吐田館跡

吐田館跡
吐田館跡

吐田氏の詰城が吐田城(山城)で平時は麓に館があり、こちらを使っていました。吐田館は単郭式で跡地は水田になっていますが東西南に水堀が残っています。

守護というと武家が勤めるものですが大和だけは興福寺が守護を勤めていました。応仁の乱では筒井氏は西軍に、越智氏は東軍に与して大和の国衆も両陣営に分かれて戦っています。

筒井一門(十市・楢原・布施・布施高田・秋篠・宝来・木津・立野・箸尾・片岡・超昇寺・佐川)
越智一門(吐田・曽我高田・小泉・高山・万歳・岡・古市・山田・山陵)
に分かれていました。

■吐田氏の滅亡
吐田氏の拠点北側には敵対する楢原氏がいて、お隣と戦っていました。戦国時代も後半になると松永久秀が大和へ侵攻してきて、ややこしいことになったうえに、織田信長によって筒井順慶が守護に任じられ、またまたややこしいことになります。最終的に吐田氏は筒井順慶に騙されて本能寺の変の前年に滅亡させられます。

吐田氏の所領は島左近が支配することになります。島左近はこの頃、筒井順慶を支えていましたが筒井順慶が亡くなってから石田三成の家臣として招かれ、最後は関ケ原の戦いで討死します。

諏訪商店街

四日市商工会議所で三重県よろず支援拠点の出張相談。
諏訪商店街を歩いていると2軒ほどが閉店になっていてテナント募集の張り紙がしてありました。角の洋品店はベトナム料理店かな、なにかエスニックなお店に変貌していました。
松阪の商店街も同様ですが物販店が減って飲食店の比重がどんどん増えています。

葛城高丘宮(綏靖天皇)

葛城高丘宮(綏靖天皇)
葛城高丘宮(綏靖天皇)

綏靖天皇は神武天皇の次となる2代目で、この綏靖天皇から第9代開化天皇までが欠史八代といわれ実在が疑われています。もっとも実在したという説もあります。綏靖天皇の都があったのが葛城高丘宮で、一言主神社のすぐ近くにあります。名前通り高い丘となっていて畝傍山や香具山などの大和三山がよく見えます。

第9代開花天皇まで都があったのが畝傍の軽から葛城一帯となります。当時、奈良盆地の中心部には奈良湖がありましたので奈良湖の南西部が大王の本拠地でした。三輪山の麓には纏向遺跡時代から大きな連合国家みたいなのがありましたので、そことの関係はどうだったんでしょうね。第10代、崇神天皇の時に三輪に進出し宮が造られ全国に四道将軍が派遣されますので国家としてある程度、まとまったようです。ちなみに四道将軍で東に派遣された二人の将軍が出会った場所から会津という地名となりました。

奈良湖といえばハイキングでにぎわう「山辺の道」が日本最古の道といわれていますが、もともとは奈良湖の東側をまわる道でしたので、ですので直線ではなく、くねくねとした道になっています。

葛城一言主神社

葛城一言主神社
葛城一言主神社

2020年、今年の抱負を一言であらわすと何ですか?

家内安全!金儲け!世界征服!一言の願いであれば、なんでも聞き届ける神様が葛城にあります。それが一言主神を祀る一言主神社です。

■一言主神
一言主神は日本書紀、古事記に登場する神様です。大王である雄略が葛城山中で狩猟をしていた時、大王自身や随行一行と全く同じ恰好をした一行が向かいの尾根を歩いています。雄略が名を尋ねると「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えます。恐れ入った大王は、自分と随行している者の衣服を脱がさせて無礼を詫び、刀や弓矢とともに差し上げたという話が出ています。この一言主神が現れた場所に造られたのが一言主神社ですので相当に古い神社です。

■雄略(倭王武)の時代
大王である雄略は宋書に出てくる倭王武に比定されていて、かなりのやり手でした。大王による強力な専制支配を確立しようとし、大王家の外戚として権勢を振るってきた葛城氏を没落させています。国宝である稲荷山古墳出土鉄剣(埼玉)に獲加多支鹵大王と雄略の名前が記載され熊本の鉄剣からも同じように見つかっていますので雄略の時代には関東から九州にかけて大和朝廷の覇権が成立していたようです。

