大和万歳山城

大和万歳山城
大和万歳山城

ようやく涼しくなり山城シーズンが到来。ということで大和万歳山城へ。

二上山の隣にある山です。當麻寺から當麻山口神社に入り、林道をすすむと尾根筋に入る道があり、この道をひたすら登ります。ハイキングコースになっているので楽なものです。頂上に主郭があり、ここから尾根筋に郭が続いています。縄張図を見ると畝状竪堀があるはずですが、藪のなかにあり、さすがに見られませんでした。堀切はいくつか発見。尾根の東端まで歩くと展望台のような郭があり、大和の南が開け越智城や高取城などを見ることができます。ただ二上山雌岳の山城からは眼下に見えるので一体運用していたか、時代が少しずれるのでしょう。

大和万歳山城は五位堂や鎌田地域を支配していた万歳氏の詰城です。万歳氏は春日神社おん祭の流鏑馬をつとめる国民でもありました。最後は大坂の陣で大坂方に組し、滅びます。

貝吹山城

貝吹山城
貝吹山城

久米田池のすぐ横にあるのが貝吹山古墳。前方後円墳で上に登れます。一説では橘諸兄の墓という説があり諸兄塚とも呼ばれています。

戦国時代、三好実休(三好長慶の弟)が古墳を改良して城にしました。これが貝塚山城です。堀を作り、削平して郭も整備していました。永禄5年(1562年)3月に三好実休と畠山高政がぶつかりました。畠山高政は紀伊・河内国の守護大名でしたが三好長慶に敵対し古市にある高屋城を追われて紀伊に逃れます。再起を期して紀伊から根来衆の援助をえて三好勢を攻め、これが久米田の戦いです。畠山高政は三好実休を破り戦死させます。

三好長慶は飯盛山城で連歌の会の最中に実休の訃報を聞くことになります。三好実休は茶道の造詣が深く武野紹鴎に学び、千利休らとも交流していました。実休の茶道具の多くは信長の手に渡り、本能寺の変でなくなります。辞世の句が「草枯らす 霜又今朝の日に消て 報の程は終にのがれず」と伝わっています。

クッキーっておいしいの?

本日(11/28)日経新聞の一面が「ネット閲覧情報の第三者提供 利用者の同意義務付け」という個人情報保護委員会からの発表です。

クッキーの話です。クッキーといっても食べ物の話ではなくウェブで使う仕組みの話です。買い物サイトなどで用事ができて決済を途中でやめても再度アクセスすると途中から始められるのはクッキーのおかげです。「リクナビ」がこのクッキーを使って内定辞退率を分析して販売していたことから見直しにつながったようです。

10月にJ-Mottoに「クッキーっておいしいの?」という記事を書いていますので、ご興味のある方はご覧ください。 →  クッキーっておいしいの?

司馬遼太郎記念館

司馬遼太郎記念館
司馬遼太郎記念館

東大阪税務署へ行くついでに久しぶりに司馬遼太郎記念館に行ってきました。

司馬遼太郎の各作品は22歳の自分に向けて書かれたことで有名です。学徒出陣で満州の戦車部隊に配属され、終戦は日本に戻ってアメリカ軍の上陸に備えていた時に迎えました。その時に思ったのが日本人はなんで、こんなにバカになったのか、どこで間違えたのかというテーマでした。ここから数々の歴史小説が生まれます。

そういえば最近、「それでも日本人は戦争を選んだ」(加藤陽子著、新潮文庫)を読みましたが、明治以降の日清戦争などからの歴史に焦点をあてています。

けっこう知られていない話が多く、例えば日本がもっと早くポツダム路線を受け入れていたら原爆投下はなかったという説がありますが、もともと既定路線あったことが史料から判明しています。

また国際連盟を脱退した松岡洋右はタカ派のイメージですが、実際は必死に連盟に残るよう調整していました。日本の内大臣に対して、満州に対してゼロか百ではなく8分目ぐらいで我慢し、日本人の潔癖症を発揮し連盟脱退なんてことはやめましょう。

日露戦争がギリギリの戦争だったなどの情報がきちんと政府から出ていたら戦争に至らなかったかもしれませんでしたが、国民もマスコミもイケイケで、皆すごく甘く考えていた背景があります。

岡山御坊

岡山御坊
岡山御坊

岸和田の高台にあるのが岡山御坊。建立されたのは1503年で本願寺実如によって創建されました。和泉から紀州にかけては真宗勢力が強く、石山本願寺から退去した顕如は和歌山の鷺森御坊に移っています。

天正8年(1580年)に顕如が石山本願寺を明け渡した時に織田信長の家臣で岸和田城代を務めていた寺田又衛門によって焼き討ちされてしまいます。織田信長によって和泉国や紀州の平定が行われましたが、本格的に行われたのは秀吉に根来、雑賀攻めで、この時は貝塚の積善寺城、千石堀城、和泉・高井城などに防衛線が作られ和泉が戦場となりました。

稲葉塁

稲葉塁
稲葉塁

岸和田にある菅原神社の奥にあるのが稲葉塁とよばれる単郭山城。牛滝川と支流に狭まれた河岸段丘にあります。

堀と丸い形をした郭があり詰城として使われていたようです。城主についてはよく分かっておらず、今木氏、大井氏などの名前の他、稲葉氏が城主を勤めていた時代もあるようです。天正8年(1580年)に織田勢が岡山御坊を攻撃する時に稲葉氏が岡山御坊側に着いたため、攻撃され落城したようです。

山城に登るって言ったじゃない!

