武埴安彦破斬旧跡

武埴安彦破斬旧跡

稲八妻城の最寄駅は近鉄・新祝園駅で地図を見ていると武埴安彦破斬旧跡というのを発見。なんて読むんだあ(笑)

調べると武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)という孝元天皇の皇子だそうです。崇神天皇の時代に四道将軍の1人の大彦命(武埴安彦の異母兄弟)が北陸への派遣途中、天理で不吉な歌を歌う少女に出会います。大彦命は引き返して崇神天皇に報告します。

三輪の大物主神の奥さん伝説がある倭迹迹日百襲媛命が占うと武埴安彦の謀反が発覚します。そんな占いで分かるんですかねえ。ですが本当に武埴安彦が山背から攻め入ってきたそうです。吉備津彦命、大彦命、彦国葺が対応し、武埴安彦軍は敗退。ここで斬首されたそうです。山城国一揆でも戦場になりましたが古代にも戦場だったんですね。住宅地の中に碑だけ建っていました。

稲八妻城

稲八妻城

稲八妻城(いなやつまじょう)

京都の南側・相楽山城で起こったのが山城国一揆です。発端は応仁の乱で1470年以降に相楽地域の武士も東西両軍に分かれて争うことになりますが、やがて厭戦気分が高まり、1477(文明17)年に久世、綴喜、相楽の3郡の国衆が集まり、一揆を起こします。一揆といっても江戸時代の農民一揆ではなく共和国の設立です。

最終的にはうまくいかず、国衆ら数百人が稲屋妻城に籠城し、激しく抵抗しました。稲屋妻城については2つの説があり、その一つである政ケ谷城には先日、登ったのですが、もう一つの説では政ケ谷城の北側にある城山です。

麓に武内宿禰をまつった武内神社があり、神社の裏側から登山道が続いています。ずっと上まで登ると土橋や郭がありましたが、浄水場が山の上に造られており、ここにあった郭は破壊されたようです。途中に展望があり精華町の町を見下ろすことができます。

能褒野(ヤマトタケル終焉の地)

能褒野神社

日本武尊(やまとたけるのみこと)といえば古代の英雄。景行天皇の皇子で、天皇にこきつかわれ熊襲や東国征討を行いました。智謀ということになっていますが、普通に読めば、だまし討ちです。伊吹山の荒ぶる神の討伐に向かいましたが、返り討ちにあい病身に。

大和へ向かう途中、能褒野(のぼの)で亡くなります。亡くなる前によんだのが「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」という歌です。能褒野陵の前方公演の隣に能褒野神社が造られました。

能褒野に葬られると白鳥に姿を変え大和の方向へ、日本書紀では御所(奈良)と羽曳野(大阪)に降り立ち、それぞれ白鳥陵が造られました。古事記は大阪だけです。景行天皇の都は纏向地域にあったのに、なんで大阪なんでしょうね。羽曳野からさらに鳳に降り立って大鳥大社ができたと社伝には伝えられています。

川曲の坂下(一心寺 陣城)

一心寺 陣城

峯城近くに「天武天皇 河曲頓宮跡」があり、行ってきました。古城と同様に八島川に面する高台にあり現在は一心寺があります。

壬申の乱で大海人皇子が吉野から桑名へ向かう途中、川曲の坂下(かわわのさかもと)で日が暮れてしまい、おまけに雨が降出してきたので休む間もなく、三重の郡家に至って家一軒を焼いて暖をとったという記事が日本書紀に出てきます。場所についてはいろいろな説がありましたが、伊勢の国府政庁跡が近くで見つかり、このあたりを公道が通っていたことが確実で、ほぼ間違いないと言われています。

一心寺ですが、寺なのになぜか土塁が残っていて、どうみても城ですね。奥の方の竹藪は郭跡のようでした。峯城攻めの時に陣城として使われていたようです。

古城

古城

峯城を築城する前の峯氏の居城だったのか古城という名前になっています。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いの前哨戦として柴田勝家と連携していた滝川一益の亀山城、峯城を秀吉が自ら軍勢を率いて取り囲みます。峯城の周りに陣城を造り持久戦となりました。この古城もその時に改造されたようで峯城に向けた新たに横堀などが掘られています。

峯城から八島川を越えて東側にある高台の上に古城はあります。近くを道が通っていて案内板があり、古城に入れる虎口が近くにあります。藪だらけですが、そこは躊躇なく突入しましょう。虎口から郭に入るので周りを取り巻く土塁にあがると藪をさけて八島川の方まで進めます。3つほどの郭から構成された城で、峯城がよく見えます。

落山城

落山城

峯城の西、安楽川に向かって南東へ伸びた丘陵に落山城があります。

亀山梱包センター西の農道奥に城趾の標柱があり、ここから崖を直登します。あとで確認すると西にずっと行くと山上まで続く農道があったそうです。苦労して登ったのに!

