二上山の雄岳頂上にあるのが大津皇子の墓。円墳になっていて里中満智子の「天上の虹」で有名です(笑)。
大津皇子は天武天皇と大田皇女の間に生まれた子供で、大田皇女は鸕野讃良皇女(のちの持統天皇)の姉でしたが、大津皇子が小さい頃に亡くなり、後ろ盾がありませんでした。そのため天武天皇と鸕野讃良皇女の息子である草壁皇子が皇太子となりますが、朝廷内には大津皇子を推す声も多かったようです。
天武天皇が亡くなると、大津皇子は謀反をたくらんだと捕えられ24歳の若さで殺されます。黒幕は我が子可愛さの鸕野讃良皇女のようで叔母さんに殺されちゃうんですね。ところが草壁皇子が早世してしまい、予定が狂ってしまいます。しょうがないので草壁王子の息子だった文武天皇を14歳の若さで即位させ、実権は持統天皇がにぎりました。これが院政のモデルとなります。
さて大津皇子の墓ですが麓にある鳥谷口古墳が実際の墓ではないかと言われています。姉の大来皇女の有名な歌「うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟と我が見む」とも矛盾しません。濡れ衣かもしれませんが謀反人の墓を都から見える二上山の上に造るのもどうかなという気がする。としたら誰の墓なんだろう。
月: 2017年11月
妙国寺(堺市)
障子堀が見事な山中城
日本100名城のひとつ山中城です。
北条氏の要(カナメ)になる城で、山中城を突破されると箱根を超え、本拠地である小田原城まで一気に攻められてしまいます。
山中城は、かなり大きな山城ですが、きれいに整備されていて、特に西郭の障子堀は見事です。箱根街道が城の真ん中を通っていて、敵が岱崎出丸へ攻め込むと反対側の西郭から攻撃され、反対に西郭に攻め込むと岱崎出丸から攻撃される鉄壁の守りになっています。ところが秀吉軍は通常では考えられない兵力を投入して一気に落城させてしまいます。もっとも大名クラスの一柳直末が討死するなど、攻撃側もかなりの打撃を受けました。なりふりかまわない攻撃だったようです。
”槍の勘兵衛”と呼ばれた渡辺勘兵衛という人物がおり、秀吉の小田原征伐の時は豊臣秀次の家老中村一氏の家臣でした。山中城攻めでは、渡辺勘兵衛が先頭切って岱崎出丸に一番乗りを果たします。本人が山中城攻めの顛末を書いた渡辺水庵覚書が残っていて、覚書によれば岱崎出丸を守備していた北条方はそう多くなく、長い出丸の途中に突入することで、分断に成功し岱崎出丸を落としてしまいます。山中城は秀吉側の総攻撃によって本丸まで一気に攻め込まれて落城し、秀吉は石垣一夜城を築いて小田原城に対峙することになります。
三島駅からバスが出ており、バス停を降りると城の入口です。スーツ姿で登れる山城です。
東大阪年金事務所の調査
東大阪年金事務所へ行ってきました。
健康保険法198条第1項と厚生年金法第100条第1項に基づく調査なんだそうで、呼び出し状には「全国健康保険協会管掌健康保険及び厚生年金被保険者の資格及び報酬等の調査実施について」と書いてあります。指定された日時は無理だったので今日、資料を持って東大阪年金事務所へ行ってきました。
用紙には持参するものとして出勤簿、賃金台帳、労働者名簿、就業規則などが書かれていますが、一人会社なんで就業規則もなく賃金台帳しかありません。とりあえず、賃金台帳を紙に印刷して持参。聞かれたことに答えて5分で終わってしまいました。自転車で片道30分かけて行ったのに(笑)
ネットで調べると3年に1回ほど届出等が正規に提出されているかなど調査があるようです。
小田原征伐で最後まで持ちこたえた韮山城
今回のメインイベントである韮山城です。
駿河から伊豆へ攻め入った北条早雲が拠点とした城で、早雲は韮山城を中心に伊豆の各拠点の支配を進め、亡くなるまで居城にしていました。早雲以降の北条氏は小田原城に本拠を移します。
秀吉の北条攻めで関東の各支城が次々に落城しますが、最後まで残ったのが”のぼうの城”で有名な忍城と韮山城です。韮山城の城主は北条氏規で、最後まで持ちこたえ小田原城が開城したことから降伏しました。北条宗家は滅びますが、北条氏規の子孫は狭山藩(現在の大阪府狭山市)として明治まで続きます。南海電車のさやま遊園は狭山藩下屋敷跡地に建っていました。
名高い韮山城なんで、よく整備されています。郭内は藪だらけが定番なんですが、きれいに取り払われ木もなく眺めがよいこと。土橋や櫓跡もしっかり残っていました。平山城なのでスーツ姿でも大丈夫です。
源氏の源流 蛭ケ島
東京に一泊した後、早朝から伊豆へ移動。
