大和三山をゆく(6) 耳成山(天神山城)

耳成山(天神山城)

大和八木駅近くにあり大和三山で一番きれいな円錐形をしています。なんで大和三山のハイキングにつきあったかと言えば耳成山の頂上が山城跡なんです(笑)。最後に山城が待っているなんて素敵じゃないですか。

中大兄皇子と鎌足が密談した談山神社が有名ですが、平安末期頃から多武峰一帯に城が築かれて多武峰城塞群ができあがります。大和の国は僧兵(衆徒)をかかえた興福寺が支配し、守護がいない特異な地域でした。ところが衆徒(国人)の間で戦ったりする割には外部からの侵入があると一致団結したりします。

■天神山城
永正3年(1506年)に室町幕府に派遣された赤沢朝経が多武峰城塞群、龍王山城、二上山城にたてこもった大和衆を攻撃するために築いた陣城が天神山城です。頂上ちかくに耳成山口神社があり、ここから登っていくと城跡で
耳成山の頂上が主郭となり、周りを郭が取り囲んでいます。ハイキング客も多いのですが、城跡だと思ってみている人は一人もいませんね。

めざせ!中小企業診断士

めざせ!中小企業診断士

お昼休みに紀伊國屋書店 本町店へ行くと平積みされていました。

「めざせ! 中小企業診断士 合格したら人生が変わった17人の物語/体験記」(同友館)

企業内中小診断士9名、独立中小企業診断士8名が、「中小診断士をめざした動機」「中小診断士試験の学習法・合格法」「合格後の中小企業診断士としての生活(3年、5年、10年)」を語っています。
第1章 中小企業診断士という資格
第2章 資格取得に向けた学習戦略とモチベーション
第3章 診断士取得後の人生(企業内診断士編)
第4章 診断士取得後の人生(独立診断士編)
第5章 資格を活用するために大切にしてほしいこと
第6章 中小企業診断士をめざすあなたに
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大和三山をゆく(5) 天の香具山

國常立神社

標高は152.4メートルで登りやすい山です。神武東征では大和に入る前に、この山の土で土器を作り天津神を祀ったことから大和平定できたと言われ呪術的な山になっています。有名なのが持統天皇の「春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天香具山」ですね。

中ツ道はこの香具山山頂を起点にしており、山頂には天地開闢の際に出現した最初の神をまつる國常立(くにとこたち)神社があります。あまり眺望はよくありませんが、木々の間からちょこっと大和の街が見えるぐらいです。

天香山命(あめのかぐやまのみこと)という神さまが神武天皇が危機の時に布都御魂という刀を渡して助けます。布都御魂は石上神宮のご神体になっています。この天香山命は尾張氏の先祖で壬申の乱では大海人皇子に味方し、継体天皇の奥さんも尾張氏で熱田神宮の横にある断夫山古墳はこの奥さんのお墓という説があります。

大和三山をゆく(4) 紀寺跡

紀寺跡

本薬師寺跡から東へ向かうと香具山の麓に紀寺跡があります。紀とついているので紀氏の氏寺と考えられています。紀氏は生駒郡平群町にあった紀里出身の古代豪族で紀氏の有名人といえば古今和歌集や土佐日記で有名な紀貫之ですね。

紀寺のある場所は藤原京の左京8条2坊全域(4町)で発掘調査で金堂跡、講堂跡、回廊および南門跡が見つかり、南門・中門・金堂・講堂が一直線に並んでいました。四天王寺式の伽藍配置ですが、実際に本当の紀寺かどうかはよく分かっていません。

平城遷都で移転し、元興寺の南にある璉珹寺が紀寺跡と言われていますが、こっちも本当かどうかわかっていません。

大和三山をゆく(3) 本薬師寺跡

本薬師寺

畝傍山から香具山を目指して東へ。途中にあるのが本薬師寺跡です。といっても跡地が拡がっているだけです。東西に2つの塔があり、金堂がある薬師寺と同じ伽藍になっています。平城京への遷都で西の京へ移築され薬師寺になったと言われていましたが、そうとも言えるし新たに西の京で薬師寺が作られた痕跡もあり、移設したのか別に作られたのか、よう分かっていません。ただ西の京の薬師寺と区別するために本薬師寺と呼ばれています。

金堂があった場所には小堂が建っていて、その前に金堂の礎石などが並べられています。塔の向こう側に畝傍山をみることができます。

大和三山をゆく(2) 畝傍山

畝傍山

橿原神宮から畝傍山に登る登山道があります。畝傍山の標高は198.8メートルで大和三山では一番高いのですが、山頂の眺望はそんなによくありませんが、木々の間から天香久山や耳成山が見られます。畝傍とは「火がうねる」の意味からきており古代から火山だと分かっていたようです。