ファイティング・コンサルタンツ研究会
ファイティングコンサルツ研究会

ファイティング・コンサルタンツ研究会という中小企業診断士の研究会があって秋になると歴史探訪シリーズを行っています。

一度ぐらい山城を登りますかということで織田信長以前に天下をおさめた三好長慶の飯盛城を提案したところ皆が賛同。本日のスケジュールは上方落語で有名な野崎観音ー野崎城(飯盛城の出城)-飯盛城ー四条畷神社ー楠木正行墓所を巡るコースです。

飯盛城はハイキングコースになっていて、山城にしては珍しくきちんと山道が整備されており、高さも300メートル少しで山城を体感するには最適なコースです。大体、山城へ行くのに山道があるだけでありがたいです。

ところが野崎城から飯盛城へ登り始めると、「しんどい!」と不平がオンパレード。いつもは頂上までノンストップで登るのですが、休憩しながらひたすら頂上を目指します。

大体、登る前にランチを食べに入った中華料理屋で宴会してビールをバカバカ飲んでいたのがしんどいの一番の原因でしょう。

だから山城に登るって言ったじゃない!

中野古城

中野古城
中野古城

大阪府よろず支援拠点のお仕事でクラウド会計活用セミナーを富田林商工会で行ってきました。古市古墳群の中にあり、東に行くと二上山で、麓には聖徳太子が眠る上ノ太子があります。駅前からバスが出ています。

セミナーはWヘッダーで前半を担当し、後半は大阪府によるIoT事例のお話でした。IoT事例の時に近くに古墳がないかなと探していると中野古城なるものをGoogleマップで発見。城の情報を探しましたが、何もないですね。富田林の文化財コーナーを見ると商工会議所がある粟ケ池から東へ約200メートルの石川西岸に喜志城跡があったようなので、中野古城は喜志城と連携していたのかもしれません。喜志には東高野街道が通り、ちょっと行ったら河内長野で楠木正成の山城群となりますから城の可能性は高いです。

セミナーと個別相談が終わり、日没までの時間に中野古城まで出かけてきました。台地の縁が城跡になっており、周りは帯郭なのか堀跡なのか分からないものが巡っていました。郭までは切岸になっていて高さは5メートルほどあります。写真の右側が郭跡です。周りには水路があるので、これがかっての堀跡だったかも知れません。

クラウド会計活用セミナー

富田林商工会
富田林商工会

古市古墳群にある富田林商工会でクラウド会計活用セミナー。大阪府よろず支援拠点の仕事です。
会場は2階と聞いていたのですが、探し回っても会場がない。実は1階だと思っていたところが地下の扱いで3階に上がったら会場がありました(笑)。
私の担当分は終わり、今は大阪府商工労働部によるIoTセミナーをしています。
窓からは二上山が見えています。山城登りたいな~あ!

穴山梅雪の墓

穴山梅雪の墓
穴山梅雪の墓

同志社大学・田辺キャンパスからずっと東へ行くと木津川があり、その手前に穴山梅雪の墓があります。

甲斐の武田御一門衆の一人だったのが穴山梅雪。母親は武田信玄の姉で、妻は武田信玄の三女です。手薄となった信玄の本陣に上杉謙信が突っ込んだといわれる第四次川中島の戦いにおいては信玄本陣を守っていました。

信玄亡きあとは勝頼に従うことになりますが織田信忠による甲斐侵攻がはじまると、徳川家康と交渉し、甲斐一国の拝領と武田の名跡継承を条件にして勝頼を裏切ることになります。まあ勝頼は諏訪家を継ぐはずでしたので信玄亡き後は俺だという気持ちがあったのでしょう。

勝頼が滅んでから、信長への御礼言上のため家康と一緒に安土に向かい信長と謁見します。家康と堺を遊覧した翌日に京都へ向かう途中で本能寺の変を知り、逃げる途中で亡くなります。家康は飯盛山、枚方の尊延寺を経て京田辺に入り、普賢寺、興戸、草内のコースで木津川を渡り、宇治田原から伊賀を目指しました。穴山梅雪は家康より遅れて同じコースを行動していたようで興戸から木津川を渡る前に自刃したとも殺害されたともいわれています。

穴山梅雪亡き後に、家康は甲斐に侵攻し、武田の旧臣を傘下にして井伊の赤備えを作ったりして一番得をしていますので、家康が謀殺したという説もあります。また明智光秀軍が家康を探していたので間違えられて殺されたという説もあります。