先週金曜日、夜のセミナーまで、どっか喫茶店に入って時間をつぶそうと思ったら、どこにも喫茶店がない!
しょうがないので早い目にご飯でも食べようと思って町を歩いていると湯浅駅近くで赤暖簾(はたよ食堂)を発見。しらす丼とかメニューが出ていたので中に入ると客は誰もいません。しらす丼やオデンを食べながら店主と話をしていました。もちろんセミナー前なのでお酒は厳禁です。赤暖簾で酒を我慢するほど体に悪いことはありません。
■外部環境の変化
(1)一番の打撃が道路交通法の改正による飲酒運転の厳罰化で客足がとまる
(2)高速道路が周参見まで伸びたため釣り客が周参見まで行くようになり釣り客が立ち寄らなくなった
(3)湯浅駅の隣に広川ビーチ駅ができ、駐車場代がほぼタダなので湯浅駅の通勤客が減り店への立ち寄りも減った
なかなか経営が大変なんですが、地元の大学生が勝手にFacebookページを立ち上げ、書き込みを見て観光客が寄ってくれるようになったそうです。またFacebookページを見たテレビ局から取材の連絡がはいり、吉田類がやってきて「吉田類の酒場放浪記」(BS-TBS)にも登場。今度は番組を見た観光客が寄ってくれるという循環になっているそうです。
セミナー前になかなか面白い話を聞けましたが、一杯飲みたかったな~あ。
月: 2017年12月
もう一つの湯浅城
紀伊国屋文左衛門の出身地、村人たちに津波の危険を知らせるため稲の束に火をつけた”稲むらの火”で有名な湯浅です。大和ハウス工業のCMでは湯浅町の古い街並みが出てきます。
この湯浅の町を見下ろすところにあるのが湯浅宗重が築いた湯浅城ですが、その横にもう一つの湯浅城が建っています。それが湯浅温泉 湯浅城で、以前は国民宿舎だったようです。湯浅城は戦国時代なんで山城なんですが、こちらは江戸時代の近代城郭スタイルになっていて日帰り温泉と宿泊ができます。
離れたところに二の丸温泉というのもあり、以前は同じ経営だったのが、どうも別れたようです。
湯浅では全国の湯浅姓が集まって親睦を深める「湯浅ふるさと会」という催しがあるそうで、催しの際は近代城郭風の湯浅城に泊まるんですかねえ。山城の方の湯浅城・登城記録に湯浅という名前も書かれていました。なんせ自分のルーツの場所ですからねえ。
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湯浅城
醤油発祥地で有名な和歌山県・湯浅でセミナーをしてきました。セミナーは夜だったので、当然、昼過ぎに到着し、まず目指すのは湯浅城です。
湯浅城を造ったのは湯浅宗重で、平清盛が熊野詣のため紀州に来た留守を狙って、京都で藤原信頼・源義朝が挙兵。この時に平清盛に付き従って上洛し勝利をおさめます。そのまま清盛に仕えましたが平家が滅んでからは源氏についています。湯浅党は紀南を中心に拡がり、広氏、得田氏、糸我氏、保田氏などは同族になります。
湯浅城ですが入口に鍵がかかっていて書かれている電話番号に電話をすると鍵を開けてもらえます。グリーンソサエティという地元のボランティア(今、蛍の復活をしているそうです)グループが管理しているそうで、本当は鍵をかけたくないが山火事などが心配でということでした。そのまま案内してもらいましたが、きれいに整備されていて郭跡など案内板や冠木門が作られていました。主郭跡からは湯浅の町と海などが一望できます。
グリーンソサエティによると1週間ぐらい前にも見学したい人が来られ案内したそうですが、めちゃくちゃ城に詳しい人で、よく山城に登っているということでした。帰りに入山記録を見ると私の前にあったのが滋賀県立大学・中井先生のお名前。「城館調査の手引き」など、たくさんの本を書かれている中世城郭の専門家ですから、そら詳しいはずです。隣に名前を記載させていただきました。
ITを使って売上をあげよう!(湯浅町)
津城の総構え跡?