帰りは山頂から違う道を降りることに、途中の分岐があり、そうそう以前に登った時は左を選んでしまい、えらい急坂を降りることになって最後は道なき道を行くことになったところです。今回は学習済ですので右を選んで無事に下山できました。

ロンドクレアント

湖の響 kayo書道展

以前に勤務していた関西文理学園の同窓会で書をやっている人から個展の案内をもらったのですが、会場がなんと北白川にあるロンドクレアント!梅棹忠夫先生の旧宅ですね。知的生産の技術研究会にとっては聖地のような場所です。

ということで朝から北白川へ出かけて「湖の響 Kayo書道展」(明日7日までやってます)を見てきました。自分が書いた文字も読めない人間にとっては、きれいな字というのはあこがれですね。

■梅棹サロン

ロンドクレアントはエスペラント語で、ロンドは「集まり」、クレアントは「創造者」の意味です。ここは毎週金曜日になると作家の小松左京さんら親しい仲間や若手研究者、学生らを自宅に集めて議論。時には白熱し飲み明かすこともあり、梅棹サロンと呼ばれていました。

もともとは本多勝一さんたちが京大に探検部をつくった頃、探検部の学生が梅棹先生の自宅にしょっちゅうおじゃましていたことがきっかけです。そこで金曜日の夜に自宅を開放し、誰でも訪ねてきてもいいようにと「梅棹サロン」をはじめました。時代を牽引する行動派知的クリエイターたちの梁山泊となっていきます。

大和三山をゆく(1) 橿原神宮

橿原神宮

珍しく奥さんと休日が一致。「大和三山へ行こう」という申し出に「ハイハイ」と応じたのはよいのですが、まさか三山すべてに登る強行軍になるとは(笑)

とりあえずは畝傍山の麓にある橿原神宮です。明治23年(1890年)明治天皇が創建しました。大きな干支の絵馬があります。

■神武天皇陵
日本書紀の壬申の乱の記載に大伴吹負が大海人皇子側として戦いますが、この時の神武天皇陵に馬と武器を奉納して勝利した記事があり、畝傍山近くに神武天皇陵があったことになります。

幕末、尊王攘夷から天皇陵探索の気運が拡がりました。神武天皇陵の候補地として塚山説・ミサンザイ説・丸山説の三説があり、最終的に孝明天皇がミサンザイの地に決定しますが、藤原京造営でも壊されなかった塚山古墳(現綏靖天皇陵)や丸山説も有望です。つまりよう分からんということです。

■皇紀
辛酉(しんゆう)は「かのえとり」とも呼ばれ天命が改まると考えられました。60年ごとに訪れる辛酉の年が21回めぐる1260年ごとに、この世を揺るがす大革命が起きる考え方があります。明治から考えると601年が辛酉の年で推古天皇と聖徳太子の時代でした。そこから、さらに1260年を遡った紀元前660年を神武天皇の即位とし、これが皇紀になります。

男水門

男水門

和歌山和小野町に水門吹上神社があります。水門は「みなと」と呼びます。この神社の境内に神武天皇聖蹟・男水門顕彰碑が建っています。ここは神武天皇の兄である五瀬命(いつせのみこと)ゆかりの地で「男水門(おのみなと)」です。

以前、生駒山の山道にわけいって日下直越道(くさかただごえみち)で五瀬命負傷碑を発見。えらい山深いところにありました。神武天皇の東征で大坂から生駒山を越えて大和へ向かう時、五瀬命は長髄彦の放った矢に当たってしまいました。神武天皇は退却して草香津から船出し紀州へ向かいます。五瀬命は傷が悪化し紀伊国の男水門で亡くなりました。ここがその場所で、五瀬命が男建(おたけ)びをあげて亡くなったので「男水門(おのみなと)」と呼ぶようになったそうです。

ところが古事記では泉南の山の井水門で亡くなったことになっています。よう分かっていません。とりあえず関係する3ケ所はコンプリートしました。

鷺森御坊

鷺森御坊

織田信長と石山本願寺との10年戦争、いわゆる石山合戦は石山本願寺側が和睦に応じ、門主・顕如が石山本願寺を退去することで終わりました。天正8年(1580年)、退去した顕如が入ったのが和歌山にある鷺森御坊です。南海・和歌山市駅からすぐの所にあり、今はそれほど大きな寺院ではありませんが、発掘調査で深さ3mの堀が巡っていたことが分かり、寺院というより平城になっていました。

顕如は天正11年(1583年)に貝塚御坊(願泉寺)へ移ります。天正13年(1585年)に秀吉から天満の地を与えられ、天満本願寺を建立します。天神祭りで有名ですね。天正19年(1591年)に秀吉から京都七条堀川の地が与えられ本願寺ができましたが、顕如が亡くなった後の跡目争いを利用して徳川家康が西本願寺、東本願寺に分離し、一向宗の力をそぐことに成功します。