大阪府中小企業診断士協会 新年互例会

ウィンドーズ

場所は昨年と同じヒルトン大阪35F スカイバンケット「ウィンドーズ」です。両側がガラス張りで眺めは抜群です。下までガラスではないので高所恐怖症にとっては少し安心です。

参加人数は150名を超えているそうで、昨年よりも多かったですね。会場では公式キャラクターが発表されていました。「診断チュー大」くんというネズミのイメージキャラクターなんだそうで、虎じゃないんだあ(笑)

額田戎

額田戎2026

「商売繁盛で笹もってこい!」ということで家の近くにある額田戎神社へ。いつもはお参りする人が誰もおらず閑散とした神社ですが、この3日間はすごい賑わいで、社殿に行列までできていました。十日戎もお参りしますが、ふだんからお参りしなくって大丈夫なんですかねえ。

額田戎神社は、総本社である西宮神社から勧請していますので、霊験あらたかです。社殿の裏の木の板も鳴らしてお参りしてきました。縁起物は毎年、同じの熊手です。例年、お神酒もあるんですが、今年はあまざけだけでしたね。商売繁盛、がんばろっと!

丹波黒田城

丹波黒田城

丹波黒田城は園部川北岸の山頂に築かれた山城です。熊鈴を鳴らしながら登山道を登っていくと木に「黒田城 →」と記載された札がかかっています。これをたよりに登っていくと尾根の先端にたどりつき、ここにあるのが南出丸という削平地です。ここから急勾配の尾根をひたすら登っていくと南郭があります。南郭に入る前に谷まで伸びる2つの畝上竪堀があり、かなり深い堀でよく残っていますねえ。なかなかのスケールです。

南郭からさらに登ると頂上にある主郭に入れ、主郭にはお地蔵さんが祀られていました。ここから各尾根に郭が配備されていて北郭、東郭を巡って土橋や堀切などを楽しんできました。丹波黒田城はこのあたりの土豪である森氏が築城したようです。

■明智光秀に攻められて落城
森氏は八上城主の波多野氏とともに反信長側でしたので波多野氏などの応援をうけて城を整備したようです。天正8年(1580年)、明智光秀の丹波攻めにより、丹波黒田城は落城します。

園部城 堀跡プール

園部城プール

園部藩、250年間の悲願だった陣屋から城への転換ですが、結局、明治4年(1871)の廃藩置県で園部藩が廃止され、多くの建物が取り壊されました。せっかく建てたのに、もったいない。

園部城の本丸跡は園部高校の敷地になっていますが、切岸などを外から眺めることができます。隣は園部公園になっていて南丹市国際交流会館があり、外観が城郭風につくられているので、こっちを園部城と思っている人も多いでしょう。この会館前にプールがあって、会館から公園に行けるようにプールの上を通路が通っています。上から眺めると50mほどもあるプールで、どうみても堀跡です。

藤堂高虎が藩祖の津藩では隣に支藩となる久居藩を作りましたが、こちらも陣屋しか認められなかったのですが、溝と呼んで実際は堀を造っていました。念願は城でしたが久居藩はかないませんでした。そうそう日本海軍・軍艦の艦橋は、あの船に負けるなと、どんどん高くなっていったそうです。日本人は昔から櫓や艦橋などランドマーク好きですね。

日本最後の城「園部城」

園部城

京都府の園部町にあるのが園部城です。日本で最後に建造された城になります。元和5年(1619年)に外様大名である小出氏が但馬国出石城より移封され園部藩となりました。藩主には国主、準国主、城主、城主格、無城とあるなかで園部藩主だった小出氏は無城でした。築けたのは陣屋だけですが二重の堀や狭間を設けた塀もあり、実質的には総構えになっていて城でした。

ただし天守はおろか櫓や櫓門の建築は認めてもらえず城としてランドマーク不足で、ずっとコンプレックスだったようです。幕末の動乱期、園部は山陰道で京都に通じていますので、これはチャンスと禁裏を守るのを名目に幕府に櫓などの建築を申請したところ却下。再度、調整すると徳川慶喜が建築を内諾しましたが大政奉還でうやむやに。明治新政府ができたので願い出たらようやくOKとなり、水堀などを整備して園部城を造ります。ところが明治6年には廃城になってしまいます。