復刻された江戸時代の津城下絵図をもっているのですが津城の北側、塔世橋近くに小さな堀があります。津城には内堀と外濠があり、惣構えにしては中途半端で、しかも当時の市街地の中を通っています。
どうも藤堂高虎が縄張りした時は観音寺の裏から安濃川の支流である桜川の小流につないで、城下の最も外側の守りとする計画、つまり惣構えがあったようです。ですが豊臣家が滅んでしまい計画を途中で放棄したんですかねえ。東の丸も整備しませんでした。やがて江戸時代がすすむうちに、高虎時代の惣構えを超えて市街地が大きくなったのでしょう。
現地には小さな水路が残っています。場所は国民生活金融公庫の東側ですが、ただ水路は途中で観音寺に向かって南に折れないといけないのですが、まっすぐ東側に進んでいます。国道23号線をはさんだ反対側に料亭「桜水楼」がありました。名前の通りに見事な桜が春になると咲き、国道23号線に花びらが積もっていました。
今は更地になって朝日屋の駐車場になっています。藤堂藩の時代は桜川が流れていたので、そこから名前をとったかもしれません。
あなたの知らないPowerPointの世界
昨夜は知的生産の技術研究会・関西セミナーを大阪産業創造館で開催。
「あなたの知らないPowerPointの世界-魅せるビジネスプレゼンテーションとは-」というタイトルでノヴェル・プレゼンテーション代表・河合さんにお話しいただきました。河合さんはMicrosoft MVP AwardのPowerPoint部門を2011年より8年連続受賞されている達人です。
なんせ幹事がずぼらで、予約制にしていないので何人集まるか当日にならないと分かりません。20人ぐらいかな~あと思っていたら、36名もの参加で会場はほぼ満員でした。
ビジネス・プレゼンといえばPowerPointが定番。ところが巷にあふれるのは箇条書きや文章が書かれたスライドばかり。スライドをただ読み上げるだけのプレゼンも多く、聞いている方は眠くなるだけです。これをパワポ死と言います。
その場ではわかった気になっても、記憶には残らず、人を動かすためのプレゼンにはなっていません。重要なのはプレゼンの「印象」。印象は記憶に焼き付き、人々を行動へと駆り立てます。どうすれば印象に残るプレゼンができるのでしょうか?
ということで、今年、執筆された「コピペで使える!動くPowerPoint素材集2000」(翔泳社)の技も駆使し、PowerPointでこんなことまでできるんだと紹介いただきました。
七郷山城
最後の山城が七郷山城。
七郷山城は送迎山城から近く、明神山から連なる山稜沿いにあります。一回山を降りて、また登るのはしんどいので尾根沿いに行けないかなと、途中からハイキング道に入ると、これが正解でした。Googleマップでみると、この尾根道は明神山トレイルのコースになっているようで両側は急峻な崖になっています。
尾根道を進むと、いきなり二重の堀切が現れます。堀切を超えると尾根道に階段がついていて登ると主郭に入ります。なかなか大きな郭で端まで行くと階段を降りた先にまた二重の堀切があります。南北は崖になっていますので東西の尾根道に対する防御をすればよい構造で、なかなか見ごたえがある山城です。何の案内板もないので、ほとんどの人は城に気づかずに尾根道をハイキングしているんでしょうね。
山城を3つ登り、送迎山城を探すのに手間取ったこともあり、日没が近づいていました。南側の近鉄方面に降りるのはあきらめ、北側の崖を降りる道をたどりJR河内堅上駅から大阪へ戻ってきました。
送迎山城
2本目の山城は送迎(ひるめ)山城。大阪と奈良の県境近くにある近鉄・関屋駅から北に向かい、旗尾池を超えてずっと舗装路を行くと、途中から東海自然歩道になります。道を進みますが平坦な道が続き、どう考えてもおかしい。Googleマップで確認すると山城があるはずの場所から東にずれています。おかしいなと戻ってGPSを見ながら歩いてもずれていきます。もう一回戻ると、廃墟のようなところに埋もれた道を発見。歩き始めると坂となり、これが正解でした。
途中でハイキング道と合流し、ドングリ拾いをしていた家族連れが「どちらに向かいますの?」と聞いてきたので、正直に「山城へ」と答えましたが、どう考えても不審者に思われたでしょうねえ(笑)。
送迎山城は明神山の南にある送迎山にあり、郭、堀切、土塁跡が残っていますが、急峻ではなく、ゆるやかな造りになっています。造ったのは大和武士団の片岡氏で本城にしていたようですが、後に王寺の近くに片岡城を造り、そちらに移ります。
外鎌山城
先日、3本登ってきた山城の1本目が外鎌山城(戸賀間山城)。
近鉄・大和朝倉駅の住宅街を抜けた外鎌山山頂にあります。えっちらおっちら30分ほど登ると城跡に着きます。外鎌山城は南朝の忠臣・西阿(せいあ)が築いた城で、山頂には「西阿の碑」が建っていました。西阿は桜井一帯をおさめた大和武士団の一人です。
すぐ隣の鳥見山は神武天皇の霊畤(即位後に最初に行われる新嘗祭【大嘗祭のこと】)が行われた地で、ここに同じく西阿の造った外山城(鳥見山城)がありました。大和の東の端にあり山のすぐ下を大和から伊勢へ向かう初瀬街道が通っていますので、この2つの山城で街道をおさえていました。
頂上の主郭からは大和三山、二上山などが見え、大和盆地を見渡すことができ、眺めがいいですねえ。万葉集で外鎌山は朝倉富士と呼ばれていました。外鎌山城は主郭の周りには帯郭がありますが、それほど大きな城でなく、こじんまりとしています。