上ツ道をゆく(7) 天理

天理

天理駅周辺には詰所と呼ばれる建物がたっていて様式が独特で、遠くから見ても天理教の建物だとよく分かります。詰所には熊本やら地域を書いた看板がかかっていて、各地の天理教徒が、参拝する時に泊まる施設で、各地域ごとにまとまっているそうです。しかも一泊1000円とめちゃくちゃリーズナブルです。

おやさとやかた構想というのがあって、天理教の聖地を中心として、一辺約900メートルの正方形の外周部を「おやさとやかた」と呼ばれる巨大建築を連結させて囲っているそうです。それで独特の建物がにょきにょき建っているんですね。高野山などとはまた違った宗教都市になっています。

上ツ道をゆく(6) 終点だ~あ!

上ツ道 終点

中ツ道、下ツ道とほぼ等間隔で平行する古代の直線道路です。桜井からずっと北上してきましたが天理市の三昧田町までくると突然、上ツ道が無くなってしまいました。仕方ないので169号線に沿った道を天理駅まで目指します。下ツ道、中ツ道はなんとか平城京跡にたどりつけますが上ツ道はまっすぐ進むと天理までですね。

天理の北側には山があって山の辺の道が通っていますが古代の上ツ道は山沿いの道を通って平城京の外宮(東側に張り出した部分)に接続していました。興福寺と東大寺の間の東七坊大路です。壬申の乱の時、近江軍は近江から平城京に進軍し、この上ツ道を通って箸墓で大海人皇子軍と戦になりました。

上ツ道をゆく(5) 大和神社

大和神社

日本最古の神社といえば大神神社、花の窟神社の名前があがりますが、もう一つあります。それが大和(おおやまと)神社で上ツ道沿いにあります。創建は第10代天皇が崇神天皇になります。

■大神神社誕生
崇神天皇は「はつくにしらすすめらみこと」とも呼ばれており実在した最初の天皇と考えられています。崇神天皇の時代に疫病が流行し、三輪山の大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)の怒りとわかり、神の子孫となる大田田根子(オオタタネコ)に祀らせたところ鎮まって、これが大神神社となります。

崇神天皇には、もう一つ神社にまつわる話があり宮殿で天照大神と倭大国魂神を祀っていたのですが、世の中が乱れるのは両神の勢いのためという、よう分からん理由で外へ出されることになります。なにか日本書紀には記載できないことがあったんでしょうね。

■伊勢神宮
天照大神を皇女豊鋤入姫命が笠縫邑に祀ります。これが山の辺の道沿いにある檜原神社で、後に倭姫命が各地を巡り、最終的に伊勢神宮が天照大神の鎮座地になりました。

■戦艦大和
倭大国魂神は皇女渟名城入姫に託しましたが、こちらはうまくいきませんでした。紆余曲折があり、大和神社になります。倭大国魂神は大和の国全体を守る神様で、航海安全の守護神ともされましたので、遣唐使が渡航前に参拝しました。戦艦大和の艦内神社には倭大国魂神の分霊が祭られました。

上ツ道をゆく(4)  我が家の前方後円墳

上ツ道

上ツ道を歩いていくと道の両側にこんもりとした森がよく見られますが、ほとんどが古墳です。なかには民家の奥に古墳があります。古墳の敷地内にある古民家をリノベーションして古墳に泊まれる民泊も天理に誕生しています。

古墳のほとんどは個人所有で、史跡に指定されるのは規模の大きな一部の古墳になっています。特に戦後は家も食料も足りなく古墳の多くが壊され畑にされたりしましたが、先祖伝来に伝わったものと壊さずに管理している個人も多く、みかん畑などになりながら今も古墳を楽しめます。

おやぢの会

海藤花 てっさ

北新地にある海藤花(かいとうげ)で「おやぢの会」。平均年齢が高い会なので、ここでは私も若手です(笑)。

フグづくしの宴でした。ここに2000年に8年古酒だった泡盛の一升瓶を持ち込んだ人物がいて、2000年で8年ということは1992年なんで33年ものでした。44度あるんですが、味はまろやかですねえ。飲みやすいのが危険で、すぐに足にきそうです。

店に入る前に堂島アバンザのジュンク堂に寄ったのですが3階のエレベータを上がった所でcuebooks(キューブックス)という本棚シェアサービスが始まっていました。棚を借りて、自分が選んだ本を並べるサービスです。本や雑誌が売れなくなっているので、ジュンク堂でも始めるんですね。

上ツ道をゆく(3) 黒塚古墳

黒塚古墳

纏向遺跡から上ツ道を北上すると柳本の集落に入ります。少し東に入って古代史で超有名な黒塚古墳へ。

なにがすごいって、発掘調査で卑弥呼の鏡とよばれる三角縁神獣鏡が33面も出土しました。黒塚古墳は古墳時代前期に造られた134mの前方後円墳で古墳の横には展示館があり、ボランティアガイドが4名ほど待機し来場者を待ちかまえていました(笑)。纏向のあと時系列に並べると柳本古墳群、佐紀古墳群、玉出山古墳群と推移していきますので初期の大和朝廷があった地域になります。

