
占い屋さんが多い石切参道商店街を歩いていると一角にナウル共和国の展示がありました。
東大阪市が南太平洋の島国ナウル共和国と広報連携協定を結んだ関係なんだそうです。店内(ナウル共和国石切参道パビリオン)ではパネル、グッズなどを販売していました。
万博ではナウル共和国はコモンズ館に出展していましたが、開幕時は展示物が届かないというトラブルに見舞われます。何もない台座が「心がきれいな人にだけ見える展示」とSNSで拡散されました。この台座も置いてありました。

占い屋さんが多い石切参道商店街を歩いていると一角にナウル共和国の展示がありました。
東大阪市が南太平洋の島国ナウル共和国と広報連携協定を結んだ関係なんだそうです。店内(ナウル共和国石切参道パビリオン)ではパネル、グッズなどを販売していました。
万博ではナウル共和国はコモンズ館に出展していましたが、開幕時は展示物が届かないというトラブルに見舞われます。何もない台座が「心がきれいな人にだけ見える展示」とSNSで拡散されました。この台座も置いてありました。

崇神天皇の時代、疫病をおさめるため宮中にあった天照大神と倭大国魂神を外に出すことにし、倭大国魂神は現在の大和神社に祀られました。天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の檜原神社)に祀ります。
外に出したのは宮中に2神を祀っていたからダメなんだという理由なんですが、よう分かりません。次の垂仁天皇の時代に倭姫命に託して大和から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢に入り、内宮を創建します。
■伊佐波登美命鎮座地
次に倭姫命は天照大神に捧げる神饌を調達する御贄処を探し志摩で伊佐波登美命に迎えられて伊雑宮を創建します。伊雑宮の近くに伊佐波登美命鎮座地がありますが、倭姫命が来る前から聖地だったのでしょう。伊勢神宮が創建される前からあったようです。
伊雑宮には参拝客がいましたが、鎮座地には誰もいませんでした。

伊勢神宮は内宮、外宮だけと思っている人が多いのですが、これは正宮で、全体は125社から構成されています。正宮に次ぐお宮を別宮といい14社あります。その一つが伊雑宮で「志摩国の一の宮」になっています。
■一の宮
一の宮とは地域で最も社格の高い神社で、国司が任国に赴任すると最初に参拝する神社です。本当はその後に二の宮、三の宮と回らないといけないのですが、タイパ重視で作られたのが総社です。国中の神様を集めて1ケ所だけまわればOKとしました。
■神田
伊雑宮は天照大神の遙宮(とおのみや)と呼ばれ別宮でも別格になっています。また神社の隣に神田があり、鳥居が建っていました。神田では平安時代の末頃から伝わる田植えが伝承されており、重要無形文化財になっています。
伊雑宮には神饌を調理する忌火屋殿(いみびやでん)がありました。志摩といえば古来より天皇に食料を献上する、御食つ国ですねえ。

津島神社へ
古い神社で伝承では欽明天皇元年(540年)の創建とされています。「ほんまかいな~あ?」とも思いますが尾張といえば古代の先進地でした。熱田神社近くに断夫山古墳という前方後円墳があり、一説には継体天皇の妃が尾張氏から出ているので、この妃の墓と言われています。継体天皇の息子が欽明天皇なんで、ひょっとすると津島神社も創建されていたかもしれません。
戦国時代は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの庇護を受け、特に織田家は氏神にしており、織田信長が天王祭を観覧した記録が残っています。津島神社の神紋は木瓜紋(もっこうもん)で、織田家の家紋と同じです。

コンサルティングファームを目指していたファイテングコンサルタンツ研究会。かっての崇高な目的はどこへやら、今や歴史探訪を中心とした酒飲み集団になっています。昨日は「会いに行ける天皇陵(今城塚古墳)と西国街道を歩く」というテーマでJR摂津富田駅に集合。まずはランチと言いながら宴会です。
駅からウダウダ、「まだ歩くの!」と文句をいいながら今城塚古墳へ。王朝交代が起きたのかどうか分かりませんが、現在の天皇につながる継体天皇の陵です。近くの太田茶臼山古墳が継体天皇陵に比定されていますが、今城塚古墳が本命の継体天皇陵とみられ発掘されています。ということで日本でも珍しい会いに行ける天皇陵になっています。その後、西国街道~将棋会館と巡り高槻駅で宴会して散開。

