船場総研・総会

パソコン通信Nifty-Serveの時代から連綿と続く中小企業診断士試験の勉強会「船場勉強会」のOB組織です。とは言いながら昨年度は総会と近江八幡ツアーとイベントは2回だけでした。高齢化とともに年々、参加者が減少していますが、昨日は珍しく6名も参加。ほとんどの時間が近況報告で、今年度は久しぶりにセミナーをやろうということになりました。パチパチ。

終わってからは船場センタービルの地下2階へ。ビジネス街なので土日にやっている居酒屋が少なく、空いていた居酒屋に入るとハッピーセットということで18時までビールが199円になっていました。安いのはいいのですが、最近は注文をQRコードでやんないといけないのが面倒ですね。

和歌山市民図書館

和歌山市民図書館

南海・和歌山市駅に隣接して和歌山市民図書館ができていました。

中に入ったら、めちゃくちゃオシャレな図書館で、2020年にできたそうです。運営はカルチュア・コンビニエンス・クラブが行っています。1階は蔦屋書店とスターバックスが入っていて、そのままエスカレーターで上がると2階と3階が図書館になっています。ホテルのロビーのような雰囲気でオシャレですねえ。

歴史コーナーには「戦国合戦大事典」(新人物往来社)などが揃っていて充実していますね。「バグは本当に虫だった」もあったんですが開架じゃなく書庫に入っていました(泣)

和歌山城

和歌山城

和歌山でお仕事だったので、まずは和歌山城へ

和歌山へ行くたびに寄っているのでたぶん10回以上は来ています(笑)

和歌山城を造ったのは来年の大河ドラマ主人公である豊臣秀長です。秀吉の紀州征伐のあと、秀長が紀伊もおさめることなりました。そこで虎伏山に平山城を築き拠点としました。これが和歌山城です。江戸時代になると徳川家康の十男・頼宣が入り、紀州徳川家となります。

城のあちこちに秀長時代の野面積みの石垣が残っています。もう少し後の切込みハギと混在するのが楽しめます。

杉山古墳

若草山

平城京を造営する時に古墳などを壊しましたが、大安寺では杉山古墳という前方後円墳を敷地に取り込んでいます。

大安寺では古墳を壊しながら麓に瓦窯を6基作っていました。奈良時代末から平安時代にかけて、大安寺の修理に使用された瓦を焼いていたようです。前方部から土砂や葺石が運び出して資材調達に使っていたようですが、古墳そのものは残っています。

5世紀後半頃にできた古墳のようで公園として整備されていて登ることができ若草山などを一望できます。墳丘長は150メートルほどあったようですが、現在は120メートルほどになっています。

大安寺

大安寺

大安寺は2つの塔がある巨大な寺でした。塔の基壇跡がしっかり残っています。

大安寺は厩戸皇子(聖徳太子)が平群につくった熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)が大本です。名前は祇園精舎にならいました。そこから百済大寺、高市大寺、大官大寺となり平城京遷都によって大安寺になりました。

舒明天皇が百済大寺を作りましたが建設途中で落雷による火災などにあったようです。これが子部大神の怨みと考えられ皇極天皇は夫の遺志を引き継いで場所を変えて再建します。これが吉備池廃寺で九重塔とみられています。大安寺の失われた塔も九重の塔でした。

天平の甍(大安寺)

大安寺

辰市城から北上し、平城京の南限である九条を超えていくと大安寺があります。ちょうど本堂で神楽を演奏しながら舞が行われていました。

大安寺といえば普照(ふしょう)ですね。井上靖の「天平の甍」に苦難の道が描かれています。

許可なく出家する私度僧が多く、唐から戒律は伝わっていましたが不完全なものでした。そこで聖武天皇は唐から優れた僧を招くことにします。命をうけたのが大安寺僧だった普照と栄叡で養老5年(733年)に派遣される遣唐使に加わります。唐に滞在して10年目に鑑真と出会い、日本への渡航を要請します。快諾をえますが、そこからが大変で、日本への渡航が5回も失敗し鑑真は失明してしまいます。また749年には苦楽をともにした栄叡が唐で病死してしまいました。

6度目にしてようやく渡航が成功し、天平勝宝6年(754年)平城京に鑑真が到着します。普照が唐に渡って20年が経っていました。鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、聖武天皇などに戒を授けます。やがて唐招提寺が建立されます。

辰市城

辰市城

中ツ道の終点が東九条町だったので、ちょっと歩いて辰市城跡へ。

主郭があった場所は辰市幼稚園でしたが、久しぶりに行ってみると南部公民館東九条分館になっていました。住宅地になっていて城跡は残っておらず水路跡が堀跡かなという程度です。

ここが有名な「辰市城の戦い」の舞台です。松永久秀と筒井順慶が大和の覇権を争っていました。大河ドラマ「麒麟がくる」でも二人の対立が描かれていました。松永久秀が信貴山城、筒井城、多聞山城という城をつないだネットワークを築いていましたが、そこにクサビをうつために筒井方が辰市に城砦を築きます。急ごしらえの城郭でしたので松永久秀方が攻めたてますが筒井方の後詰があらわれ、松永方が敗戦。松永久秀の大和支配がゆらぐ分水嶺の戦いになりました。

中ツ道をゆく(14) 東九条

中ツ道

中ツ道をゆくシリーズもいよいよ終了です。

五徳池を超えてすぐの所に南永井町の信号があり、ここが平城京の九条大路で西に行くと羅城門跡があります。実際の中ツ道は残っておらず、754号線は斜め北に向かう道なので、中ツ道は左にずれていて畑などを通り現在の五徳池を突っ切っています。中ツ道は平城京の東南の端に至り、南北を結ぶ東四坊大路に接続しています。

九条大路で羅城門が見つかったので平城京の南は九条までと考えられていましたが、2018年に九条大路の南側で十条大路の遺構が発見されます。ところが、わずか二十年以内で埋め戻されていたようで、いまもよう分かっていません。

じょうもん(中百舌鳥)

じょうもん

中百舌鳥(堺)でお仕事だったのでランチは「じょうもん」へ

中百舌鳥駅前に昔、セレソヴィー株式会社があり、ファイティング・コンサルタンツ研究会の根城でした。2010年頃から堺東へ移転するまでの6年間ほど中百舌鳥でした。この頃は今のように酒飲み集団に堕落する前でしたので14時から17時頃まで研究会を行ってから「じょうもん」へ移動して宴会していました。研究会3時間、宴会4時間というパターンでしたね。

「じょうもん」は今も健在で日替わり定食は750円でがんばっていました。提灯はなくなっていました。

中ツ道をゆく(13) 東九条城

東九条城

今市城から中ツ道に戻り、北上すると五徳池があります。単なる溜池に見えますが、平城京の時代から存在し、当時は越田池と呼ばれていました。この近くで奈良時代に瓦を焼いた窯跡がみつかり、光明皇后に関連した木簡に出てくる越田瓦屋の跡とみられています。

平城京の参考にした長安(唐)の南東端には曲江池があり、平城京を造る際に真似して越田池をつくった説があります。池のほとりに白山神社があり、このあたりにあったのが東九条城で小字名「城」が残っています。神社の周りなどを歩いたのですが、それらしい遺構は残っていませんでした。