園部城は二重櫓、番所、櫓門がそのまま残っており、敷地は園部高校になっていて櫓門は校門になっています。

播但線

播但線

公共交通機関で竹田に行くには姫路から播但線に乗ります。姫路駅の一番北側にあるホームが姫新線と共用になっていて東側が播但線、西側が姫新線(きしんせん)になっており1つの島式ホームに4つの乗場があります。なかなか珍しい構造ですね。京都駅の0番ホームが30番ホームと連結していますが、姫路駅にもあるんですね。

播但線は姫路駅と和田山駅をつなぐ路線ですが、途中の寺前駅で乗り換えないといけません。寺前駅まで2両で走ってきた列車から1両列車に乗り換えます。竹田駅は終点・和田山駅の一つ手前の駅で途中には生野駅を通っていきます。そうです秀吉の資金源になる生野銀山で、竹田城が、そのおさえとなりました。

相撲桟敷

相撲桟敷

竹田城から登山口を降りていくと表米(ひょうまい)神社に着きます。ここには相撲桟敷という珍しいものがあります。

半円形に六段の石積段型桟敷になっていて野外観覧席ですね。奥には舞台もあって能や歌舞伎が上演されていたようです。山口の赤崎神社に同様のものがあるそうです。神社に土俵があるところは多く、特に隠岐は隠岐古典相撲があり、あちこちの神社で土俵を見かけました。山の辺の道沿いに相撲神社があり、ここは野見宿禰と当麻蹴速が戦った相撲発祥の地です。

表米神社は表米宿禰命(ひょうまいすくねのみこと)という飛鳥時代の武人を祀っています。645年(大化元年)に表米宿禰命は但馬国に攻めてきた新羅の軍船を丹後の白糸浜で打ち破りました。ただ神社での伝承で、よく分かっていません。伽耶、百済、新羅、高句麗との動乱の時代で、白村江の戦いで日本が負けた時、唐から郭務悰が2000人の兵を連れて筑紫に上陸してプレッシャーを与えるなど外交が緊張していたので、いろいろとあったんでしょうね。

赤松広秀居館跡

赤松広秀居館跡

竹田城へ登る駅裏登山道近くに法樹寺があり、寺の奥に段丘状の削平地があります。こんなところはGoogleマップでも出てこないし、観光客は誰もいません(笑)。

発掘調査で石垣や石列が確認され、竹田城の一部として史跡に追加指定されています。赤松広秀の居館跡とみられています。赤松広秀は最後の竹田城城主で、もともとは龍野城城主でした。秀吉の中国攻めに従いましたが、龍野城を取り上げられていました。備中高松城の水攻めにも参加しています。小牧・長久手の戦いの後、竹田城へ移されます。

竹田では漆器作りや養蚕業を奨励していました。関ヶ原の戦いでは西軍に味方し細川幽斎の田辺城(舞鶴)攻めに参加しましたが、西軍が敗れたため帰還。説得され東軍となり西軍側の鳥取城を攻めましたが城下を焼き討ちしたことを咎められ、家康から切腹を命じられ、竹田城は廃城となりました。

2026年 正月

猫

2026年、明けましておめでとうございます。

コンピュータが誤動作を起こすと世界中で身構えた2000年から四半世紀が経過してしまいました。月日がたつのは早いですねえ。大学生は2007年生まれが入学していますので、いよいよスマホネィティブ時代も到来しています。(iPhone、アンドロイドの登場が2007年)

さて12月中に作っておいた原稿を忘れないうちに正月早々にメールして仕事はじめ、と言いながらあとは飲んで食べて正月を満喫します。さて年が変わったので、やんないといけないのが会計ソフトの年度繰り越しです。個人事業は12月末で締めて会計年度を変更しなければなりません。ということで一杯やりながらパソコンに向かっています。

大晦日 山登り

山登り

大晦日、1年の感謝をこめて氏神さんである枚岡神社へ年末詣に行こうとしたら、奥さんからついでに生駒山へ登ろうという提案が。

エー、山に登るの!

山城は城を見に行くという目的があるので仕方なく山に登っていますが、「目的もないのに山なんか登りたくないな」とは、とても言えないので登ってきました(笑)。大阪は天気がよいので眺めがよいのですが、大晦日にハイキングしている人がけっこういるんですね。