雄略は葛城氏の勢力圏で狩猟して一言主神に会っていますので、この頃には葛城を直接の支配下においていたのでしょう。葛城氏が信仰していたのが豊受大神で、葛城氏が没落してから衰退していましたが、訴えがあったのか丹後の豊受大神を移して伊勢神宮・外宮が雄略の時代に造られました。

大堀切が見事な吐田城

吐田城
吐田城

大和の有力国人だった楢原氏の楢原城の南にあるのが吐田(はんだ)城で吐田氏の城でした。お隣さんなんですが楢原氏は筒井方、吐田氏は越智方に味方し、争っていました。

■吐田城へ
吐田城のある場所は一言主神社の裏山です。吐田城への道をネットでいろいろと調べましたが、近くまで行き尾根まで直登するしかないという情報ばかり(笑)山道という楽な方法はないようです。ということで近くまで沢沿いを歩き最後は崖を直登して、なんとか尾根にたどりつきます。尾根は削平地が続いており、郭や竪堀などがありました。

さて、尾根を歩いて主郭の下までたどりつくと、また崖です。しょうがないので、また直登し、ようやく主郭に入ることができました。広い郭の中は石が点在していましたが石垣にしては少ないので建物の礎石用ですかねえ。主郭から奥へ進んでいくと大堀切がありました。高さが10メートル以上はある堀切で、よくこんなの作りましたね。郭から降りるにはロープがいるので、ずっと迂回して大堀切に至り、さらに超えて西にある出丸のような郭まで行ってきました。

■尾根を間違う
帰りは大堀切の横から主郭に登らず(直登するのはしんどい)に最初に登った尾根を目指します。ようやく尾根に入って、どん詰まりまで行くと降りるルートがどこにもない。最初に登った尾根ではありませんでした。いろいろと試しましたが降りても藪だらけで結局は断念して、元まで戻り一つ隣の尾根へ。ここも削平地ですが、やっぱり最初の尾根ではありませんでした。Googleマップという文明の利器があって木立が抜けていればGPSが一応、効きますが山城の中はほぼ真っ白の地図しか出ないため東西南北のおおよその方向を見るだけです。

さて尾根のどん詰まりまで行くと、こっちは何とか降りられそうです。降りると沢に出て、少し歩いたら最初の場所へ戻ってこれました。結局、3本の尾根を歩きましたが3本とも削平地になっていて、往時は砦が作られていたようです。途中で迷いましたが、満喫できる山城ですね。

秋津はここから国見神社

国見神社
国見神社

国見山城の最寄り駅はJR掖上(わきがみ)駅。この掖上は古い地名で日本書紀に由来しています。神武天皇が東征が終了した後に国見を行います。それが「掖上(わきがみ)の嗛間(ほほま)の丘」。この丘が国見山と言われています。

現在、麓にある国見神社は昔は山頂にあり、神武天皇がニニギノミコト(高天原から日向に降り,皇室の祖先になった神様)を祀ったのが国見神社の始ま理と言われています。いつの頃か東麓に移されて地元の氏神となっています。

さて神武天皇が国見をした時に「なんと美しい国だろう、国原は緑したたる山々に囲まれ、あたかも蜻蛉(あきつ)の臀拈(となめ・交尾ものこと)しているようだ」と言ったので「あきつ」と呼ぶようになり、日本の別号「秋津州(あきつしま)」の名となりました。

初山城は国見山城

国見山城
国見山城

2020(令和2)年の初山城は国見山城。大和の国人・越智氏の支城の一つといわれており玉出山城の南側に国見山城があります。2つの城で西南方面を守っていたのでしょう。

麓に国見神社があり、この神社横の山道を登ると郭の一つに入れます。さらに進むと主郭に入り、展望台になっていますが気が邪魔dえ、見えるのは葛城山方面だけです。主郭の近くの郭の先に畝状竪堀があるはずなので藪の中を進みましたが、よく分かりませんでした。

主郭の先に尾根道が続いていて、その先にも別の郭があり、こちらの竪堀は確認できました。ハイキングコースになっていて道もよく整備され、登りやすい山城になっています。