隠岐の放牧

隠岐の放牧

カルデラ地形の隠岐には水田に適した土地が少ないため、米以外の作物を育てる必要があります。そこで牛馬を放牧して土地を肥えさせる牧畑農法が発展しました。

西ノ島では放牧地帯に赤尾展望所などがあります。道路のど真ん中に牛が寝そべったりしているので避けて通るか、動くのを待つしかありません。元々は観光用でなく、牛を飼うための道路だったので優先権は牛にあります(笑)。馬は牛に比べると比較的にすぐ移動してくれます。あとは牛や馬のフンだらけになっているので、うまく避けなければなりません。

島前 外輪山

島前 外輪山

島前は中ノ島、知夫里島、西ノ島の3島からなっていて島の間は内航船とフェリーが結んでいます。島の間は波が穏やかですが、島の外は日本海ですので、波がけっこうあります。それぞれの島は急峻で平野が少なく、カルデラの外輪山になっています。

海底火山(島前火山)の噴火活動により、それまで浅い海中にあった火山が海面上まで成長しましたが、約560万年前~540万年前、陥没によって島前カルデラが形成されてようです。同じように世界的にみてもエーゲ海のサントリーニ島しかないそうです。

隠岐の岩ガキ

隠岐でよく食べたのが岩ガキ。

隠岐の岩ガキ

西ノ島が、岩ガキ養殖の発祥地なんですねえ。夏に人工授精させてホタテ貝の貝殻に付着させ、海中のロープに吊して大きくして出荷します。中上さんという人が平成4年(1992年)に成功して養殖を広めました。「隠岐のいわがき」としてブランド化しています。

岩ガキといえば志摩・畔蛸(あだこ)も有名なんですが、こちらは自然の海の状態を見極めて採苗する天然採苗して養殖しているんですね。夏の岩ガキいいですね。

隠岐の水木しげる

別府港

境港では水木しげるロードが有名で妖怪ブロンズ像が並んでいます。隠岐にもこのブロンズ像がいくつかあり、同じ島根県なんでブームに乗っかっているんだなと思っていたら、あれ境港って鳥取じゃなかったっけ!

水木しげるは大阪住吉生まれで境港育ちです。ここで、まかない婦として家に出入りしていた「のんのんばあ」が語り聞かせた妖怪に強い影響を受けます。水木しげるの本名は武良茂ですが、この武良は島後にある武良郷でルーツは隠岐にあったんですね。というわけで隠岐にもブロンズ像が各所にありました。ただ別府港の一反もめんと目玉おやじはフェリーの出港を見る人しか気がつかないところにありました。

隠岐国分寺

隠岐国分寺

741(天平13)年、聖武天皇が詔を出し、全国に国分寺が造られます。この国分寺の総本山が東大寺になります。

コロナ禍のように天平時代にも疫病が発生し、天然痘で藤原四兄弟がなくなります。正倉院文書に残された正税帳で推定したところ総人口の25~34%、100~150万人ほどが亡くなる、すさまじい疫病でした。ウイルスなどの知識がなかったため聖武天皇が考えたのが仏教の力で日本全国を覆うバリアを作ろうという発想です。隠岐(島後)にも国分寺が造られ金堂跡が発掘されています。

■後醍醐天皇の行在所?
御醍醐天皇が隠岐に流されましたが、黒木御所ではなくこの国分寺に流されたという説があります。ただ島前の知夫里島が本土との玄関口でしたので西ノ島の黒木御所説も捨てがたいですね。

阪神優勝

阪神優勝

阪神が優勝しましたが阪神百貨店のいか焼きやジョーシンでよく買っているプリンターインクが安くなるわけはなく縁なき衆生でございます。

阪急阪神ホテルズ直営レストランが安くなっても、そもそも行かないし...堺筋本町の居酒屋で「阪神優勝記念 50分飲み放題450円」を1軒、見つけたぐらいですね。2年ぶりの優勝なんで、あんまり新鮮味がないようです。

1985年に21年ぶりに優勝した時はすごかったですね。なんせ採算を度外視した店主がビール1本21円で提供する飲み屋が多く、大いに利用させてもらいました。暴徒化した阪神ファンがカーネルサンダースの人形を道頓堀に投げられ、その呪いから優勝できなくなったと言われました。

黒木御所

黒木御所

後鳥羽上皇が鎌倉幕府に敗れて隠岐に配流になったのが1221年。それからおよそ100年後の元弘2年(1332年)に鎌倉幕府の倒幕に失敗した後醍醐天皇が隠岐に流されます。後鳥羽上皇は島前の中ノ島ですが、御醍醐天皇は対岸にある西ノ島です。これが黒木御所で黒木とは皮を削っていない木材のことです。130段の階段を上った別所港をみおろす高台にあります。

