箱殿東交差点

箱殿東交差点。ここの角にある西村クリニックが、かかりつけ医でよく通っています(笑)。この交差点は大昔からあり東高野街道と暗越奈良街道が交差する所です。

箱殿東交差点
箱殿東交差点

東高野街道は京都と高野山を結ぶ街道で古代から官道だったようです。大坂にあった河内湖などの湿地帯を避け生駒山の山麓を通るため、昔から軍の移動に使われ四条畷の合戦や大坂の陣(八尾・若江の戦い)の舞台となりました。

暗越奈良街道は難波から生駒山地の暗峠を越えて奈良へ向かう街道です。奈良時代に整備された官道で難波と平城京を最短距離で結んでいました。

二つのメインの街道が交わる場所なんで往時は賑わったでしょうね。今は西村クリニックと福聚軒(中華)、吾三路(うどん)、魚芳(仕出し屋)さんぐらいしか店はありません。角にあったカラオケ屋さんは無くなってしまい。住宅になっています。

理論更新研修

中小企業診断士の資格更新要件として理論更新研修を1年に1回受講しなければなりませんが、昨今のコロナ禍の情勢から大阪ではオンライン開催になっています。

自宅から受講するので便利なんですが大学のオンライン講義と同様に家から一歩も出ずに全然、運動しないという難点があります。もっとも、ふだんは会えない懐かしい顔がいくつか見えました。

講義途中で講師のパソコンが落ちて画面共有が切れるなど、いろいろとトラブルもあり、ブレークアウトルームでの議論では犬の声が聞こえるのはコロナ禍ならではですね。

河内廃寺

河内廃寺
河内廃寺

近鉄枚岡駅と瓢箪山駅のちょうど中間あたりに河内寺跡があります。史跡公園として2017年に整備されましたが、既に雑草でぼうぼうになっています。

河内寺は約1350年前の飛鳥時代後期に造られた古代寺院。中門、塔、金堂、講堂が南北に並ぶ四天王寺式伽藍配置になっていました。北西側に隣接して河内郡衙(ぐんが)があったようです。郡衙とは律令制度時代、郡の官人(郡司)が政務を執った役所です。701 (大宝1) 年の大宝令によって郡となりましたが、それまでは評 (こおり)でした。

■河内氏
河内廃寺を建立したのは河内氏で河内郡をおさめていました。渡来系氏族で伽耶(かや)出身のようです。昔の日本史では任那って習いましたね。白村江で日本が大敗した後、遣唐大使として唐へ派遣されたのが河内直鯨(かわちのあたいくじら)です。その功績から直(あたい)から連(むらじ)となります。本来は百済系のはずが新羅と組んだりして百済の聖明王から叱責を受けたりしています。なかなかの人物だったようです。

大きな伽藍だった河内寺は鎌倉時代に土石流に巻き込まれて廃寺になったことが発掘調査で分かっています。サンロード瓢箪山商店街から5分ほど登ったところにありますが、迷路のような所にあるのでたどりつくのは大変です。

久宝寺寺内町

戦国時代、一向宗のシンボルとなったのが蓮如上人で、一向宗と共に建立したのが西証寺(今の顕証寺)。西証寺を中心に堀が掘られ環濠集落(久宝寺寺内町)ができあがります。ちなみに久宝寺と地名は許麻神社の境内にあった久宝寺観音院が由来で明治になった廃仏毀釈で廃寺となりました。

久宝寺寺内町
久宝寺寺内町

久宝寺寺内町には堀と堀との間に土塁が造られ、町の入口は六ヶ所で、それぞれ木戸門と番所が設けられました。門徒宗が集まり、商業活動が盛んになります。

やがて戦国時代の終焉から検地が行われるようになると寺内町の特権がなくなっていき普通の町になっていきます。ただ堀があったこともあり町割りは昔のままで、通りなどもそのまま残っています。顕証寺の南側には濠と土塁跡が残っています。

