上之郷城、深溝城と廻ったので、ついでに岡崎城へ寄ってきました。さすがに観光客が多いですね。
もともは三河守護代の西郷氏が砦を作り、やがて進出してきた松平一族が岡崎城として拡張整備します。家康はこの城で生まれますが青年期は今川の駿府で過ごしました。家康が関東に移されると田中吉政がさらに整備し、城下町を取り込んだ総構えとします。
小牧・長久手の合戦で連携していた織田信雄が秀吉と単独講和してしまったため、家康は秀吉と対峙することになってしまいました。この時に秀吉の侵攻に備えて三河の城を改修しましたが、岡崎城も改修されました。ところが天正地震(1586年)が発生し、大きな被害をうけた秀吉は戦争どころではなく家康と興和します。
■天守裏側の丸馬出し
天守から廊下橋でつながっている郭があり、ここに持仏堂があったので持仏堂郭と呼ばれる郭がありました。これが武田流の丸馬出しになっていて家康は武田からいろいろと学んで取り入れていました。天守に近づけば、馬出しから即座に反撃する攻撃的な拠点です。それはいいのですが、持仏堂郭なんか撮影している観光客は誰もいませんでした。