大阪府よろず支援拠点主催のよろず塾ワークショップ。
前回に引き続いて第2回目となり今回もマイドーム大阪8階の会議室で開催しています。18~21時の長丁場で前半は西谷コーディネータが先でソーシャルメディア活用の話。後半は私の担当でホームページを中心とした話となります。
講義の間にワークを2回行いますので、まずは今回も皆さんからの自己紹介をしていただき、ちょうど西谷さんの講義が始まりました。
さあ21時に終わったらビールだあ!
月: 2018年1月
新村猛と広辞苑
今朝、日経新聞朝刊の文化欄に載っていたのが広辞苑の父である新村出。”にいむら”ではなく”しんむら”と読みます。昭和10年に出た辞苑の改訂作業を続け、太平洋戦争で中断もありましたが校正刷りが戦火を生き残り、昭和30年に広辞苑が出ました。これが大ヒットします。
新村出ともに次男でフランス文学者の新村猛が辞書編纂を手伝います。太平洋戦争が終わった後、世界市民の育成をめざしできたのが京都人文学園。この初代園長が新村猛です。主に京都大学の講師陣が教育に関わり、羽仁五郎の自由学園の影響もあって、生徒自治、無試験、無規則、無処罰と革新的な教育をしていました。この京都人文学がめぐりめぐって関西文理学園となります。
昔、関西文理学園が運営する専門学校で働いた時期があり、本部に京都人文学園の設立趣意書などが残っていました。新村猛の名前を見た時には、”エッー、あの広辞苑の新村猛!”と驚いたものです。
清和源氏発祥の地 多田院
清和源氏武士団発祥の地が能勢にある多田院。現在は多田神社になっていますが付近には多田院という地名が残っています。
源満仲が国司を務めた摂津に土着し、やがて多田盆地を開拓して家臣団を組織し、これが清和源氏武士団となります。能勢の国人だった能勢氏、野間氏、塩川氏などは多田院御家人となります。源満仲(多田満仲)が拠点にした多田院ですが、南と西を川に囲まれ、周囲は高台になっていて、まさに城郭です。
多田神社の付近の地図を見ると、すぐ近くに新田城山公園というのを見つけました。城山という名前がついているのは昔、城郭があったところです。調べてみると住宅地の建設で遺構は残っていませんが、ここにあったのが新田城のようです。塩川氏が拠点とした山下城の出城という説があるようです。
池田恒利の屋敷跡
池田恒利といえば池田恒興のお父さんです。
池田恒興は織田信長の乳兄弟(信長の乳母が池田恒興の母)で、信長のそばで戦い続けました。信長に謀反を起こした荒木村重の花隈城をおとした後、兵庫城を造り城主におさまります。本能寺の変の後、織田家の行く末を決める清須会議にも参加し、秀吉側につきます。
秀吉が家康と戦った小牧・長久手の戦いでは遠く迂回して三河を攻める作戦に従事しますが家康に見破られ、戦死します。嫡男も戦死したため、家督は次男の池田輝政が継ぐことになります。そう、今に残る姫路城を造った池田輝政です。
さて池田恒興のお父さんだった池田恒利の屋敷跡ですが、何も残っておらず、ただ地名が小城町となっています。前田利家の城のすぐお隣さんだったんですねえ。
前田利家の荒子城
成果の出るWeb活用法をモノにする
大阪府よろず支援拠点が開催する「よろず塾ワークショップセミナー」
「成果の出るWeb活用法をモノにする」という2回講座で、本日24日(水)と来週31日(水)の18~21時に開催。前半1時間半の講義は私で、後半1時間半は西谷コーディネータが担当します。私の担当分は無事に終了し、今、西谷コーディネータがしゃべっています(笑)。
毎年行っている”よろず塾ワークショップセミナー”ですが、内容は少しずつ変えています。けっこう人気がある講座で年初に募集開始したとたんに、あっという間に埋まってしまいキャンセル待ち状態になってしまいました。
本日の内容は「自社にあったWeb活用法」で、ホームページ、ブログ、Facebook、インスタなどいろいろなツールがありますが、自社にあったツールをどう組み合わせればよいのか、デジタルだけではなくアナログとどう組み合わせるのか、マーケティング戦略をどう組み立てればよいかといった内容になっています。
【確定申告】電子申告で使うマイナンバーカードの発行
まもなく確定申告時期を迎えます。
今年の確定申告は2018年2月16日(金)~3月15日(木)となります。電子申告(E-Tax)は年明け1月4日(木)から受付が始まっており、現在は24時間、申告できます。便利な電子申告ですが準備が必要です。以前は住民基本台帳カード(住基カード)でしたが、マイナンバーカードに変わりましたので、ガイド記事をマイナンバーカードにあわせてリライトしました。
【確定申告】電子申告で使うマイナンバーカードの発行
山下城(出城)
山下城の隣山、ちょうど能勢街道(173号線)のトンネルがある向山の頂上に山城があります。
山下城の出城といわれていますが、どうも山下城と縄張りの作り方が違っているようで、別の城の可能性があります。山城はたくさんあり、誰が造ったか分かっている方が珍しいのが実態です。ひょっとすると山下城攻めで使われた陣城かもしれません。
けっこう大きな単郭で堀切がありました。この堀切の途中に近代城郭のように折れがあり、横矢がかかるようになっています。堀切といえば真っすぐ造るのが定番ですが、けっこう技巧的な構造になっています。
城に向かう山道はなさそうなので、とりあえず山下城から下って谷へ降ります。谷へ降りる途中、木立を突っ切っていく時にメガネを落としてしまい、20分ほど横山やすし状態でメガネを探していました。ようやくメガネを発見し、今度は谷から切岸を登りようやく城へたどりつきました。途中には野生のリスもいて、前回、山下城へ行った時は野生の鹿にも遭遇しましたので、能勢の山々は自然豊かです。
山下城(一庫城)
能勢電鉄・山下駅そばにある山の頂上にあるのが山下城(一庫城)。
源満仲を祖に持つ多田武士団(多田院御家人)の筆頭のような存在だった塩川氏の城です。一度、道がわからず散々苦労して登りましたが、郷土博物館の近くから山道があるのを前回、行った時に見つけており、今回はすんなり登ってきました。山道の途中には社があり、これが郭跡の一つで能勢の町が見渡せます。頂上には三段になっている広い広場の郭と土塁が残っています。また尾根沿いにも三段ほどの郭があり、かなり大きな山城です。
■塩川氏
戦国時代、塩川氏は守護の戦いに巻き込まれ山下城で三好長慶と戦っているようです。三好長慶亡き後の三好氏とも敵対していた関係から織田信長が足利義昭を擁して上洛した時は信長に協力して摂津から三好勢を追い落とすのに協力しています。そのあと、信長の家来になったようで、荒木村重が信長に謀反を起こした時には有岡城(伊丹城)攻めにも参加していますし、本願寺攻めにも加わっています。同じ能勢の国人で多田院御家人だった能勢氏や野間氏とは犬猿の仲でよく争っています。
信長が本能寺の変で倒れた時には秀吉に属して、山崎の合戦にも出陣します。ところが能勢氏が秀吉の命令で島津征伐に出かけている留守を狙って塩川氏が攻撃したため秀吉は激怒。片桐且元・池田輝政・堀尾吉春らを討抜軍として山下城に派遣し、塩川氏は没落したと「多田雪霜談」なる軍記物に出てきますが、この頃に能勢氏はすでに没落していたはずで、軍記物の話はどうもトンデモ話のようです。