菅原さんの故郷

喜光寺

近鉄・尼辻駅を北西に、もしくは大和西大寺駅から南西に行くと菅原町があります。暗超奈良街道のすぐ北で古代は人が集まる場所でした。菅原町に観光客はほとんどいませんが菅原天満宮と喜光寺があります。

■行基の喜光寺
喜光寺はもともと行基が建てたお寺です。当時の僧は寺で経典を勉強するのが当たり前でしたが、行基は貧しい人には宿泊と食糧を提供するための布施屋(近鉄奈良線と大阪線が分岐する布施駅はこの布施屋からきています)を作り、橋や道路整備なども行い、民衆に布教していました。政権にとっては危ない非公認集団でした。ところが聖武天皇が河内の知識寺に行った時に知識(ボランティアのような協力のこと)に感激し、行基の活動を認めて協力を要請。大仏建立に貢献することになります。行基が亡くなったのも喜光寺です。

■菅原氏誕生の地
さて菅原という地名はかなり古く、推古天皇以前からの地名で、ここに住んでいたのが土師氏です。天応元年(781年)に土師氏が住んでいる菅原の地名をとって菅原姓への改称を申請し、認められ菅原氏が誕生します。新刊で出たばかりの「桓武天皇」(岩波書店)を読むと、論功行賞の意味もあり桓武天皇の方から改称せよと命じたようですね。さて菅原氏と言えば有名なのが菅原道真です。実家が菅原だったので、ここで生まれたと言われています。大宰府に左遷され怨霊になったことで菅原天満宮が建立されました。

尼子さんの故郷

尼子

滋賀県甲良町に尼子という土地があります。昔は近江国甲良荘尼子郷でした。ガチャコン(近江鉄道)の尼子駅があります。すぐ隣が豊郷町で「けいおん」の舞台となった豊郷小学校があります。宇多源氏である佐々木氏に婆娑羅大名で有名な佐々木道誉がいて佐々木氏は近江をおさめていました。孫の高久で尼子に住んだことから名字を尼子にして尼子氏がはじまります。

尼子氏の一部が出雲の守護代となり月山富田城を中心に戦国大名となり毛利氏、大内氏と戦います。一度は滅びますが、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った山中鹿之助が尼子氏復興をはかります。尼子氏は秀吉側について戦いますが、結局、お家再興はなりませんでした。山中鹿之助の息子が武士を辞めて摂津の鴻池村で酒造業をはじめ、これが鴻池財閥になっていきます。

多田さんの故郷

多田神社

阪急宝塚線の川西能勢口駅で能勢電鉄で北に向かう途中に多田駅があります。駅から西に歩くと高台の上に多田神社があります。昔は摂津国川辺郡多田でした。平安時代、二度にわたって摂津の国司を務めた源満仲が土着し、この地で武士団を形成していきます。拠点となったのが川を堀とした多田神社がある場所です。地名をとって多田満仲と名乗るようになることで多田氏の祖となります。

満仲の長男が源頼光で、酒呑童子を討ち取ったことで有名で、摂津の地盤を継承したことから摂津源氏の祖となり、三男が源頼信で河内源氏の祖となり、頼朝へつながっていきます。多田神社は清和源氏発祥の地となり室町幕府や徳川幕府などが自分たちの祖廟として庇護します。

渡辺さんの故郷

渡辺津

天満橋駅近くの大川に渡辺津の碑が建っています。ここが全国の渡辺さんや渡部さんの故郷となる渡辺津があったところです。渡辺津とは大川にあった古代の港で、熊野古道もこの渡辺津が起点でした。

■源綱が渡辺さんのルーツ
平安時代後期には源綱がこの地に住んで渡辺を名字とし、渡辺氏を起こします。大江山の酒呑童子退治で知られる源頼光に仕えた四天王です。渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団となり、港を背景に水軍として日本全国に散らばります。これが全国に拡がる渡辺さんのルーツとなります。北九州にわたった一族は松浦党となります。

■秀吉が移転させる
この渡辺津にあったのが坐摩(いかすり)神社。秀吉が大坂城を築城する時に坐摩神社および渡辺党に退去を命じます。坐摩神社は本町駅の南にある現在の久太郎町に移転しました。坐摩神社の境内は渡辺町と呼ばれていましたが久太郎町に統合されようとした時に待ったがかかり、久太郎町渡辺という珍しい番地となります。

高橋さんの故郷

石上神宮から奈良方面へ布留川沿いの山の辺の道を歩いていくと、途中で布留川を渡る橋があります。ここが高橋です。万葉集に「石上 布留の高橋 高高に 妹が待つらむ 夜そ更けにける」と歌われていて、「石上の布留の高橋のように、心も高々に、しきりに妻が私を待っているだろう。もう夜は更けてしまった」という意味になります。川まで降りるとかなりの高さの橋で、すぐ近くにハタの滝があります。ここが高橋さんの名前の由来になっている土地の一つです。