後鳥羽上皇は19年を過ごして隠岐で亡くなりますが、御醍醐天皇は1年半ほどで脱出をします。大塔宮や楠木正成が倒幕運動をやっていたので希望があったのでしょう。島の豪族たちと交渉して脱出計画を作っていたようです。黒木御所の近くにある別所港には隠岐守護である佐々木清高が島に見張り所を作っていました。今は見付島という名前になっています。

別所港は使えないので山越えをして西ノ島の西側にある港から脱出したようです。佐々木清高もまさか配流した天皇が逃亡するとは考えていなかったようです。

隠岐の島(5) 手形

隠岐に流された後鳥羽上皇に亡くなる前に今まで尽くしてくれた家臣に摂津国(大阪府)水無瀬・井内両荘の領地を与える証文を書きますが、両手で真っ赤な手形を押しています。最後の力を振り絞って手形を押したことが伝わる証文で、国宝になっています。「後鳥羽天皇筆 御手印置文」

隠岐には写しが展示されており、現物はサントリー山崎工場の近くの水無瀬神宮(後鳥羽上皇の水無瀬離宮跡)にあります。このように昔、証文に「必ず払うから」と手に墨をつけて手形を押したので”手形”と言うようになりました。これが約束手形や為替手形となっていきます。

長年にわたり紙で運用されてきた手形ですが、2027年3月末に全廃となり「でんさい(電子記録債権)」に全面移行となります。

隠岐の島(4) 後鳥羽上皇行在所

後鳥羽上皇行在所

「鎌倉殿の13人」で尾上松也が演じていたのが後鳥羽上皇です。承久の乱に敗れ隠岐の島に配流となりました。島前の海士町(中ノ島)にあった源福寺が行在所になりますが、今は敷地跡しかありません。近くに上皇を祀った隠岐神社があります。ここで19年間を過ごし亡くなり火葬されました。

■承久の乱とは
実朝が暗殺され北条氏が政権を牛耳るようになり頭にきた後鳥羽上皇は城南寺(鳥羽)で流鏑馬を行うという名目で1700ほどの西国武士を集めます。北条義時追討の院宣が出され、義時は朝敵になってしまい頭をかかえこんでしまいます。この時、北条政子が「頼朝公のご恩を忘れるな」と大演説をぶち、東国武士は迎え撃つことで一致しますが、大江広元が迎撃論を抑え込んで、都へ向けて出撃させます。ちなみに大江氏の子孫が長州毛利家です。

後鳥羽上皇の意図は倒幕ではなく、北条から三浦にすげかえることを狙っていたという説もあります。後鳥羽上皇は敗北し戦争放棄を宣言します。古代から「武」で権力を維持してきた天皇が軍事に口を出さないと宣言し、武士の時代がはじまることになります。

■鎌倉幕府が全国組織に
敗北した西国の武士や貴族の荘園に東国武士が入り鎌倉幕府は地方政権から全国政権になります。ただ土地本位制だった東国武士が貨幣経済に巻き込まれてしまうことになります。

■小倉百人一首とは
藤原定家の私撰和歌集が小倉百人一首。正月のカルタ遊びでおなじみですが、どうも後鳥羽院の鎮魂のためにつくられた和歌集のようです。歌い手の多くが政争で負け零落した人物が多く、また藤原定家は後鳥羽上皇と近かったのですが、承久の乱が起きた時に裏切っています。これが百人一首を作る動機の一つになっているようです。

■徳川家康の遠大な根回し?
吾妻鑑などをよく読んでいた家康は朝敵になると、えらいことになると思ったのでしょう。天海に命じて寛永寺のトップに京都から皇族を迎える制度を作りました。反徳川勢力が京都の天皇を擁しても、幕府が朝敵にならないための仕掛けでした。実際、戊辰戦争では寛永寺にいた輪王寺宮能久親王が奥羽越列藩同盟の盟主になっています。

隠岐の島(4) フェリー事情

別府港

島後の西郷港と島前の3島はフェリーで結ばれています。島前では中ノ島の菱浦港、西ノ島の別府港、知夫里島の寄居港を巡ります。このフェリーですが6月17日から繁忙期を除いて1日3便から2便になりました。運行している隠岐汽船によると船員不足が減便の理由のようです。

島後は空港がありますが島前はないのでフェリーで本土にでるか島後に行くしかありません。時刻表をみると本土へ渡ると、帰れるのは翌日になってしまうんですね。問題は食料品で、本土(七類港)を9時半に出て別府港に12時に着くフェリーがなくなってしまい、本土(境港)を14時に出て別府港に17時に着くフェリーに食料品を積み込みことになります。この時間になると夕方の買い物時間に間に合わなくなります。