ザビエル城

ザビエル城

日本史によく出てくるのが十字架を見つめるザビエルの肖像画です。見つかったのは最近で1920年に茨木市の旧家から見つかりました。

ザビエルは貴族の生まれで、生まれたのはスペイン・バスク地方にあるハビエル城(ザビエル城)。19歳でパリの大学に入学し、そこで出会った仲間たちとイエズス会を設立します。やがて世界に布教に乗り出し、インドのゴアでたまたま出会ったヤジロウと日本へ布教に向かいます。ザビエルが生まれた城がそのままスペイン村に再現されています。

このヤジロウですがザビエルとあった頃にはポルトガル語が堪能でした。キリスト教教理書の翻訳をイエズス会に頼まれ、デウスを「大日」、マリアを「観音」、パライソを「極楽」と訳すことになります。当時は朱印船貿易などが盛んで日本人もよく海外へ出ていました。大友義鎮・家臣の稙田玄佐はゴアに戻るザビエルに同行し、帰りは中国に向かうザビエルにマラッカで別れ鹿児島経由で戻っています。翌年、またゴアに行って帰ってきておりゴアと2往復しています。本人になります。スペインとの通商が目的でした

志摩スペイン村

志摩スペイン村

今は昔、パソコン通信なるものありけり、はばりけり。FLicense(資格)フォーラムに中小企業診断士の勉強会があり、オンラインだけではなくオフライン勉強会が日本の各地にできました。インターネット時代になりましたが、この時のメンバーがいまだに年に1回集まっています。

今回は紆余曲折があって、Vチューバーとのコラボイベントで盛り上がっている志摩スペイン村に決定。ホテルの部屋もキャラクターハウスでした(笑)。全国から集まった、おじさま、おばさま方でスペイン村を楽しみました。夜の食事はいつものごとくワインなどを頼みまくり、食事代より酒代の方が高いといういつもの結果に。ピレーネは65歳以上は乗れないんですねえ。

淡河宿

淡河宿 本陣

三田と三木の途中に淡河(おうご)宿があります。住所は神戸市北区になっていますが、三宮から、かなり遠い山の中にあります。

ここを通っていたのが湯山(ゆのやま)街道、湯山とは有馬温泉の別名で摂津国有馬郡湯山村に有馬温泉がありました。もともとは秀吉が三木城を攻める時に、有馬温泉から三木まで整備したのが発端です。秀吉は有馬温泉が好きだったのと三木へ物資を輸送する兵站に使っていました。

江戸時代、京都から西国街道がありましたが、播磨から有馬を経由して京都を結ぶ最短ルートになったため、西国街道の裏街道として利用されました。淡河宿には本陣が造られ参勤交代や有馬温泉に湯治する大名が宿泊しました。由緒ある建物でしたが荒廃していたのを地元の人が蘇らせています。中は無料で見学でき、食事もできます。ランチに蒸し鯖寿司味くらべ定食をいただいてきました。

滝野氏古城

滝野氏古城

柏原城から尾根伝いに移動できる丘陵上にあるのが滝野氏古城です。古城というので柏原城を造るまでの詰城だったようです。溜池の土手を登っていくと帯郭のようなものがあり、滝野氏のものと伝わる墓地があります。この墓地を登ると主郭に入ることができます。主格はU字型に高さ4mほどの土塁で囲まれており、唯一、土塁がない所は崖になっているので防御性はバッチリです。土塁と崖の間に少し隙間があり、ここが虎口でした。

第二次天正伊賀の乱の時に伊賀衆が使っていたかどうかは分かりませんが、戦いの最後には柏原城を織田側は仕寄りで攻めているので付城として使っていたのかもしれません。織田軍は4万とも5万ともいわれる兵で伊賀を6ケ所から攻めたため伊賀の惣国はこれで壊滅します。1年たたない間に本能寺の変が起きます。

滝野氏居館跡

滝野氏居館跡

柏原城の隣に滝野氏居館跡があります。鎌倉時代、名張には黒田荘という荘園があり、ここの荘官だったのが大江氏で末裔が百地氏、滝野氏になったと伝わっています。第二次天正伊賀の乱では百地氏、滝野氏などの伊賀衆が柏原城に集結し、織田信長に対して最後の戦いを挑みました。

■土塁は仕寄りだった
柏原城の戦いはけっこう調査が進んでいるようで、滝野氏居館跡は何もない敷地跡になっていますが柏原城の方角にだけ土塁が築かれています。織田軍が攻めるために作った仕寄り跡と案内には出ていました。仕寄りとは竹を束にした防御壁を置き、被害を抑えながら前進するなど攻城戦での基本です。真田丸の戦いでは徳川方は塹壕を掘り、高台を作って真田丸に向かって銃を撃っていました。織田軍は柏原城の周りに仕寄りの土塁を築き、かなり肉薄した戦いを展開していました。

柏原城

柏原城

柏原城 天正伊賀の乱 最後の激戦の舞台

織田信長が最初の頃に行っていたのがM&Aによる乗っ取り工作。伊勢国司の北畠家には息子の織田信雄をいれ支配下にします。当時の伊賀や甲賀は惣国と呼ばれる自治組織で盟主はおらず、皆で話し合って運営していました。堺の会合衆のようなものです。織田信雄が伊勢の隣の伊賀にちょっかいをだして散々な目にあいます。これが第一次天正伊賀の乱で信雄は信長から親子の縁を切るとまで言われます。

信長は伊賀の掃討を考え、四方から軍勢を攻め込ませます。これが第二次天正伊賀の乱で伊賀勢はゲリラ戦などで対抗しましたが大軍にはかなわず伊賀の南西隅へと追い詰められます。最後は柏原城に集結し、激戦になります。久しぶりに柏原城を訪れましたが、よく整備され、高い土塁で囲んだ郭がよく見えるようになっています。

冠木門のオプション販売開始

冠木門のオプション販売   2024年4月1日

各位
2020年に発売した「一国一城の主」セットですが、おかげさまで初回セット(障子堀付)、破格値の9億4800万円ということもあり完売いたしました。お申込みいただいた方々、あつく御礼を申し上げます。そこで日頃のご愛顧に感謝し新たなオプションとして冠木門を発売します。

■冠木門
二本の柱の上部に冠木をかけたものです。簡素な作りながら、防御を固めることができます。今回はなんと、この冠木門を50門、用意いたしました。お値段はたったの298万円(税込み)です。このクオリティーで300万円を切る価格を実現するのは実に大変で、おそれいりますが4月だけの限定販売となります。

冠木門

さあ皆さん、期間限定、しかも50門限りですよ。今しかございません。商品に限りがございます。お早めにお電話をお願いいたします。もちろん振込手数料は当社が負担します!

■いつかは唐門
この冠木門だけでなく。もちろん追加料金をいただければ薬医門、高麗門、櫓門への変更もできます。特注となりますが唐門も作れます。一国一城の主となったからには、いつかは勅使をむかえることも考えておきましょう。勅使門はいろいろありますが、やはり最上級は唐門です。もちろん門扉には菊花紋章がつきます。ただし受注生産となるため、価格は10億円となります、

唐門

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