名曲喫茶 柳月堂

柳月堂
出町柳駅前にあるのが名曲喫茶「柳月堂」。
大きなスピーカーでクラシックが流れるお店で、学生時代、時たま行っておりました。当時は小川通にハイドン、銀閣寺近くにゲートという名曲喫茶がありました。
柳月堂は1981年(昭和56年)に閉店となり、京都新聞などに大きく取り上げらえましたが、現在の2階建てビルに建て替えられた後、常連客からの復活要望などに答え、復活しています。今、1階はベーカリーショップになっています。

大文字送り火の火床

大文字
如意岳城から銀閣寺に向かって山道を降りる途中に五山送り火の火床があります。いわゆる「大」の部分です。
そうそう京都人の前で”大文字焼き”と言ってはいけません。「京都には”大文字焼き”なんて言葉は、あらしまへん」とバカにされます。言うなら”大文字の送り火”です。
遠くから見ると、きれいな「大」ですが近くで見るとコンクリートの火床が点々と続いているだけの代物。この火床の上に薪を井桁に組んで8月16日に点火します。
50年ぐらい前、京都のバカな学生達が送り火の前日から山に入って隠れて待機し、「大」の点灯と共に束にした懐中電灯をつけ「犬」にしてしまったという事件が起きます。学生たちはこっぴどく叱られて京都新聞に犬文字事件が掲載されたそうです。「夜は短し歩けよ乙女」ではありませんが、京都は学生を阿呆にする不思議な街でもあります。

如意岳城 大文字山の頂上にある城

如意岳城
そうだ、京都、行こう。
銀閣寺の背後にあるのが大文字で有名な如意岳で、中尾城から尾根沿いの山道を30分ほど歩くとたどりつけます。中尾城からの山道を歩いている酔狂な人間はいませんが途中で銀閣寺の裏手から登る山道と合流すると、こちらはハイキング客で一杯。
如意岳頂上からは京都市街や山科が見渡せ、ハイカーのみなさん弁当などを食べていますが、ここが如意岳城の主郭跡です。城域はかなり広く頂上からいくつもの郭が広がっていて堀切や土橋もたくさんあります。三重堀切もあって見事ですねえ。
文献資料によると、古くは平清盛や源義朝時代の保元の乱でも如意岳は合戦場所となっています。この頃は本格的な山城じゃなかったでしょう。永正6年(1509)に三好長慶父子が如意岳城に立て籠もる中、細川氏、畠山氏、大内氏が攻撃していることが実隆公記、後法成寺尚通公記、拾芥記などに記載されています。
これ以外にも如意岳城を舞台にいろいろな合戦が行われ、京都ということもあり文献に記録されています。ほとんどの山城は記録がありませんが、文献でも確認できる貴重な山城跡になっています。

中尾城 銀閣寺の裏手にある山城

中尾城
そうだ、京都、行こう。
土曜日といえばブラタモリ。近江アナウンサーから林田アナウンサーに代わり、第一弾は銀閣寺です。ブラタモリでは絶対に出てきませんが観光客で一杯の銀閣寺の裏手に山城があります。Googleマップでもバッチリ出てきます。
観光客と人力車でごった返している銀閣寺山門から左(北)に入ると八神社があります。この八神社を右(東)に曲がると大文字山に登れる登山道が続いていて、この登山道にも、まあまあ観光客がいます。この登山道に入る寸前に左(北)に入る道らしきものがあり、当然ながら誰も歩いている人はいません。ここが中尾城への入口です。20分ほど、尾根道を登っていくと頂上につき、ここにあるのが中尾城の出城。
■中尾城の戦い
出城といってもだいぶ破壊が進んでいて、よく分かりません。ここから尾根沿いの道をひたすら登っていくと中尾城の本城に着きます。頂上にいくつもの郭があり、けっこう大きな城で、郭の遺構もよく残っています。城を造ったのは室町幕府・第12代将軍である足利義晴。三好長慶と争っていた時代で、足利義晴が亡くなってからは第13代将軍足利義輝(自ら刀で戦い殺された将軍)と細川晴元とタッグを組んでいました。
三好長慶は中尾城麓の聖護院・北白川・鹿ヶ谷・田中などを放火し、また近江にも進出したため、後方が脅かされると足利義輝は中尾城から撤退して近江・堅田へ逃げます。中尾城には三好軍が入り城は破却されます。この一連の騒動が日本史に出てくる”中尾城の戦い”で、舞台になった城です。

岸和田城 防潮石垣

岸和田城 防潮石垣
岸和田城のすぐ西側(海側)を走っているのが熊野街道。大坂と熊野(和歌山)を結ぶ街道で大坂ではマイドーム大阪のすぐ近くの中大江公園の横を熊野街道が走っています。この街道から少し海側に行ったところにあったのが防潮石垣です。
岡部氏が岸和田城城主になる前の松平時代にできた古い石垣です。海ははるか西側になりましたが、当時、もっと内陸部まで海でした。800メートルにもわたる石垣でしたが、明治維新後に大部分が破壊され、今は住宅街の中に9メートルほどが残っています。

