槙島城-室町幕府終焉の舞台

宇治にある槙島城跡です。

槙島城-室町幕府終焉の舞台
槙島城-室町幕府終焉の舞台

京阪・宇治駅を降りて宇治橋を渡り、平等院には目もくれず槙島の住宅地を目指します。名前の通り、槙島は宇治川に浮かぶ島の一つで、元亀4年(1573)に槙島城の戦いが行われました。

槙島城にいたのが足利義昭で攻めたのが織田信長。城の遺構は残っていませんが若干、微高地になっているのと水路がいくつも通っているのが印象的です。日本史の教科書にも出てくる有名な戦いのわりには案内板も何もなく、城があった住宅地の小さな公園の一角にだけ碑が建っています。

■槙島城の戦い
「これしたらあかん!」とか口うるさい織田信長がきらいだった足利義昭は浅井長政、朝倉義景、石山本願寺、武田信玄と組んで信長包囲網を形成。挙兵しますが、この時には武田信玄が病死し進軍が止まります。織田信長軍に二条城や石山砦、今堅田砦を落とされ追い詰められた足利義昭は槙島城に籠りますが、織田信長が出陣して直接、攻撃します。

そうそう「麒麟がくる」では谷原章介演じる三淵藤英と眞島秀和演じる細川藤孝(三淵藤英の異母弟)が、それぞれ足利義昭側、織田信長側に分かれて戦うことになります。ついに足利義昭は降伏し、信長は秀吉に命じて河内にある若江城(足利義昭の妹婿である三好義継の城)に足利義昭を送り届け、実質的に室町幕府が滅びました。

大文字ー如意岳城

大文字の送り火が規模を縮小して行われましたが、昨年、登った大文字の火床です。京都御所などが島のように見られます。

如意岳城
如意岳城

この大文字の山頂一帯に築かれていたのが如意岳城です。堀や土塁跡などが残っていますが、ハイカーのほとんどは山頂からの眺を楽しんでいるだけです。城に関して案内板もありませんので、まあ仕方ないですね。。

如意岳城は志賀越えなど京と近江を結ぶ交通の要所をおさえる城でした。大文字の火床が並んでいるところを越えて、ひたすら登らないといけません。

「麒麟がくる」がまもなく放送再開しますが、向井理が演じる第13代将軍・足利義輝などが三好と争っていたので、しばしば如意岳城を活用していました。東山には中尾城、一乗寺山城、雲母坂城、東山城、東山霊山城などたくさんの山城があります。

全員集合が閉店

中央線堺筋本町駅改札口から徒歩5歩の立地にある「全員集合」。リーズナブルなこともあり大阪府中小企業診断協会の行きつけの店になっていて、夜飲みに行くと診断士との遭遇率がめちゃくちゃ高いお店です。知的生産の技術研究会・関西のセミナー後にもよく利用していました。

全員集合
全員集合

来週で閉店することを知り、びっくり。さっそくランチを食べに行き、おばちゃんに挨拶。コロナの影響でランチはいいのですが夜はさっぱりなんで、歳もとったし閉店することにしたとのこと。

14時から居酒屋になるし、店を出て5歩歩いて階段を降りたら、すぐ地下鉄に乗れるお店だったのに残念。お店は8/21(金)までやっています。

猛暑

それにしても暑いですなあ。

猛暑
猛暑

goo天気で40年前の1980年8月大阪の最高気温を見ると31~32度で一番高い日が34.2度でした。35度以上になると今は猛暑日といいますが、この気象用語が登場するのは2007年からです。それまでも猛暑日はありましたが、たまに起きる程度で常態化することから用語が生まれました。大学時代、下宿や役所には冷房がなく、それでも乗り切っていましたからねえ。

現象は世界中で起きていて、北海道よりも緯度が高いイギリスでは一般家庭にはまずエアコンはありません。そこに襲い掛かるのが熱帯夜です。BBCがいろいろな対策を呈示しています。

●家の中の室温を下げる工夫をすること カーテンやブラインドの活用
●就寝前に飲むソフトドリンクの成分に注意 カフェイン入り、アルコールは控えめに
●眠れない時は心を穏やかにすること スマホを触ったらダメ
などなどです。

早く雪が降って山城シーズンにならないかなあ

近衛基通の墓

同志社大学・田辺キャンパスがあるのが京田辺市。田辺キャンパスができる前は移転反対でバリスト(バリケード・ストライキ)が行われ、よく休講になっていました。今や今出川キャンパスへの統合がすすみ大学生を相手にした地元の事業者に影響が出ています。

近衛基通の墓
近衛基通の墓

同志社大学は高台にありますが南側が谷になっていて普賢寺谷と呼ばれ城跡がいくつかあります。

■近衞基通のお墓
日本史で五摂家について学びましたが近衛家の2代目だったのが近衞基通(もとみち)という人物。源平合戦の頃の関白で普賢寺関白とも呼ばれました。継母が平清盛の娘だったこともあり平家と親しく、源氏が台頭してからは引退して伽藍再興に尽力した普賢寺のある普賢寺谷に移り住んで亡くなりました。普賢寺谷の城跡を訪ねた時にお墓を見つけ、こんなところにお墓があるんだと思っておりました。