まずは蛭ケ島を目指します。皆さん、よくご存知の源頼朝が流された地です。近くには北条氏館があり北条氏が支配する土地でした。後には堀越御所が作られ堀越公方の根拠地となります。
平治の乱で敗れた源義朝が尾張へ落ちのびますが、部下の裏切りにあい暗殺されます。そこで問題となったのが源義朝の子供で源氏の嫡男・頼朝の処遇です。当時、13歳で死刑が当然でしたが、ところが平清盛の継母である池禅尼が助命を願ったことから伊豆の蛭ケ島に流されることになります。平清盛、最大の失敗でした。
蛭ケ島で20年を過ごし、北条政子と結婚。北条氏を味方につけ旗揚げ、平氏を滅ぼします。幕府を開き、源氏の天下となりますが、源義家以外は跡を継いだ足利氏(源氏)もろくな死に方をしない一族となります。源氏から政権を戻すために織田信長は平氏を名乗ります。
さて蛭ケ島ですが、現在は地続きになっていて富士山を眺める源頼朝&北条政子の銅像が建っています。
東京へセミナーに
今日の夜は所属している「知的生産の技術研究会」東京本部でのセミナー。タイトルは「バグは本当に虫だった&知研関西30年の歴史」です。会場で本を売ってもいいよということでホイホイと東京へ来ています。交流会もセットなんだそうです。
せっかくなので夕方、恵比寿のAll Aboutに寄って、担当編集者のお顔を拝見しました。今年、また編集者が変わりまして、これで何人目だ(笑)。All Aboutの受付にはペッパー君が置かれていましたが、誰も相手にせず、皆、受付電話で担当者を呼び出していました。ハロウィンの時だけは仮装したため、ウケがよかったそうです。
さて明日は山城を巡る計画をたてているんですが、天気大丈夫かいなあ!
佐紀城
平城(へいぜい)天皇陵のすぐ近く、平城(へいじょう)京跡の北側に佐紀城があります。佐紀神社境内一帯が城跡になっています。平城(ひらじろ)ですからスーツ姿でも大丈夫です。平城京散策のついでに、ぜひどうぞ。佐紀神社は池を挟んで2つあり東側の亀畑の佐紀神社の方で、目の前には保育園があります。
神社の東側に土塁、空堀、櫓跡がよく残っていますが、ふつうの人が見たら単なる土の山です。神社の案内板にも城については何も書かれていません。もったいな~あ。最近、山城が表示されるようになったGoogleマップですが近くの大和超昇寺城跡はあるのに佐紀城は表示されていません。
すぐ近くに超昇寺氏が作った超昇寺城(竹藪だらけで入るのは大変)があり、佐紀城は室町時代に造られた出城と言われています。超昇寺氏は越智氏と戦ったり筒井氏についたり他の大和の国人と同様に右往左往していました
現在まで名前が残った宮内省
律令制度によって官僚制度が整い、8省が整備されました。他に神祇官(神祇祭祀を司る)、太政官(国政一般を司る)がありました。
中務省-天皇の公的な補佐 詔書の作成など政治に関わる
式部省-文部省
治部省-外務省&葬事・仏寺・雅楽
民部省-税務署
兵部省-軍隊
刑部省-裁判所
大蔵省
宮内省-天皇の私的な補佐
今でいう厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省なんかはなかったんですね。民部省には主計寮と主税寮があり現在の財務省主税局、財務省主計局・主計官として名前が残っています。予算編成になるとよく名前を聞く役名です。
古代の省名で現在まで残っていたのが大蔵省と宮内省ですが大蔵省は財務省になってしまいましたので、残っているのは宮内庁だけです。
平城宮跡の宮内省は建物などが復元されています。ただ、ここが宮内省だとは確定はされておらず、おそらくという推定です。
平城天皇陵じゃない平城天皇陵
平城京跡にできた大極殿のすぐ北にあるのが平城天皇陵。「へいじょう」ではなく「へいぜい」です。
平安遷都した桓武天皇の息子で桓武天皇の後に即位しました。嵯峨天皇に皇位を譲って上皇となると、平城上皇は旧都である平城京に移り住みます。平城天皇は亡くなってからの追号で、平城京好きだったことからつけられました。
平城天皇陵は長い間、円墳と考えられていましたが実は前方後円墳。平城京を造る時に都のエリアに入る前方部をぶっ壊したことが判明します。続日本紀の和銅二年(709)の記事に古墳の話が出てきます。平城京の造営を管轄していた役所に対して、元明天皇が「古墳を破壊した場合には、祭祀を行って死者の魂を慰めること」という勅令を出したそうです。
平城京造営にあたっては、いくつかの古墳が破壊されたようで、現在の都市開発とこういったところは変わりませんなあ。さて平城天皇陵ですが、円墳ではなく前方後円墳でした。前方後円墳は欽明天皇陵あたりで終わっていますので時代があわず、平城天皇陵に葬られているのは平城天皇じゃなさそうです。