トイレ(一乗谷)

トイレ(一乗谷)

戦国時代、一乗谷には1万人ほどが100年にわたって生活していました。堺が3万人、信長の安土が6千人ほどからスタートして最盛期は1万5千人ほどでしたので、一乗谷は都会だったようです。往時の街並みの一部が発掘調査に基づいて復元されていました。

復興した戦国の街は周りに電線などがなく、よく映画やテレビのロケに使われています。城下町としてよく整備されていたようで、各家には井戸とともにトイレが完備されていました。トイレは穴を掘ったボットン便所で、堆肥に使っていました。発掘調査で和式トイレにある金隠しが発見されたためトイレと判明しました。また火縄銃の部品や坩堝、弾丸なども見つかり城下町には鉄砲工房もあったようです。

朝倉館

朝倉館

一乗谷の中心部にあるのが朝倉館。入口の唐門が写真映えするので観光客は唐門ばかり撮影しています。朝倉館は完璧に城郭仕様になっています。特に南西の土塁は広く櫓がおかれていたようです。館の裏側にまで登りましたが、深い堀が続いていて防御は完璧ですね。

■足利義昭 元服の舞台
ここに最後の当主になった朝倉義景が住んでいました。三好衆から逃れてきた足利義秋(還俗し逃亡中)を迎え、朝倉義景がここで烏帽子役となり元服を行い、足利義昭と名乗るようになります。

足利義昭は3年間、滞在しますが織田信長に乗り換えることになります。一乗谷は安波賀の港から三国湊につながっていたので交易品もよく入っていました。館跡からはガラス容器(ベネチアングラス)などが発掘されていますので、朝倉義景も信長のようにワインを楽しんでいたかもしれません。

上城戸

上城戸

下城戸と対になるのが南を守る上城戸です。下城戸と上城戸ではさまれた地域が一乗谷になります。上城戸は土塁と堀で構成され、土塁の長さは100mを超え、高さは5mあります。大宰府を守る水城のような感じですね。賤ヶ岳の合戦で秀吉が作った東野山砦から堂木山砦まで結んだ土塁もこんな感じだったのでしょう。

上城戸の山側には平坦地が作られ櫓があったようです。あとで確かめると上城戸の外側に美濃から逃れてきた斎藤龍興や近江の浅井氏などの有力武将の屋敷もあったようです。その先には足利義昭が滞在した安養寺跡もありました。上城戸でUターンしたんですが、もうちょっと先まで足をのばせばよかったなあ。

下城戸

下城戸

いよいよ一乗谷へ

入口は下城戸です。安波賀から一乗谷に入るところが最も狭まっていて、ここに造られたのが下城戸です。土塁は山裾の川まで続いており、北側には幅10mほどの堀があり、一乗谷に入るには下城戸を突破するしかありません。枡形になっていて防御は完璧です。

朝倉宗滴邸

朝倉宗滴邸

朝倉宗滴という人物がいます。朝倉家の歴代当主を支えた歴戦の勇士でゲーム「信長の野望」にも登場します。

朝倉宗滴話記で有名です、数多くの戦闘体験をもとにした教訓で戦国武将の心得がよく説かれています。例えば、名将とはいちど大敗北を喫した者だという言葉があり、失敗した大将は、反省し、作戦の立て方を練り直すことで磨かれるといった意味です。朝倉宗滴自身は自分は勝ち戦ばかりで敗けなかったので名将になれなかったと謙虚なのかマウントをとっているのか、よく分からないことも言っています。「武者は犬とも言え、畜生とも言え、勝つことが本にて候」、どんな手段を使っても勝たなくてはいけないとも言っています。

一乗谷入口が安波賀という港になっていて、ここに朝倉宗滴邸があります。越美北線沿いにあり、近くの西山光照寺跡は案内板がありますが、こちらは何もありません。Googleマップは優秀でちゃんと表示され、三方を土塁で囲まれた区画が邸宅跡でした。

