死語となってしまったベ平連

小田実

日本経済新聞・夕刊の「こころの玉手箱」コーナーにノンフィクション作家である吉岡忍さんが連載しているんですが、8/14付夕刊にベ平連で作ったバッジの話が載っていました。ベ平連といっても今や死語になってしまいましたね。「ベトナムに平和を!市民連合」の略です。

ベトナム戦争によるアメリカ軍の北ベトナムに関する爆撃(北爆)で一般市民の死者が増え、マスコミで大きく報道されたのを機会にはじまった反戦運動。けっこうええかげんで、来るもの拒まずの市民運動だったようです。

私はさすがにベ平連世代ではないのですが、京都で教員をしていた時代に近くの出町柳の「ほんやら堂」へ時たまランチに行っていました。この「ほんやら堂」はベ平連の拠点として有名でフォークの殿堂でしたが、おしくも火事で閉店になります。

■小田実さん
知的生産の技術研究会・関西では1995年5月にベ平連で必ず名前があがる作家の小田実さんにセミナーをしてもらいました。セミナータイトルにもなった小田実さんの著作「難死の思想」はなかなか難関でしたが、アジア22ヶ国を貧乏旅行した「何でも見てやろう」は面白かったですね。これが契機となって日本の若者にバックパックが流行します。五木寛之の「青年は荒野をめざす」もバックパッカーのバイブルとして有名でした。

そうそうセミナー前に直接、小田実さんから聞いた話があって、「何でも見てやろう」の旅行前に米フルブライト基金で渡米するんですが、アメリカの図書館で大阪空襲を上空から写した写真を見たそうです。大阪は空襲による雲だらけで”俺はあの時、この雲の下を命がけで走り回っていたんだ”とおしゃていた言葉が印象的でした。

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