岸和田城

岸和田城
桶狭間の合戦の時、今川側の最前線だったのが鳴海城。織田信長は鳴海城対策のため周囲に丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築きました。この時、鳴海城を守っていたのが今川家家臣だった岡部元信。
本貫は駿河国志太郡岡部郷です。桶狭間の合戦で今川義元が討ち取られても岡部元信の織田家と戦いを続けます。開城をうながすと主君・義元の首と引き換えならということで、織田信長も敵ながらあっぱれと思ったのか義元の首級を棺に納めて渡し、鳴海城は受け渡されました。帰りがけには刈谷城を攻撃し、織田方の水野信近を討ち取ったとも伝わる剛の者です。
岡部家は今川が滅んだ後は武田に仕え、武田が滅ぶと徳川家康に仕えました。江戸時代となり、この岡部一族が藩主として入ったのが岸和田城です。岡部家は13代、明治まで続きました。

長谷寺 二本の杉

長谷寺
高束城跡から石畳の道をずっと下ると初瀬ダムがあります。ここから初瀬川となり、やがて大和川になって大阪湾へ至ります。
初瀬ダムから初瀬川沿いに下っていくと牡丹で有名な花の御寺である長谷寺があります。ふつうは近鉄の長谷寺駅から行くのですが、山側から行くのも、なかかなオススメです。長谷寺に着き、境内入口で待っているのが399段の登廊です。
長谷寺の創建は奈良時代で、平安時代には貴族の信仰を集め、枕草子、源氏物語などにも登場します。登回廊の途中から藤原定家塚へ行く道があり、途中にあるのが二本(ふたもと)の杉で、この杉は源氏物語の第22帖「玉鬘(夕顔の娘の名前)」で登場します。
長谷寺の御利益を頼みに参詣の旅に出た玉鬘が、夕顔(母親)の女房である右近と再会するのが二本の杉で、根元から二本に別れています。再会がかなう霊木とされており現在もあります。早い話がパワースポットの一つなんですが、全然知られていないようで観光客は誰もいません(笑)。再会で縁結びじゃないからかな~あ。

四十九駅(伊賀鉄道)ができていた

四十九駅
久しぶりに忍者の里・伊賀上野へ
昔、西岡たかしの名曲「上野市(うえのまち)」で歌われたのが伊賀鉄道です。”桑町~茅町~広小路~もう一つ揺られて上野市(うえのまち)”という伊賀鉄道の駅名が登場します。伊賀鉄道は江の島電鉄のように住宅街の間を通り風情がありますね。また松本零士のイラストで有名です。
伊賀鉄道の車両が少し変わっていてインバウンド対応のために料金案内が英語、中国語、韓国語になっていました。JRにしろ近鉄にしろ鉄道で伊賀上野に入るには伊賀鉄道しかありません。
■四十九駅が誕生
また猪田道駅と桑町駅の間に四十九(しじゅうく)駅という新駅ができていました。3月17日にできたばっかりだそうです。しかも桑町駅からそれほど離れていません。新駅ができた理由は市役所の建て替え問題が背景にあります。
現在、伊賀鉄道の上野市駅近くに伊賀市役所があり、伊賀上野城のすぐそばなんですが老朽化による建て替え問題がありました。現在地で建て替えするか、少し離れた伊賀県民局の横にするか討議が行われ、車社会ということもあり伊賀県民局のそば(名阪が近い)に決定しました。それで最寄駅として四十九駅が出来ましたが、桑町駅から行くのと、それほど変わりません。地元では新駅のすぐそばにあるイオンのためだと言われています。(笑)

ビジネスの詐欺メール・なりすましメール対策

一見したところ本物そっくりのメール、でも、実はこれが詐欺メール、というものが増えています。
いつも届くメールアドレスだからといって安心ではなく、アメリカ大統領になりすまして送ることだってできるのです。最近は企業を標的にしたビジネス詐欺メールが増加し、被害額も大きくなっています。
日本航空(JAL)がビジネスメール詐欺で約3億8000万円をだまし取られました

どう対策すればよいかみていきましょう。最新ガイド記事です。
→ ビジネスの詐欺メール・なりすましメール対策

3月20日はAll About「企業のIT活用」16周年

企業のIT活用
3月20日、All About「企業のIT活用」は16周年を迎えます。パチ、パチ!
2002年3月20日に「企業のIT導入(今と名前が違っていました)」がオープン。コンシューマ向けが多いAll Aboutでは珍しくビジネス向けサイトでした。2002年といえばヨーロッパで通貨ユーロが誕生し、小泉首相が北朝鮮を訪問した年です。遠い昔ですな~あ。
そもそも前年秋に「企業のIT導入」でガイド募集しているのを見つけ、これならいけると応募したら、なんやらかんやら当時は3ケ月ほど試験がありました。合格してからも大変で、年明けからオープンに向けて、記事のストック作りとジャンルごとのリンク集(当時はありました)の準備。オープンしてからも、ほぼ毎週、記事の執筆とメルマガ発行があり、追いまくられましたね。
そんなこんなでガイド記事の累積をみると395本です。あと5本で400本だ~あ!
写真はオープンした頃のもので、現在のサイトとだいぶ違っています。ガイドもまだまだ少なかった時期で、All About自体もAll About Japanの時代でした。
さあ、今月分の記事を書かないと!