
「応仁の乱」(中公新書)が話題になっています。
足利義政が弟の義視を後継者にしたところ、日野富子が子供(義尚)を生んだことで後継者争いに発展。それぞれ細川勝元と山名宗全がくっついて、応仁の乱が勃発したというのが一般的なイメージなんですが、そんな単純なものでは途中でクーデターが起ったりして波乱万丈な戦いでした。
■客坊城
京都だけでなく大和や河内国も戦乱に巻き込まれ若江城、天王寺城、八尾城と共に客坊城が舞台になりました。客坊って、ウチの近くの客坊町?
客坊城では畠山政長方(東軍)が守っていましたが、西軍の畠山義就に攻められて陥落したと大乗院寺社雑事記に記載されています。というわけで自転車に乗って出かけてきました。生駒山の山麓を登った東大阪市立郷土博物館 の北側に昔、客坊寺があり、そこが客坊城でした。遺構はなにも残っていませんが、眺めがよく大阪平野が一望できます。
西側を見ると若江城や天王寺城がよく見えます。こんなところも応仁の乱の戦場になったんですなあ。