■八尾寺内町の誕生
徳川の時代となり本願寺が西と東に別れますが、顕証寺は西側でした。久宝寺寺内町も分裂し東側を支持する派は当時、流れていた大和川(今の長瀬川)の向こう側に慈願寺と共に移り八尾寺内町を作ることになります。

伏線があって信長と本願寺が講和した時、顕証寺は顕如の講和派でしたが、慈願寺は教如の抗戦派だったことが尾を引いていたようです。

久宝寺城

久宝寺城は河内守護であった畠山氏の城でした。

久宝寺城
久宝寺城

畠山満基が河内国渋川郡を領有したことから渋川氏を名乗ります。渋川郷は久宝寺など八尾の一部、東大阪の一部や生野区なども含む広大な土地でした。やがて播磨国の安井郷に移封されたことから安井氏を名乗ります。安井定重、定正という兄弟は織田信長に仕え、本願寺との戦いで戦死。末弟である安井定次が家をつぎ、久宝寺に住んでいたようです。少し前まで土塁もあったようですが現在は碑しか残っていません。また城土居という字名が残っています。

■道頓堀、天地明察
安井定次と子供(諸説あり)の安井成安は秀吉に仕え、安井成安(道頓)が開削したのが道頓堀です。安井家は囲碁の家元四家の一つにもなっていますし、小説や映画で有名な「天地明察」の主人公は天文暦学者の安井算哲(渋川春海)でした。畠山満基時代の渋川を名乗っていました。

瓢箪山

日経新聞の「私の履歴書」。毎朝読んでいますが、ちょうどタイのサハ・グループ会長が連載中です。

今日は1954年に父親の仕事の手伝いから大阪に駐在した頃の話で、最初に住んだのが東大阪の瓢箪山だったそうです。ウチの近所だ(笑)。

近鉄奈良線・瓢箪山駅のすぐ近くに瓢箪山稲荷神社があります。秀吉が大坂城築城にあたり、巽の方角(大坂城の南東)に鎮護としてお稲荷さんを勧請したものです。神社は双円墳の瓢箪山古墳に造られ、このため一帯が瓢箪山という地名になっています。

瓢箪山駅の南北にはジンジャモール瓢箪山という商店街が連なり元気な商店街として残っています。この商店街にタコヤキ屋をそのまま居抜きで使っている花屋があり、大きく看板に「たこやき」と上がっています。店の名前を知らなくても「たこやきの花屋」で通じるので、うまいやり方ですねえ。

長宗我部 物見の松

大坂夏の陣で久宝寺に陣取ったのが長宗我部盛親。ゲームやアニメではめちゃくちゃイケメンに描かれています。刀剣男子など、よう分かりませんな~あ。

冬の陣の和睦条件で大坂城の堀を埋め立てしたため豊臣軍は野戦をせざるをえませんでした。生駒山沿いの東高野街道を京都から進軍してくる徳川軍を横から攻撃するため出撃したのが長宗我部盛親・木村重成・増田盛次隊ら約1万です。当時、大和川は付け替え前ですので北に流れ、鴻池や新開池など湿地帯が拡がっていました。

徳川軍としては大軍が動かせないし湿地帯を避け、柏原、道明寺あたりまで南下し大和からの徳川軍と合流して大坂城を攻めるしかありませんでした。この東高野街道で行われたのが高師直と楠木正行の四条畷の合戦で、昔からここで戦うしかなかったですね。

■物見をした松
先頭の木村重成隊は若江村に、長宗我部隊は若江村の南にある久宝寺村に到着します。この時に物見をしたのが写真の場所で碑だけが残っています。豊臣軍は若江から八尾にかけて大きく布陣し、これを発見したのが藤堂高虎隊。

物見の松
物見の松

一軍を木村重成隊へ、別軍を長宗我部隊先鋒の吉田内匠と増田盛次へ、本隊は長宗我部隊本隊に向かいます。実は長宗我部家が改易になった時、仲がよかった高虎が多数の長宗我部の家臣を引きとってくれており、藤堂軍には旧臣達が多数いましたが、戦では戦うしかありません。湿地帯での戦いとなり長宗我部軍は強く、散々に藤堂軍を打ち破りますが木村重成が敗死したと連絡があり、引き上げます。