京都バスが福井を走っている

福井駅

福井駅に降り立ち、びっくりするのが動く恐竜ではなくバスロータリに並ぶバスです。「なんで京都バスが福井を走っているの!」と思ったら京福バスという名前でした。

京都バスとまったく同じカラーになっています。調べてみると京都バス、京福バスとも京福グループであり、経営不振など紆余曲折があって京阪グループ傘下になっています。嵐電や叡電という京福電鉄も走っていますね。

■京福になったワケ
京都と福井を結ぶ鉄道計画があったのではなく、京都は祇園を始め夜間の電力需要が多く、福井は織物工場が稼動する昼間の電力需要が多いため、互いの電力を融通するために「京福送電線」が作られたところから京福になったそうです。

越前全国オフ 2日目

お菓子

2日目は全国から各自が持ち寄ってきた、お菓子をつまみながら近況報告です。一人5分なんですが、しゃべりたがりが多いのでタイムキープしないと、なかなかおさまりません。次回の予定(信州になりそう)を大体、決めたらお昼となり散開です。

もう一泊して観光したかったんですが、LECの仕事が1年も前から入っているので、なくなく福井から帰ってきました。

今日はLEC梅田で1日、講義をし、さっき帰ってきました。疲れた~あ!

ACT2020 越前全国オフ

さわやか

インターネットがまだ普及していない時代、パソコン通信Nifty-ServeのなかにFlic(資格)フォーラムがありました。いろいろな会議室があるなか中小企業診断士の勉強会があり、オンラインだけでは面白くないので各地にオフライン勉強会が作られ、やがて全国オフが行われることになります。この全国オフの残党がいまだに続いています。

今回は越前が舞台。金曜の昼間に武生にある「うるしや」に全国から集合。越前ソバを堪能した後、鯖江商工会議所、小林大伸堂(ローズストーン)、サンオプチカルを見学した後、鯖江の神明苑に宿泊。夜の宴会では「ATコマンドでモデムの音を消すにはどうしたらよいか」「9600bpsは早かった」など、ほぼ化石化した会話が続きます。

写真は福井のローカルジュースである「さわやか」。1978年発売の地サイダーで、めちゃくちゃ甘いです。

行くのが大変な蜾嬴神社

蜾嬴神社

蜾嬴神社

絶対によめません!正解は「すがる」神社です。

雄略天皇が養蚕をすすめるために、臣下の「すがる」に蚕を集めるように命じると、蚕(こ)を子(こ)と同じ音だったので、間違って子供を集めて天皇に献上しました。大笑いした天皇は「すがる」に連れてきた子どもたちを養育するようにいい、少子部連(ちいさこべのむらじ)という名を与えます。この少子部連すがるを氏神として祭った神社です。

宗我坐宗我都比古神社の前の道を北上すると、すがる神社があるのですが、Googleマップで調べて近くに行っても道がありません。探しまわると、民家の横に畦道のような道があり、これをたどるとピンポン!神社にたどりつきました。

蘇我氏の故郷

宗我坐宗我都比古神社

近鉄・大阪線と橿原線が交差する八木駅の一つ手前にあるのが真菅駅です。普通しか止まりません。

真菅駅のすぐ近くにあるのが宗我坐宗我都比古神社(そがにますそがつひこじんじゃ)。このあたりは曽我町で蘇我氏の出身地と考えられています。飛鳥へは皆さん行かれますが、こんな神社に行く人は、まずいませんね。

蘇我氏は蘇我稲目あたりから歴史に登場するようになりますが、それ以前についてはよく分かっていません。

ヤマト創世記の葛城氏が対朝鮮外交や渡来人の管理、大王家へ娘を妃として出す役割を担っていました。葛城氏が雄略天皇に滅ぼされると、これらの役割を継いだのが蘇我氏でした。後に蘇我馬子が祖先の地である葛城(天皇直轄地になっていた)を返してほしいと推古天皇に願って拒否された話があります。となると元は葛城で本家から分かれて曽我の地に移ったんですかねえ。