岡崎城 持仏堂郭

持仏堂郭

上之郷城、深溝城と廻ったので、ついでに岡崎城へ寄ってきました。さすがに観光客が多いですね。

もともは三河守護代の西郷氏が砦を作り、やがて進出してきた松平一族が岡崎城として拡張整備します。家康はこの城で生まれますが青年期は今川の駿府で過ごしました。家康が関東に移されると田中吉政がさらに整備し、城下町を取り込んだ総構えとします。

小牧・長久手の合戦で連携していた織田信雄が秀吉と単独講和してしまったため、家康は秀吉と対峙することになってしまいました。この時に秀吉の侵攻に備えて三河の城を改修しましたが、岡崎城も改修されました。ところが天正地震(1586年)が発生し、大きな被害をうけた秀吉は戦争どころではなく家康と興和します。

■天守裏側の丸馬出し
天守から廊下橋でつながっている郭があり、ここに持仏堂があったので持仏堂郭と呼ばれる郭がありました。これが武田流の丸馬出しになっていて家康は武田からいろいろと学んで取り入れていました。天守に近づけば、馬出しから即座に反撃する攻撃的な拠点です。それはいいのですが、持仏堂郭なんか撮影している観光客は誰もいませんでした。

深溝城

深溝城

蒲郡駅から2駅行くと三ヶ根駅があり、普通しか止まりません。なんでこんな普通しか止まらない駅で降りたかというと、ここが家忠日記の中心地で深溝城がありました。ということで碑跡を見てきました。

■深溝城の築城
鎌倉時代末から南北朝時代にかけて深溝を支配していたのが三河大庭氏です。御家人だった大庭氏と関係があるかははっきりしません。この三河大庭氏が築城したのが深溝城で近くを東海道の脇街道である平坂街道が通っていました。中世になると松平氏が進出し大庭氏と戦になり、勝利し深溝松平家が誕生します。

■家忠日記
角川文庫から「家康家臣の戦と日常」(盛本昌弘)という本が出ていて、松平家忠が17年間にわたって残した日記があります。城の普請に駆り出されたり、連歌作りで交流したりして、京都へ行った時に里村招巴と対面しています。上之郷の鵜殿氏はこの頃は家康家臣となっており家忠の母は鵜殿氏になります。親戚なので家康が立ち寄ったりもしています。武田勝頼を倒した信長は三河を通って帰陣することになります。家忠はそのための普請などを行っていますが信長の行列を見たようで信長が黒人の弥介を連れているのを目撃しています。松平家忠は関ケ原の合戦の前哨戦となった伏見城の戦いで討ち死にします。

■板倉勝重
江戸時代になると板倉勝重の次男の知行地となりますが、もともと深溝松平家の所領の一つ小美村で生まれたのが板倉勝重。板倉家は深溝松平家の家臣でした。板倉勝重は出家していましたが家督を継いだ弟が戦死したため、家康の直臣となり京都所司代などを歴任します。

上之郷城

上之郷城

西三河で研修の仕事だったので、ついでに上之郷城へ。あくまでも仕事です。上之郷城はよく整備され、城跡からは三河湾が見渡せました。

上之郷城は鵜殿氏の城で鵜殿という名前から分かる通り、本貫は三重と和歌山の県境にある鵜殿です。やがて蒲郡一帯をおさめるようになり、鵜殿長照が上之郷城・城主でしたが今川義元の妹の子で義元の甥にあたり親戚でした。桶狭間の戦いの時は大高城を守っていましたが信長が鷲津砦、丸根砦を築き、大高城を封鎖したため、兵糧をいれたのが家康です。今川義元が討たれた後、家康は独立しますが、鵜殿長照は今川川に留まります。

■甲賀忍者が上之郷城をおとす
永禄5年(1562年)、家康は上ノ郷城を攻めますが、なかなか落ちません。そこで甲賀衆が城内に火を放ち、その混乱の中から攻め入り、鵜殿長照は討死にし、長照の子が捕らえられます。大河ドラマ「どうする家康」にも服部半蔵らが活躍するシーンが描かれていました。

家康は駿府にいた正室の瀬名姫と嫡男の竹千代、長女の亀姫らとの人質交渉を行い、今川氏真にとって、親族であった鵜殿兄弟を見捨てられず交渉は成立し双方の人質が交換されます。

生駒ケーブル

生駒ケーブル

日下の直越道に行く前に、まずは生駒山をえっちらおっちら登ります。まずは縦走路に入れる生駒山麓公園を目指します。公園にはアスレチックなどいろいろありますが、生駒ケーブルの古い車両がありました。

生駒ケーブルは大正7年に開業し宝山寺への参詣に活躍します。生駒ケーブルは生駒山上遊園地まで続いています。生駒山上遊園地から大阪平野と奈良が見渡せますので戦中は飛行塔が防空監視所として使われました。そのため生駒ケーブルは金属類回収で廃線になる鉄道が多い中、存続しました。

現在も動いているケーブルとして生駒ケーブルが最も古くなりました。なかなか味わいがある車両でした。

五瀬命負傷碑

五瀬命負傷碑

日下の直越道の尾根道沿いに五瀬命負傷碑があります。最初、気づかずに通り過ぎてしまいました。五瀬命は神武天皇のお兄さんで交戦中に長髄彦の放った矢に当たってしまいました。五瀬命は「我々は日の神の御子だから、日に向かって戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして戦おう」と助言します。って、大坂から大和へ攻め込む前に分かってたでしょうに、よう分かりません。

