カラー書道 ブラッシュアート展2
鎌田惺舟さんがギャラリーで展示会をするということで昨日、山城に登った後、寄ってきました。場所は阪神・杭瀬駅から北に5分ほど歩いた杭瀬ギャラリーです。一帯には昔ながらの公設市場のような商店街があって、なかなかいい町ですね。杭瀬昭和ショッピングロードというそうです。
ギャラリーは丸徳ビルの3階にあり、なかなかよい雰囲気です。カラー書道は筆は使いますが、ふつうの書道とは全然違う世界で、写真ではなく現物を見るのが一番ですね。
ブラッシュアート展2は28日(日)まで開催されています。 入場無料(11:00~19:00)
月: 2018年1月
和泉葛葉城
支払調書とは?確定申告とマイナンバーとの関係
年が明けると個人事業主やフリーランスに届きはじめるのが支払調書。確定申告になくてはならないものですが、発行する側は税務署へ出す義務はありますが、個人事業主などに送付する義務はなく、実はこれはサービスの一環のようなものです。
All About「企業のIT活用」最新ガイド記事です!
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能勢電鉄
阪急梅田から宝塚線に乗り北摂の山が見えてきたあたりで停車するのが川西能勢口駅。ここから能勢電鉄が出ています。
もともとは能勢妙見山への参拝客輸送を目的として設立されましたが、現在は、阪急阪神ホールディングスの子会社で、妙見山へのケーブル線も能勢電鉄が運営しています。
能勢電鉄は北摂の山の中を進んでいきますが、途中にあるのが多田駅。摂津守だった源満仲が住吉大社に参詣したところ、「北に向かって矢を射よ。矢の落ちる所を居城とせよ」との神託を受けます。鏑矢を放って鼓ヶ滝付近まで来た時に白髪の老人に出会い、(能勢電鉄には鼓滝駅があります)老人によると沼にいる九頭竜の目に矢がささっているという話でした。沼に行くと竜が暴れていましたが、やがて息絶え、暴れたことで水がなくなり多くの田ができたことで多田になったそうです。
伝説はそうなんですが、池や沼を埋め立てて新田開発してできた多田の地を拠点に清和源氏が誕生したようですね。源満仲は多田満仲となり多田源氏の祖となります。満仲の息子が大江山鬼退治で有名な源頼光です。能勢電鉄の多田駅近くに清和源氏の本山である多田神社があります。
松阪サテライト7
吉川城(能勢)
最近のGoogleマップには困ったもので、マイナーな山城まで掲載されています。能勢の山城を巡り能勢電鉄・妙見口駅に戻ろうとマップを見ると駅の近くに摂津・吉川城跡という文字を発見。
城跡の大体の場所が分かったので、とりあえず山登りを開始。ところが頂上付近にたどりついても城の遺構はなく、GPSを確認すると隣の山の頂上でした。つくづく便利な世の中になりました。
というわけで尾根道を探して歩くと途中でハイキング道を発見。あとは道なりに山を登ると吉川城へたどりつきました。単郭で郭の周りに土塁などが残っていました。ベンチなども置かれていて能勢の街を見渡すことができます。写真は吉川城へ登る途中から見た妙見山で妙見山ケーブルが見えます。(冬は動いていません)
吉川城は多田院御家人だった吉川氏が城主でしたが、「高台寺日記 塩川家臣日記」によると塩川氏に吉川城を攻撃され丹波に逃げたとあります。能勢、野間、吉川は塩川氏と対立していたようで、いろいろな戦がこの地で行われた模様です。
地黄陣屋
織田信長と対立し、本能寺の変では明智光秀に味方したことから能勢頼次は備前岡山に落ち延びました。月日が流れ徳川家康が京都の実相寺(日蓮宗)で休憩した時、住職が能勢頼次の弟だった縁から、能勢頼次は家康に召し抱えられることになります。関ヶ原の戦いで戦功を立て、家康から能勢の領地を与えられます。
別の説もあり秀吉の九州征伐に能勢頼次が従っていた時に犬猿の仲だった塩川氏が能勢氏を攻め、急遽大坂へ戻った能勢頼次が秀吉に訴えて塩川氏を滅ぼしたという説です。いずれにしても能勢氏は江戸時代、徳川家に仕えることなりました。丸山城の代わりに新たに地黄城(地黄陣屋)を構築します。今は能勢町東中学校となっていますが、石垣などが残されています。地黄は薬草の地黄草からきており、能勢には平安時代、朝廷の典薬寮領の地黄御薗がありました。
故郷の地を回復できた能勢頼次は為楽山城の跡地に仏堂を建て、これが能勢妙見山となります。参詣者が増え、全国的に「能勢の妙見さん」が有名となります。能勢家は江戸の本所に下屋敷があったことから屋敷内に妙見菩薩を勧請し、これが妙見山別院となります。勝海舟が子供時代に大けがをした時、父の小吉が水垢離のために日参したのが妙見山別院となります。
センター試験
本日はセンター試験2日目。受験生の皆さん、がんばってください!
前日の日本史Bの問題が新聞に掲載されていましたが土地制度の問題で出ていたのが「東大寺領糞置荘開田図」の写真。どっかで見たなと思ったら昨年の正倉院展で出ていた「東大寺開田地図 越前国足羽郡糞置村田図」でした。麻布に描いた天平神護2年(766)作成の地図です。
また地理Bを見ていると”城下町としての歴史をもつ日本のある都市”として城跡などの市街地の地図が出てますが、独特の城跡の形から彦根城とすぐ分かります。となるとB地点は夢京橋キャッスルロードとすぐ分かります。城好きの受験生には有利な問題ですね(笑)。
大阪府中小企業診断協会 新年互例会
丸山城(能勢)
丸山というこんもりとした山があり、ここに能勢氏の山城がありました。
能勢氏は多田源氏の流れをくみ摂津を代表する御家人で、鎌倉時代は田尻や野間などの地頭職をしていました。室町時代は代々足利将軍家に仕え、将軍家直属の奉行衆でした。戦国期は摂津守護細川京兆家の被官であり、応仁の乱では東軍の細川勝元に味方し能勢頼弘らが討死します。
源満仲から数えて22代目にあたる能勢頼通は、京へ上洛した織田信長に対抗したため、信長の命を受けた塩川氏(能勢・山下城)によって殺されてしまいます。能勢氏では、頼通の弟の能勢頼次を後継として戦いますが、丸山城は落城し、居城を為楽山(いらくさん:現在の妙見山)に移します。
能勢は亀岡に近く、能勢頼次は明智光秀と親しい関係であり、また兄が信長に殺されたことから、本能寺の変が起こった時には、明智光秀に味方しますが、光秀が秀吉に敗れたことから備前岡山へ落ち延びます。
丸山城はきちんと整備されており主郭からは地黄の街並みを一望できます。