竹中半兵衛の墓

三木城を攻める平井山付城の麓に竹中半兵衛の墓があります。

竹中半兵衛の墓
竹中半兵衛の墓

竹中半兵衛といえば稲葉山城のクーデターが有名です。美濃・齋藤龍興の家臣でしたが一部の側近を寵愛して政務を顧みなかったため、わずかな手勢で稲葉山城を乗っ取り、齋藤龍興を城から追い出します。半年ほど稲葉山を占拠し、その後は引退していました。織田信長が齋藤家を滅ぼすと秀吉に仕えることになります。

荒木村重が信長を裏切った時には秀吉の幕僚だった黒田官兵衛が説得に行きますが、荒木村重に閉じ込められてしまいます。帰ってこない黒田官兵衛に怒った信長は人質にあずかっていた黒田長政を殺せと命じますが、この時に黒田長政をかばったのが竹中半兵衛でした。

三木城の包囲中に病に倒れ、秀吉は京で養生するように戒めたが竹中半兵衛は「陣中で死ぬこそ武士の本望」と亡くなりました。

平井村中村間ノ山付城

平井山ノ上付城から谷を挟んだ隣の山にあるのが平井村中村間ノ山付城。土塁に囲まれた小さな郭があり、麓には兵が駐屯できる削平地があります。山への入口には竹中半兵衛の陣所跡となっていました。竹中半兵衛といえば秀吉の軍師として有名な武将です。

平井村中村間ノ山付城
平井村中村間ノ山付城

郭の北側がすごい垂直の崖になっていて、どう考えても攻撃できないような陣地です。小さな付城なんですが、見事ですね。

平井山ノ上付城

織田信長といえば、よく裏切られた人物で、その一人が三木城の別所長治。秀吉の傘下に入って毛利氏攻めの先鋒を務めるはずが、逆に毛利と通じて三木城に籠城することになります。

平井山ノ上付城
平井山ノ上付城

織田軍は三木城を攻囲し兵糧を断つことにしました。三木城の周りに付城をたくさん築き、包囲網を築きます。中心となったのが平井山ノ上付城で織田信忠が造りました。その後、秀吉にまかせ秀吉の陣所となります。これが有名な「三木の干殺し」です。

付城群は国史跡となり、よく整備されています。平井山ノ上付城には兵が駐屯できる削平地がたくさんあり、主郭からは三木城がよく見えます。山城としては、あまり防御に徹した城ではなく、堀切もほとんどありません。別所軍とは平坦地で戦うことにしていたようです。

天誅組 五条代官所

五條市役所があり、ここが天誅組の舞台となった五条代官所跡です。今は碑だけが建っていますが、ここが幕末を揺るがした舞台ですねえ。

五条代官所跡
五条代官所跡

■天誅組として蜂起するも、ちゃぶ台返し
文久3年、尊皇攘夷派が朝議を握り、尊王攘夷の断行を祈願するため孝明天皇の大和行幸が決定します。

このまま討幕に向けようという考えがあり、吉村寅太郎らが大和行幸に先行して幕府の直轄地だった五條に入ります。天誅組として蜂起し、五条代官所を襲撃して討幕の旗をあげました。

ところが京都で”八月十八日の政変”が起こります。会津と薩摩が画策し急進派の公家と長州藩を排除するクーデターで大和行幸は中止に。歴史に名高い”七卿落ち”となります。そうそう時代祭の行列にも出てきます。

これで天誅組は大義名分を失い賊軍になってしまいます。天誅組は高取城を攻撃しますが山城を攻める能力はなく、城から放たれた大砲に怖れをなして撤退。ここらへんは司馬遼太郎の短編『おお、大砲』、『五条陣屋』に描かれています。

鎮圧にあたったのがは紀州藩、津藩、彦根藩、郡山藩などで天誅組は壊滅してしまいました。捕縛した浪士の寛大な処置を津藩から幕府にお願いしたのに、幕府が斬首したことが鳥羽・伏見の戦いで津藩が寝返る遠因になった説もあります。

2021年、ツンドクを解消しないと

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

ツンドク
ツンドク

ステイホームの正月です。いい機会なんでツンドクを解消しなければ!
なんでツンドクが解消しないのか長年の疑問でしたが、ようやく理由が分かりました。最近は読むスピードが落ちて年間100冊ほどなのに、買うスピードが130冊ほどになっているからです。

なるほど昔の読書量で買えばツンドクが増えるはずです。先日、新井素子の「素子の碁-サルスベリがとまらない」を読んでいたら年間400冊読んでいるという記述があって、上には上があるもんですね。

よおく考えたら100冊×1000円×40年で計算すると400万円の出費ですなあ。もっとも、この期間に使った酒代に比べたら安いものです(笑)。