神武天皇は草香津(くさつ)まで退き、盾をたてて雄叫びしました。草香津は盾津と呼ばれるようになります。草香津から船出して紀州へ向かいます。ところが五瀬命は傷が悪化し紀伊国の男之水門で亡くなりました。和歌山市の竈山神社に墓があります。神武天皇は紀州をまわって熊野から八咫烏を道案内に大和へ攻め込みます。

日下の直越(ただごえ)道

神武天皇・孔舎衛坂顕彰碑

「直越の この道にてし 押し照るや 難波の海と 名づけけらしも」と万葉集にも出てくる古道です。神武天皇が生駒山から大和へ入る時に使った道と言われ、どの道だったかは諸説あります。

一番可能性が高い神武天皇・孔舎衛坂顕彰碑がある尾根道を目指すことにします。生駒山の峰の一つ饒速日山伝承地(ニギハヤヒが天降ったとされる峰)を過ぎ生駒縦走路を「こぶし谷」へ向かいますが、途中に山道を発見。ウーン、日下の直越ポイ道だと分け入ります。

■日下の直越道(尾根道)

山道を進みますが、下草が多く道が見えないところが所々にありますが、途中に日下直越道(尾根道)の道標(板切れ)があり合っているこを確認。夏はまず無理な道です。

日下の直越道には谷筋道もありますが、尾根から攻撃されるので、やはり尾根道でしょう。日下の直越道をひたすら降りていくと神武天皇・孔舎衛坂顕彰碑を発見。日下から少し登ったところにありました。

日下の直越道はハイキングコースとは全然、違う道なので誰も歩いていませんでした。

長髄彦(ながすねひこ)本陣跡

長髄彦(ながすねひこ)本陣跡

神武天皇は吉備高島宮から船で大阪湾に入り、大阪平野は梅でしたので生駒山の麓の港である日下に到着。ここから生駒山を超えて大和に入ろうとしましたが、大和を治めていた長髄彦が立ちふさがり戦いとなります。

長髄彦の本陣が生駒市白庭台の住宅地にあります。近鉄けいはんな線の白庭台駅からちょっと行った矢田丘陵の北の先にあり生駒山を超えてきた敵を高台から迎え撃てます。もっとも生駒山に前線をおいていました。長髄彦は登美能那賀須泥毘古と記載され頭に登美(とみ)がついています。現在も登美ヶ丘や富雄駅の名前が残っているので、このあたりに本拠地があったようです。

田原城

田原城

ようやく涼しくなってきたのでリハビリがてら田原城へ。場所は四条畷にあります。

四条畷といいながら生駒山の西ではなく東側なので、実質的に生駒の北になります。田原城は三好長慶の飯盛山城の東を守る支城でした。比高30mほどの小山に複数の郭が作られ、堀切と切岸で守られた遺構がよく残っています。山城には珍しく、よく整備され案内版まであります。西出丸までめぐってきました。

三好長慶時代はキリスト教が盛んで城主の田原氏もキリシタンとなり、洗礼名は「レイマン」だったという記録がルイス・フロイスの書簡に残っています。2002年(平成14年)に近くの千光寺跡から十字架とイエズス会を示す「H」マークの下に天正九年(1581年)と記載されたレイマンの墓碑が出土しています。

西国街道をゆく

西国街道

西国街道は東寺から大坂を経ないで西国(下関)へ至る街道ですが、西宮までのルートは別名「山崎通」とも呼ばれていました。

当時は1日あたり40kmほど歩いたので東寺を出て長岡京(向日町)から山崎宿を通り、芥川宿、郡山宿を抜けて瀬川宿(箕面線の桜井駅ちかく)で宿泊すると約40kmです。2日目は昆陽宿(伊丹)・西宮宿(西宮市)から灘五郷を通って神戸にいたり生田神社あたりで40kmほどになります。山崎通りを2日で通り抜けていて、昔の人は健脚ですね。

西国街道は大坂の北の方を通り、大坂をバイパスする街道になっています。大坂ー西宮間には浜街道があり、西宮で合流します。当時の倍にあたる4日ほどかけて歩きましたが、ほとんど途切れることなく東寺から三宮まで街道が続いていました。

ボジョレーヌーボー

ボジョレーヌーボー

ボジョレー・ヌーボー、バブル景気の頃は大騒ぎしていましたが、2004年から長期減少傾向が続いていて輸入量が減っています。日本のワイン消費量は広がっているので、ボージョレ・ヌーボーの「1人負け」とも言える状況ですね。とは言いながら縁起物みたいなものなので飲んでいます。けっこうフルーティーな味でした。

バブル景気の頃、ワインパーティをやるぞと会社の先輩が言いだし、そこまではよかったのですが、下宿にボジョレー・ヌーボーの樽を送ってきてパーティの日に持ってこいと今ならパワハラ行為ですなあ(笑)。樽には説明書がついていて湿度をたもつよう濡れた雑巾で一日一回拭けとか書いてあります。おかげで残業して帰ってからせっせと拭いておりました。パーティの日、フレームのバックパックに樽を紐づけて運びました。