同窓会・SRA

新卒で入社したのがSRAという会社(いまもあります)。10年間ほどプログラマー、システムエンジニア、プロジェクトマネージャーをやっていました。その後、転職しちゃったのですが、当時の同期との同窓会です。といっても皆さん60歳の定年を超えており、一人だけ今もSRAで現役で働いており、レガシーシステムが残っているのでPL/Iなどをやっているそうです。

宴会の場所は西梅田にあるヒルトンプラザEAST 北海道 キタ酒場で3時間以上、昼飲みしてました。

当時のSRA関西支社は堂島グランドビルにあり近くの古河ビルに分室がありました。この分室にいることが多かったのですが客先に出ていることの方が多かったです。

竹田城

竹田城

天空の城で有名な竹田城へ登ってきました。

12月は中腹まで登れるバスもなくなるため、竹田駅からえっちらおっちら登るしかありません。その代わり観光客はほぼいません(笑)桝形虎口など技巧的な縄張りを楽しんできました。

竹田城を築城したのは但馬守護だった山名宗全で、城主が変わるたびに改修されてきました。次回の大河ドラマは豊臣兄弟ですが、播磨、但馬を攻めた秀吉が竹田城の城代にしたのが羽柴秀長です。近くにある生野銀山をおさえる目的もありました。秀長は竹田城を中心に但馬の統治と山陰方面の平定をしています。

北千畳曲輪、南千畳曲輪、花屋敷曲輪の3つの曲輪群から構成され、それぞれ桝形虎口が作られています。山の上にこんな技巧的な城をよく作りあげましたね。

ねぎ坊主 忘年会2005

ねぎ坊主

年末になると堺筋本町にある「ねぎ坊主」というお店で忘年会をやっています。

最初は船場総研の忘年会だったのですが、今は有志による忘年会になっています。昨日は5名でしたが、一番少ない時は2人で飲んでいたこともあります。記録をみると20年前の2005年が最古でした。

いつも席を予約してアラカルトで頼んでいますが、ここの目玉はでかい巨大玉子焼きと蓮根まんじゅうで逸品です!

上ツ道をゆく(7) 天理

天理

天理駅周辺には詰所と呼ばれる建物がたっていて様式が独特で、遠くから見ても天理教の建物だとよく分かります。詰所には熊本やら地域を書いた看板がかかっていて、各地の天理教徒が、参拝する時に泊まる施設で、各地域ごとにまとまっているそうです。しかも一泊1000円とめちゃくちゃリーズナブルです。

おやさとやかた構想というのがあって、天理教の聖地を中心として、一辺約900メートルの正方形の外周部を「おやさとやかた」と呼ばれる巨大建築を連結させて囲っているそうです。それで独特の建物がにょきにょき建っているんですね。高野山などとはまた違った宗教都市になっています。

上ツ道をゆく(6) 終点だ~あ!

上ツ道 終点

中ツ道、下ツ道とほぼ等間隔で平行する古代の直線道路です。桜井からずっと北上してきましたが天理市の三昧田町までくると突然、上ツ道が無くなってしまいました。仕方ないので169号線に沿った道を天理駅まで目指します。下ツ道、中ツ道はなんとか平城京跡にたどりつけますが上ツ道はまっすぐ進むと天理までですね。

天理の北側には山があって山の辺の道が通っていますが古代の上ツ道は山沿いの道を通って平城京の外宮(東側に張り出した部分)に接続していました。興福寺と東大寺の間の東七坊大路です。壬申の乱の時、近江軍は近江から平城京に進軍し、この上ツ道を通って箸墓で大海人皇子軍と戦になりました。

上ツ道をゆく(5) 大和神社

大和神社

日本最古の神社といえば大神神社、花の窟神社の名前があがりますが、もう一つあります。それが大和(おおやまと)神社で上ツ道沿いにあります。創建は第10代天皇が崇神天皇になります。

■大神神社誕生
崇神天皇は「はつくにしらすすめらみこと」とも呼ばれており実在した最初の天皇と考えられています。崇神天皇の時代に疫病が流行し、三輪山の大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)の怒りとわかり、神の子孫となる大田田根子(オオタタネコ)に祀らせたところ鎮まって、これが大神神社となります。

