古代の市役所 嶋上郡衙

今城塚古墳近くにあるのが嶋上郡衙です。ここに儀式の場・庁院や税を納める正倉などが整えられていました。住宅街の小道沿いに案内板はありますが、こんな何もない広場を撮影している人は他におりませんねえ。

嶋上郡衙
嶋上郡衙

郡衙(ぐんが)とは古代の役所のことで律令制度時代に郡の官人(郡司)が政務を執った所です。この辺りは高槻市郡家新町となりますが郡家という地名が残っているのは、郡衙があった場所に多いです。

今でいうと県庁のような国府があり、こちらには国司がいましたが、郡司は在地の有力豪族が勤めて戸籍や徴税を担当していたので今でいう市役所&税務署みたいなものですかね。701年の大宝令によって郡ができましたので、これ以降の行政機関です。

埴輪工場

今城塚古墳の墳丘には膨大な埴輪が並べられていましたが、埴輪を作っていた工房が発見されています。

埴輪工場
埴輪工場

工房は今城塚古墳近くの高台にあり、3棟の大形埴輪工房と周りに18基の埴輪窯が発見され一部が復元されています。窯はなんと登窯になっています。工房で埴輪を成型し、周りの18基の登窯で焼いていました。こうなると分業体制による工場生産ですね。働いていた工人の集落もすぐ近くにあり、職住一致です。帰り道に一杯やる楽しみがないのはいやだなあ。

集落から東海地方の土器が出土していますから、工人のなかには東海地方から来た実習生がいたのかもしれません。また新羅土器も出土しており、日本書紀に新羅人の子孫が住むという「摂津国三島郡埴廬(はにいほ)」という土地名が出てくるので、この場所だと言われています。

最初は太田茶臼山古墳用の埴輪を焼いていたようで、530年頃に規模を拡大して今城塚古墳の埴輪を大量に造っていました。他にも土保山古墳や昼神車塚古墳などの三島の有力者の墓用の埴輪をせっせと作っていました。

8月6日はWWW記念日

1991年8月6日、WWWが発表されたことから8月6日は「ワールド・ワイド・ウェブの日」になっています。

イギリスからセルンに来ていたティム・バーナーズ・リー博士が1990年に研究プロジェクトを立ち上げ、作り上げたのがワールド・ワイド・ウェブです。各研究者のコンピュータに保存されている論文や情報を、相互にリンクさせる仕組みです。コンピュータの機種に関係なく相互に情報交換でき、追加や削除しても大丈夫。つまりハイパーテキスト(WWW)の誕生で、1990年に世界最初のホームページが誕生します。

ティム・バーナーズ・リー博士はハイパーテキスト(WWW)をインターネット上に発表し、世界中に拡がっていきます。WWWはWorld Wide Web(世界中に広がる蜘蛛の巣)の略ですが、名の通り世界中にまたたく間に拡がりました。

特許もとらず使用料も徴収せず、誰もが無償で使える形でワールド・ワイド・ウェブがネットニュースで公開されましたが、テキスト情報しか扱えませんでした。公開されたワールド・ワイド・ウェブに興奮したのがイリノイ大学の学生だったマーク・アンドリーセン。マーク・アンドリーセンを中心に文字だけでなく画像や音声を扱えるブラウザー・モザイクを開発。これまた無料で公開したため、全世界にモザイクが普及します。ティム・バーナーズ・リー博士はこの功績により、エリザベス女王からナイトの称号を授与されています。

氷室

今城塚古墳の近くを歩いていると氷室町といういかにも涼しげな看板が。

氷室
氷室

本当にこんな所に氷室があったんですかねえ。炎天下を歩いていると、にわかに信じられません。

日本書紀・仁徳記に氷室の記事が出てきますが、これはどうやら奈良県都祁(つげ)の福住で発見された氷室跡のことと言われています。氷室は山中に深い穴を掘り、底に茅を敷いて、その上に冬に降り積もった雪を置き、さらに枯れ草や杉皮などで覆い夏まで貯蔵します。これが取り出され宮廷にまで運ばれました。