織田信長が生まれた勝幡城を、昔、見に行きましたが城跡はなく、虎口(城の入口)に通じる道が今も住宅地に残っていました。勝幡城の最寄駅は名鉄・勝幡駅ですが二駅先が津島駅です。この津島にあったのが津島湊です。川湊ですが、当時は300mほどの広さの川幅で交易をおこなう船が行き交う一大物流拠点でした。勝幡城の織田家は、祖父、父親の時代から次第に勢力を広め信長の頃は津島からの運上金が経済力の源になっていました。
この津島湊では津島天王祭が行われます。365個の提灯が船に半円・山型に飾られ、壮麗なお祭りで信長も見学にきていましたし、「信長公記」には津島の家臣・堀田道空の屋敷で付近の農民を招き、信長は天女の恰好をして踊ったという記録も残っています。
信長が上洛してから堺、草津など物流拠点をおさえたのは、この津島の経験からでしょう。

名鉄・佐屋駅からは須ケ口、吉良吉田、豊明行きが出ていますが、津島駅を出ると路線が2つに分かれており、佐屋駅からの出発便は津島線を通って名古屋駅方面を目指します。津島駅からは尾西線という名鉄一宮駅とを結ぶ線もあり、こちらは津島駅からしか出ていないようです。路線が2つもあるのにホーム一つだけで運用しているのは名鉄らしいですねえ!

名鉄は路線がたくさんあって行先を見ても愛知県人でなければ目的地に行けるかどうか、よう分かりません。カオスな迷鉄・名古屋駅は別にして佐屋駅もかなり複雑です。ホームが2つあって線路が3本あり、佐屋駅の時刻表をみると須ケ口、吉良吉田、豊明行きなどいろいろな方面に行けます。須ケ口って、どこなんだと調べると名古屋本線と合流する駅なんですね。
名古屋に行きたければ本線に乗り換えろということでしょう。とりあえず須ケ口、吉良吉田、豊明行きに乗れば名古屋駅には行けそうです。反対の弥冨駅に向かうには1時間に2本しかありません。佐屋駅を出たところで複線だった線路が単線になってしまいJR弥冨駅(共用駅になっています)につながっています。

東海道の難所の一つが木曽三川。揖斐川、長良川、木曾川の3つの流れを越えなければなりません。江戸幕府は基本、橋をかけませんし技術的にも難しかったので宮宿(熱田神宮)から桑名宿まで海路で結ばれ、これが七里の渡しと呼ばれました。七里の渡しの船賃は、時期により変動しますが現在の数千円から1万数千円です。
これを節約する方法がありました。熱田宿から船に乗らずに佐屋街道をすすみ、佐屋宿から船に乗って桑名宿を目指せば、三里の渡しですみました。東海道のバイバスです。当然、船賃も安くなります。この佐屋宿と船着き場ですが、今は住宅街になっていて、往時の雰囲気はどこにもありません。

弥富を歩いていると柴ケ森という場所がありました。源氏に縁がある場所です。平治元年(1159 年)に平治の乱で平清盛と戦い、敗れた源義朝が逃亡する時に立ち寄った場所です。今は住宅地ですが当時は水運の地でした。舟に積んだ柴の下に隠れて当地に来た義朝は、もう大丈夫だと柴を川辺に下ろします。この柴から芽が出て、森となり柴ケ森と呼ばれるようになりました。今は武家の神である八幡神社になっています。
■源頼朝の助命
平治の乱で勝利した清盛を中心に平氏一門が中央政界を席捲することになります。尾張までたどりついた源義朝は知多郡野間の長田忠致を頼りますが、裏切られて殺されます。平治の乱では13歳の源頼朝も戦っていますが、清盛の継母である池禅尼が頼朝の助命を願い、伊豆へ流されることになします。これが平氏にとっては誤算となりました。
頼朝の母の実家は熱田大宮司家で。上西門院統子(後白河上皇の姉)に奉仕しており、かっては頼朝も奉仕をしていた。池禅尼も上西門院と関係があり、頼朝の母方の縁者から働きかけがあったようです。