■柳本城
平地にある山なので戦国時代、古墳はよく城として使われました。黒塚古墳を城として利用したのが十市氏です。発掘調査で後円部と前方部の間に堀があったことが確認されています。江戸時代、柳本藩となりますが古墳を陣屋に取り込んで使っていました。柳本藩は信長の弟である織田有楽斎の子孫の家系です。展示館には城に関する展示はなかったですねえ。

上ツ道をゆく(2) 纏向遺跡

纏向遺跡

箸墓から上ツ道を北上するとJR纏向駅に着きます。駅のすぐ隣にある纏向遺跡を久しぶりに見てきました。邪馬台国・畿内説の最有力候補地で、2011年に大型建物跡が見つかってからは特に注目されるようになりました。

纏向遺跡は3世紀初めに突然現れた集落です。関東から九州にいたる土器が発見され、全国から人が集まっていたようですが、生活用具の出土が少なく政治・宗教都市だったようです。滋賀県・守山に伊勢遺跡があって中央の建物を中心に環状に建物群が並び、各地域の代表者が集まって協議した場所のようですが、ここで話し合って山に囲まれた纏向に都市を作ろうと決まったかもしれません。

纏向遺跡では寒いので車で待機していたボランティアの説明員が近づいてきて10分コース、30分コースで説明できますが、ということで10分コースでお願いしました。内容的には知っている内容だったのですが、「古墳時代の歴史」(講談社現代新書)読みましたかという話で盛り上がっていました。

ITC三重 忘年会

忘年会

ITコーディネータの集まりであるITC三重の忘年会。三重は南北に長く。遠方では岐阜・愛知にちかい「いなべ市」や志摩のメンバーもいて、電車だと2時間以上かかり大阪へ行くよりも遠くなります。年に1回ぐらいは皆で飲もうということで12月の月例会では終わってから忘年会を開催しています。

ITC三重はもともと四日市にあった三重ソフトウェアセンターにありました。ソフトウェアセンターとは地域でIT人材の育成・中小企業のIT化支援するためにIPA(情報処理推進機構)や都道府県、市町村などが出資した株式会社で今も全国に9つあります。三重ソフトウェアセンターはIPA、三重県、四日市が出資していましたが、2008年に解散となり三重県産業支援センターが新しい宿木になって存続しています。そうそう名古屋ソフトウェアセンターもなくなってしまいましたねえ。

三重県産業支援センターに移って18年なんで、よく続いています。

上ツ道をゆく(1) 箸墓

箸墓

藤原京から平城京を結ぶ下ツ道、中ツ道、上ツ道があり、一番東側にある南北道が上ツ道です。さらに東側に日本最古の道である山の辺の道があります。3つの道の間隔は2118メートルで当時使われていた高麗尺でちょうど6000尺(1000歩)です。上ツ道では途中に箸墓古墳があり迂回しています。迂回するのは分かっていましたが1000歩にこだわったようです。

箸墓は最古級の前方後円墳で邪馬台国説がある纏向遺跡にあるので卑弥呼の墓ではないのかと言われています。神聖(女王)と執政(男王)の祭政分離体制だったようで桜井茶臼山古墳が卑弥呼時代の男王の墓ではという説もあります。ちなみに卑弥呼の後を継いだ台与の墓が西殿塚ではという説があります。

■箸墓の戦い
壬申の乱では近江朝廷軍を大海人皇子軍が、箸墓一帯で迎え撃ち勝利をおさめました。迎え撃ったのは大神高市麻呂と置始連菟です。この大神高市麻呂ですが気骨があった人物のようで持統天皇の時代、伊勢行幸しようとした天皇に対して田植えの時期の行幸は民に迷惑を与えると諫言しましたが、聞き入れられず職を辞しました。

大神高市麻呂ですが住んでいた邸宅と勤務地が両方とも発掘で確かめられて分かっているという珍しい人物です。邸宅は現在の三輪神社の摂社でした、勤務地が左京職で、今は奈良文化財研究所都城発掘調査部のある所になります。

忠臣蔵の決算書

忠臣蔵

12月14日といえば忠臣蔵ですねえ。大石内蔵助ら47士が吉良邸に討入します。

大学で会計の話をした時、題材として忠臣蔵の「預置候(あずかりおきそうろう)金銀請払帳(きんぎんうけはらいちょう)」の話をしたんですが、学生から「忠臣蔵って何ですか?」とそもそもの話が(笑)

映画「国宝」で歌舞伎が盛り上がっているんじゃないの?忠臣蔵は歌舞伎の有名な演目でっせえ!こないだ西国街道歩いて早野勘平の旧家もみてきましたでえ!(モノレール箕面萱野駅近く)

■忠臣蔵の決算書
預置候金銀請払帳は討入までの収支決算書で、討入前日に浅野内匠頭の正室(妻)の瑤泉院に提出します。有名な南部坂雪の別れですねえ。学生の誰もが知りませんでした(笑)赤穂城を受け渡した後の残金が700両(8千4百万円)あり、これで浪士が上方と江戸を往復する旅費、武具購入などにあてます。大石内蔵助といえば目くらましのために祇園で遊興していましたが、あの遊興費は自費です。「忠臣蔵の決算書」(新潮新書)としてまとまっています。

別に記録をみると大石内蔵助は吉良邸の外に医者を待機させて、簡易救護所まで用意していたそうで用意周到ですねえ。

それ以来、若い世代の参加者が多いセミナーなどでは、忠臣蔵はカットするようにしています。