斎藤さんの故郷

鈴木さんの故郷として有名なのが和歌山県海南市藤白ですが、伊勢近くに斎藤さんの故郷があります。古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所が斎宮(さいぐう)です。斎王は、天皇に代わって伊勢神宮で神事を行う皇族女性で、斎宮で生活していました。この斎宮の長官が斎宮頭で、ある時、藤原叙用(のぶもち)という人が任じられます。この人が、斎宮の藤原氏ということで、「斎藤」姓の始まりになります。

斎宮

ところで斎藤というと齋藤やらいろいろな字がありますが、これは明治になって国民全員に名字が義務付けられた時の混乱によるものです。役所に届ける時に斎藤を旧字体で書いたのが齋藤。またこの旧字体が書けなくて齊藤も登場します。斉藤は本来は「せい」のはずですが、単純に書き間違えたという説があります。

斎宮があるのは近鉄電車で松阪から伊勢へ向かう途中の普通しか止まらない斎宮駅のすぐ横にあります。「斎藤さんの故郷」というでっかい看板を建てたらと昔、明和町の知り合いに言ったのですが実現されていませんね。伊勢神宮参拝のついでに斎藤さんが寄ってくれるのに。

遣隋使と遣唐使

■日本書紀に記載されていない最初の遣隋使
最初の遣隋使派遣は600年で、無礼な国書を送ったと隋に評価されたため隋書には記録されていますが、日本書紀ではないこといなっています。(笑)これではまずいと冠位十二階、十七条憲法の制定など政治改革を行い、外交使節が迎えられる小墾田宮を造ります。

607年、小野妹子が有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書をもって隋を訪問します。煬帝はおこりますが、ちょうど隋は高句麗と争っており日本を味方につけておかなければなりません。そこで隋は倭を「化外慕礼」の国として国交を開きました。「化外慕礼」の国とは中国の支配外だが中国の文化や商品を求めてやってくる国という意味です。

■揉み消した小野妹子
答礼として煬帝の勅使として裴世清が派遣され、小野妹子も一緒に戻りますが、煬帝から預かった返書を百済で盗まれてなくなってしまいました。まずいことが書いてあったので揉み消したのでしょう。

■Wスタンダードだった遣唐使
隋は長く続かず唐となったため、今度は遣唐使が派遣されます。隋と同様に遣唐使は中国に対する朝貢外交でしたが国内向けには対等外交ということにしていました。ですので唐から使節を派遣したいという話は必死で断っていました。つまりダブルスタンダード外交を展開していました。

墾田永年私財法

今の教科書って、私たちの頃とけっこう変わっているんですね。

墾田永年私財法、「こんでんえいねんしざいほう」という長たらしい名前で聖武天皇が出した勅(天皇の名による命令)です。これ以前に三世一身法が出され。自分で新しく開墾した土地(墾田)は孫までの3代は私財として扱えるよという内容です。

墾田永年私財法

もちろん税金は納める必要があります。ちょうど孫の代になった頃、このまま切れてしまうと土地は国に返されるので、ほったらかしになり荒れる耕地が増えるのではと危惧され、そのままずっと私有にしてええでという法律が出されました。これが墾田永年私財法です。

■ポジティブな墾田永年私財法
墾田永年私財法で公地公民制が崩れ、豪族や社寺が開墾を進めて土地私有化をはかり、これが荘園になっていくので、ネガティブなイメージで講義を受けましたが、今の教科書では評価が変わっているんですね。

当時は、とにかく荒れ地が多く、生産できる土地が不足していました。また天平の疫病大流行で大打撃を受けていました。日本に仏のバリアをはって疫病退散するために奈良の大仏と国分寺ネットワークを作ることにもなります。墾田永年私財法は農民にとっては収入が増えるのでモチベーションアップになり、国にとっては耕作地が増えて税金が増える、まさにウィンウィンの法律でした。橘諸兄あたりが立案したようです。

陣屋

陣屋

伊賀上野でお仕事だったのでランチに陣屋へ行ってきました。場所は伊賀の商店街を通る街道を東に向かい菅原神社(上野天満宮)を超えて、農人町から車坂に入り坂を下ったところにあります。そのまま、まっすぐ東へ行くと鍵屋の辻の敵討ちで有名な荒木又右衛門の出身地です。

陣屋は典型的な町の食堂ですが、店内にジャズが流れています。亡くなった先代がジャズ好きで、店内の一角にずらっとレコードが並んでいます。ジャズをBGMに定食を食べる不思議なお店です。いつも日替わり定食を食べていますが、750円になっていました。頼む時に「ご飯は半分」でと言っておかないと、てんこ盛りのご飯が出てきます。ご飯、漬物、一品、お味噌汁、メインがセットになった定食で、とってもコスパがよいお店で伊賀上野では有名ですね。