牧野古墳

奈良盆地の西側に丘になっているところがあり、これが馬見丘陵。いまは住宅地になっていますが古墳が点在していて、その一つが牧野(ばくや)古墳。大きな円墳でイベント時などは石室に入れます。中は石舞台古墳のようになっています。

牧野古墳
牧野古墳

古墳時代後期に造られ、延喜式には墓の敷地が東西15町・南北20町とあり、大仙陵古墳の8町四方を大きく上回るものになります。つまり今の馬見丘陵にある住宅街は全てお墓の敷地ということになり、実際、牧野古墳一帯には古墳がありません。

こんなに大きなお墓なんで敏達天皇の第一皇子である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の古墳と比定されています。舒明天皇のお父さんになります。蘇我系ではないので苦労はしたようですが忍坂部や丸子部といった領地を支配し経済的には潤っていました。これが舒明天皇から孫の中大兄皇子に引き継がれ、乙巳の変の軍資金などになりました。

神武天皇陵

橿原神宮の隣にあるのが神武天皇陵。欠史8代ともいわれているので実在そのものが疑われています。江戸時代に神武天皇陵を比定する時に候補が絞り込まれたのですが、それが下記の3つです。
・畝傍山の丸山
・ミサンザイ(現在の神武天皇陵)
・四条村の塚山(第2代の綏靖天皇の陵と比定)

神武天皇陵
神武天皇陵

丸山が有力だったのですが結局、ミサンザイに決まりました。孝明天皇の大和行幸にあわせ神武天皇陵参拝が行わることになり、江戸幕府は天皇陵の場所を定め、修復事業を実施することになりました。そこで住んでいる人がいなくって影響が少ないミサンザイが選ばれたという大人の事情があったようです。

日本書紀の壬申の乱の記載に大伴吹負が大海人皇子側として戦いますが、この時の神武天皇陵に馬と武器を奉納して勝利した記事があり、畝傍山近くに神武天皇陵があったことになります。藤原京造営でも壊されなかった塚山古墳を古代では神武天皇陵と考えていたのではという説もあります。

大和国分寺

近鉄・八木駅のホームに名所案内があるんですが「国分寺跡」とあります。国分寺!大和だから総本山である東大寺じゃないのと思うのですが、なんで八木にあるの!と思ったのですが駅の近くなんで寄ってきました。まあ分かりにくい住宅地の中にあり、しかも路地の奥です。

大和国分寺
大和国分寺

国分寺とは聖武天皇が仏教によって国を守るために全国に建立した寺です。巨大な七重塔と金堂などがセットになっており、今でいうと県庁所在地に高いタワーが建つイメージです。また学問の中心でしたので大学のような役割もありました。

なんでも江戸時代の大和志で大和国国分寺を東大寺でなく、八木近くに比定しています。実際に古代の瓦などが発掘されているのでガセネタというわけではなさそうです。ということで大和国分寺へ。現在は浄土宗のお寺になっています。