長屋王邸から発見された木簡では都祁から運んだ氷で日本酒オンザロックを楽しんでいたようです。夏にオンザロックは今も昔も最高ですね。

日本書紀に出てくる記事は仁徳記が最初ですが朝廷が管理した氷室は、山城国、近江国、丹波などにもありましたので高槻にもあったかもしれません。そういえば京都の西賀茂にも氷室町がありました。

今城塚古墳

高槻にある今城塚古墳。摂津富田駅から歩いていけます。

今城塚古墳
今城塚古墳

三好に対抗するために織田信長が古墳を改造して城砦として使ったことから今城塚と呼ばれましたが発掘の結果、地震による地すべりと確かめられました。今城塚古墳に葬られているのは継体天皇と言われています。宮内庁は近くの別の古墳を比定しているため、今城塚古墳は全国的にも珍しい「会いにいける大王墓」になっています。

継体天皇は応神天皇5世の孫で皇位継承からいうと「?」がつく存在ですが、ヤマト政権に迎えられ大王につきました。北陸出身ということもあり、この時に王朝が交代したのではないかという説が昔から出ています。物流の大動脈であった日本海−琵琶湖−宇治川−淀川−瀬戸内海の水上交通を抑えていましたので経済力があった大王でした。これが政治力にもなったでしょうし、半島情勢もからんでしたので北陸出身で知見がある人物でないと大王は務まらなかったのでしょう。

推古天皇社

推古天皇社
推古天皇社

大安寺境内で見つけたのが推古天皇社。

祭神はもちろん豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)つまり推古天皇です。新しく建てた神社かなと思うと、どうも違うようで昔の大安寺の伽藍を描いた図に東側に推古天皇と書かれ西側には聖徳太子と神社らしきものが書かれています。いつからあるのかなあ。大安寺が飛鳥から移転した時に神社もついてきたのかもしれません。

■日本に2つだけ?
そういうば大和郡山の額田部を歩いていた時にも推古神社を見つけました。推古天皇は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)とも呼ばれていたので額田部郷と関係があったのでしょうか。大安寺はもともと聖徳太子が平群郡の額田部に創建した修行道場なんで額田部というと平群郡で、大和郡山の額田部からは山を一つへだてています。

こういう時に便利なのが法人番号検索サイト。「推古」で検索すると該当するのは推古神社だけ。とすると推古天皇に関する神社は日本全国にこの2つだけしかないのかなあ。

元岩清水八幡宮

大安寺境内に元石清水八幡宮があります。大安寺の鎮守として建立されました。明治になるまで神仏習合でしたので神社と寺はセットでしたが廃仏毀釈となり、寺と神社の分離が進みますが大安寺では、そのまま残っています。

元岩清水八幡宮
元岩清水八幡宮

元岩清水八幡宮という名前は本家争いからきています。そもそも元石清水八幡宮は平安時代の僧侶である行教和尚が807年に宇佐八幡宮から勧請したものです。坂上田村麻呂が活躍し、最澄や空海が天台宗や真言宗を始めた頃になります。大安寺にあった石清水房に勧請したので石清水八幡宮となりました。

この後に京都の男山に勧請され石清水八幡宮ができたました。ところが行教和尚が宇佐八幡宮から男山へ直接、勧請したという説もあり、石清水八幡宮のホームページではこちらの説を採用しています。

■本家争い
1113年、興福寺が神輿を出して朝廷に圧力をかける時に、男山八幡宮は大安寺から勧請したんだから共に圧力をかけるのに参加するようにと呼びかけます。ところが男山衆は宇佐神宮から直接、勧請したので関係ないと返事します。

もともと男山に以前から石清水という名前があったとも主張するので、大安寺では元岩清水八幡宮というようになりました。こうなると饅頭などの本家争いと同じですねえ。