崇神天皇には、もう一つ神社にまつわる話があり宮殿で天照大神と倭大国魂神を祀っていたのですが、世の中が乱れるのは両神の勢いのためという、よう分からん理由で外へ出されることになります。なにか日本書紀には記載できないことがあったんでしょうね。

■伊勢神宮
天照大神を皇女豊鋤入姫命が笠縫邑に祀ります。これが山の辺の道沿いにある檜原神社で、後に倭姫命が各地を巡り、最終的に伊勢神宮が天照大神の鎮座地になりました。

■戦艦大和
倭大国魂神は皇女渟名城入姫に託しましたが、こちらはうまくいきませんでした。紆余曲折があり、大和神社になります。倭大国魂神は大和の国全体を守る神様で、航海安全の守護神ともされましたので、遣唐使が渡航前に参拝しました。戦艦大和の艦内神社には倭大国魂神の分霊が祭られました。

上ツ道をゆく(4)  我が家の前方後円墳

上ツ道

上ツ道を歩いていくと道の両側にこんもりとした森がよく見られますが、ほとんどが古墳です。なかには民家の奥に古墳があります。古墳の敷地内にある古民家をリノベーションして古墳に泊まれる民泊も天理に誕生しています。

古墳のほとんどは個人所有で、史跡に指定されるのは規模の大きな一部の古墳になっています。特に戦後は家も食料も足りなく古墳の多くが壊され畑にされたりしましたが、先祖伝来に伝わったものと壊さずに管理している個人も多く、みかん畑などになりながら今も古墳を楽しめます。

おやぢの会

海藤花 てっさ

北新地にある海藤花(かいとうげ)で「おやぢの会」。平均年齢が高い会なので、ここでは私も若手です(笑)。

フグづくしの宴でした。ここに2000年に8年古酒だった泡盛の一升瓶を持ち込んだ人物がいて、2000年で8年ということは1992年なんで33年ものでした。44度あるんですが、味はまろやかですねえ。飲みやすいのが危険で、すぐに足にきそうです。

店に入る前に堂島アバンザのジュンク堂に寄ったのですが3階のエレベータを上がった所でcuebooks(キューブックス)という本棚シェアサービスが始まっていました。棚を借りて、自分が選んだ本を並べるサービスです。本や雑誌が売れなくなっているので、ジュンク堂でも始めるんですね。

上ツ道をゆく(3) 黒塚古墳

黒塚古墳

纏向遺跡から上ツ道を北上すると柳本の集落に入ります。少し東に入って古代史で超有名な黒塚古墳へ。

なにがすごいって、発掘調査で卑弥呼の鏡とよばれる三角縁神獣鏡が33面も出土しました。黒塚古墳は古墳時代前期に造られた134mの前方後円墳で古墳の横には展示館があり、ボランティアガイドが4名ほど待機し来場者を待ちかまえていました(笑)。纏向のあと時系列に並べると柳本古墳群、佐紀古墳群、玉出山古墳群と推移していきますので初期の大和朝廷があった地域になります。

■柳本城
平地にある山なので戦国時代、古墳はよく城として使われました。黒塚古墳を城として利用したのが十市氏です。発掘調査で後円部と前方部の間に堀があったことが確認されています。江戸時代、柳本藩となりますが古墳を陣屋に取り込んで使っていました。柳本藩は信長の弟である織田有楽斎の子孫の家系です。展示館には城に関する展示はなかったですねえ。

上ツ道をゆく(2) 纏向遺跡

纏向遺跡

箸墓から上ツ道を北上するとJR纏向駅に着きます。駅のすぐ隣にある纏向遺跡を久しぶりに見てきました。邪馬台国・畿内説の最有力候補地で、2011年に大型建物跡が見つかってからは特に注目されるようになりました。

纏向遺跡は3世紀初めに突然現れた集落です。関東から九州にいたる土器が発見され、全国から人が集まっていたようですが、生活用具の出土が少なく政治・宗教都市だったようです。滋賀県・守山に伊勢遺跡があって中央の建物を中心に環状に建物群が並び、各地域の代表者が集まって協議した場所のようですが、ここで話し合って山に囲まれた纏向に都市を作ろうと決まったかもしれません。

纏向遺跡では寒いので車で待機していたボランティアの説明員が近づいてきて10分コース、30分コースで説明できますが、ということで10分コースでお願いしました。内容的には知っている内容だったのですが、「古墳時代の歴史」(講談社現代新書)読みましたかという話で盛り上がっていました。