■神君 伊賀越え
今、ちょうど「流浪の戦国貴族 近衛前久」(中公新書)を読んでいるのですが近衛家の荘園の一つが普賢寺谷にあり別邸があったんですね。近衛前久(さきひさ)というのは上杉謙信、信長、家康と親交があった行動派貴族で関白です。信長に頼まれて島津と交渉したりしていました。

本能寺の変の後、堺にいた家康の逃避行が始まりますが、星田あたりから普賢寺谷に出たという説もあり、よく知っている近衛の土地だったという背景があったんですね。

森屋城

近鉄・田原本駅とJR巻向駅のちょうど真ん中ぐらいにあったのが森屋城。村屋坐弥冨都比売神社(村屋神社)一帯にあったと言われていますが、城の痕跡はありません。すぐ近くを大和川が流れているので水を引き込んで筒井城のように沼地の平城だったのでしょう。神社には池や周りに水路が残っていました。

森屋城
森屋城

宇陀には沢氏(高山右近の洗礼で有名)、芳野氏、秋山氏の宇陀三将がいて、多気の北畠と連携していました。秋山直国という武将が十市氏と争った時、十市氏が三好三人衆と結びましたので、秋山直国は松永久秀と結んで対抗します。永禄11年(1568)、十市遠勝に森屋城を攻められますが松永軍の後援を得て反撃し、十市氏の龍王山城を奪取したようです。やがて松永氏と敵対する側だった筒井氏と組むようになり辰市城の合戦において松永軍を破る功績を挙げています。

建部大社

近江国の一宮といえば瀬田にある建部神社です。境内に茅の輪があったので、くぐりぬけてきました。

建部大社
建部大社

祭神は日本武尊(ヤマトタケル)で境内にはイケメンのヤマトタケルがパネルで展示されていました。日本武尊は亀山の能褒野で亡くなりましが、妃が住んでいた場所に日本武尊を「建部大神」として祀り、建部という地名がつけられました。もっとも、なんで建部大神なんて名前をつけたんですかねえ。ひょっとすると地名の方が先だったかもしれません。

祀られた場所は神崎郡建部で、現在の八日市駅から愛知川の間あたりにありました。白鳳4年(675)に瀬田の地に移ります。神社のあるあたりは神領という地名になっています。

源頼朝が伊豆に流される途中、建部神社に立ち寄り祈願しました。30年が経過し平家を滅ぼして源氏の再興がなります。上洛する途中に大願成就のお礼に建部神社を訪れています。ですので建部神社は出世開運の神様になっています。

都から東に向かう東山道の街道筋で、少し東に行った「鏡の宿」には源義経の元服した場所や平宗盛、清宗父子が切られた平家終焉の地もあります。

大きな黄色いアヒル

大きな黄色いアヒルが天満橋に来ているというので八軒家浜船着場に行ってきました。

ラバーダック
ラバーダック

ラバー・ダックです。あいかわらず剽軽な表情でプカプカと大川に浮かんでいます。展示されているのは8/31(月)までだそうです。高さは9.5メートルあり、作ったのはオランダのアーティストフロレンティン・ホフマン。世界中を旅してセーヌ川などでプカプカしています。2015年に中之島(バラ園)で見て以来ですね。あいかわらずでかいですねえ。

Co-Boxから最終講義

前期は全てオンラインになりましたが本日が最終講義になります。

Co-Box
Co-Box

夕方から内本町で用事があるので天満橋にある、ものづくりコワーキングスペースCo-Boxからの講義です。Co-Boxには3次元プリンタやレーザーカッターなどが揃っていて一人メーカーがもっぱら利用していますが、私はもっぱらコワーキングスペースの利用です。月曜午後なんで、すいていますねえ。Wi-Fiさえあれば、どこからでも講義できるので便利な世の中です。

最終講義はResasやe-Statなど統計に関する便利サイトの説明、ブロックチェーンとハッシュ関数の実習、AIとワトソンを使った実習などを行いました。最後にCo-Boxの雰囲気を紹介して終了。とにかく終わった!さあ成績評価しなくちゃあ!

瀬田の唐橋

琵琶湖から唯一流れ出るのが瀬田川で、この瀬田川にかかるのが瀬田の唐橋です。京都人と言い争いになった滋賀人の決め台詞が「琵琶湖の水、止めたろか」という一言。以前に瀬田川を止めたシミュレーションが行われ、結果、大津などが水没してしまいました(笑)。

瀬田の唐橋
瀬田の唐橋

瀬田川を超えると京都まで一気に攻め込めますので、古代からこの瀬田川が攻防戦の舞台となりました。壬申の乱では、大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となり、瀬田川を突破された大友皇子は自刃することになります。

藤原仲麻呂の乱では朝廷軍が先回りし、瀬田の唐橋を焼いてしまったため藤原仲麻呂(恵美押勝)は湖西を北上することになり三尾城で破れてしまいます。

本能寺の変の後、安土城に向かう明智光秀を足止めするために山岡景隆が瀬田の唐橋と川のほとりにあった瀬田城を焼いてしまったため明智光秀が仮橋を架けるのに3日を要しました。