許麻神社

久宝寺にある許麻(こま)神社。

許麻神社
許麻神社

■式内社とは
祭神は素盞鳴命、高麗王霊神、牛頭天王、許麻大神で式内社です。式内社とは927年(延喜のあとの延長5年)にまとめらえた延喜式神名帳に載っている神社のことで、とっても古くからある神社の証明になります。延喜式が出たのは菅原道真の怨霊が語られだした頃ですね。皇太子が若くして亡くなり、しばらくしてから清涼殿への落雷で道長排斥に関わった公家らが亡くなる事件が発生します。

■高句麗の祖神?
許麻神社は聖徳太子の建立になっていますが、本当だとすると物部守屋を滅ぼした後の土地を政権が接収したのでしょう。倭名類聚抄に巨麻郷という名前が出てくるのでこのあたりに渡来系氏族【大狛連(おおこまのむらじ)など】を一体に集めたようです。祭神の一つが高麗王霊神ですので三韓時代の高句麗と縁があり、三韓というのは歴史で習った新羅、百済、高句麗です。

668年に高句麗が滅亡し、たくさんの亡命者が倭にわたってきたため亡命者の街ができました。狛江市などもその一つになります。

そうそう三国志で有名な孫権の国である呉も晋に滅ぼされたため、亡命者が倭にわたり伝えたのが呉服、つまり今の和服になります。

夏越の祓

今年も上半期が終わりました。というわけで夏越の祓へ。

夏越の祓
夏越の祓

顧客管理がしっかりしている枚岡神社では毎年、夏越の祓の案内を送ってきます。案内に入っている人形(ひとがた)に名前を書いて事前に神社に納めておくと6月30日にお祓いをしてもらえます。そちらは参加できなかったので日曜に枚岡神社へ行って茅の輪巡りをしてきました。

■水無月
夏越しの祓といえば「水無月」という和菓子を食べるのが定番ですが、京都菓子工業組合が商標登録してしまったので京都以外の和菓子屋さんでは、あまり見かけません。以前、和菓子屋さんが”何で伝統菓子を商標登録したんだ”と憤慨しておりました。

本のダブリをなくす切実な問題

歳をとると共に同じ本をダブって買うことが多くなり、慎重に奥付をチェックしています。

書店
書店

もっとも本は見た時に買わないと委託期間終了と共に棚から消えるのと、年間購読量以上に買うクセがあることも理由の一つです。

■念には念をいれて奥付をチェック
先日買ったのが産経NF文庫から出ている「戦国武将の選択」(本郷和人)
新刊コーナーにあり、奥付を見ると「本書は産経新聞に連載中の記事に加筆、再構成したものです」と記載されていました。初版は2021年4月20日になっていて、よし今まで買った本じゃない!ということで買ってツンドクの中に。

先日、ツンドクから取り出して読んでみると、おっ、この話を知っている。この話もだあ!時たま本の元になる産経新聞のコラム記事を読んでいるので、そのせいかと思っていて、読書記録を見てみたら、2015年に産経新聞社から出ていた同じ本を買って読んでいました。

■なんで以前に出た本が新刊で出ているのか
おかしいなあと思って調べると出版元は潮書房光人新社で、もともとは潮書房と光人社が合併した会社を2017年に産経新聞社が買って子会社にしたものです。出版業界は銀行業界と同様に大変な業界なんでM&Aがよく行われています。

そこで産経NF文庫という新しい文庫レーベルをスタート。それはよいのですが以前に産経新聞社から出していた文庫をこっちに移して新刊で出したんですなあ。ウ~ン。こりゃ見抜きようがないな~あ。

読んだ本をしっかり覚えておけばよいのですが、それを言っちゃあ、おしまいよ。