直登すると尾根に出ますので、ひたすら登っていくと土塁で囲まれた2つの郭があります。別の尾根に一段下がった郭もありましたので4つほどの郭で構成されているようです。削平地が広いので大量の部隊が滞在できるので、峯城の出城説もありますが1584年(天正12年)に峯城を攻撃するための羽柴秀吉の陣城の可能性が高そうです。ただ秀吉側とすると技巧的な造りになっていない点が疑問です。南側の遺構が消滅しているので、こちらにあったかもしれません。

峯城

峯城

亀山にある峯城です。

正平年間(1346年 – 1370年)に峯政実(関盛政の五男)が築城しましたと伝わっていますが室町時代後期の築城のようです。天正2年に峯氏が伊勢長嶋城の戦いで討死にしたため織田信孝の家臣。岡本良勝が城主となりました。

何度も戦の舞台になります。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いの前哨戦で秀吉に敵対していた滝川一益の家臣によって攻められ峯城は亀山城ともども落城します。そこで秀吉が大軍を率いて峯城を包囲し、数ヶ月の籠城の末に開城します。

また天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いの前哨戦として秀吉は織田信雄側だった峯城を攻め、わずか数日で落城します。天正18年(1590年)に亀山城が中心となり廃城になりました。

とっても大きな城郭で6つの頂上にそれぞれ城があり、これが有機的に結びついています。各城を巡るだけでも大変です。きわめつけは天守台があったと伝わる高い土塁で、広いですね。安土城の天守台ほどの大きさがあります。

JR余呉駅

JR余呉駅

賤ヶ岳の各砦巡りでベースとなるのがJR余呉駅。駅では500円でレンターサイクルを借りられます。余呉駅から玄蕃尾城を目指す人も多く、登山道入り口までのマップもおいてあります。玄蕃尾城の登山口までけっこうな距離があり、たどりつく頃には体力を消耗します。

余呉駅のホームからは余呉湖が真正面に見え、この時期は水田と湖が一帯になっています。余呉駅は琵琶湖の北側にあり、約3万年前に琵琶湖から分かれたとされています。赤い屋根の小屋の向こう側に見えるピークが賤ヶ岳砦で、左手にあるのが中川清秀が討ち死にした大岩山砦です。

賤ヶ岳の戦い

賤ヶ岳の戦い

賤ヶ岳の戦いとは1583年(天正11年)4月に余呉湖周辺で行われた戦です。織田信長亡き後、柴田勝家と秀吉が戦い、秀吉が勝ち天下とりがすすみます。北国街道沿いにお互いに陣城を造る攻城戦となった戦いです。20ほどの陣城(砦)が造られました。ということで機会を見つけては陣城(砦)に登ってきました。

■登った秀吉側の陣城
田上山砦、賤ヶ岳砦、大岩山砦、岩崎山砦、堂木山砦、神明山砦、東野山砦、溝谷砦、菖蒲谷砦、天神山砦

■登った柴田勝家側の陣城
玄蕃尾城、中谷山砦、橡谷山砦、柏谷山砦、別所山砦

佐久間盛政の行市山砦だけ、体力がなく行けませんでした。

陣城をみると城を造る思想がよく分かります。秀吉側の城は虎口など、実に技巧的で絶対に守ろうという思想で城が造られていますが、勝家側は簡易な造りで主郭ぐらいしか整備していません。攻めるぞという意識が見えます。前を線突破したい勝家、持久戦に持ち込みたい秀吉という構図がよく分かります。

秀吉が対峙していたのが勝家以外に岐阜の織田信孝、伊勢の滝川一益です。秀吉は持久戦に持ち込んで各個撃破を狙っていたんですかねえ。

別所山砦

別所山砦

別所山砦は前田利家・利長父子の陣城です。他の砦より、しっかりと構築されていて主郭を巡る土塁と空堀が見事に残っていました。尾根上に削平地が続いており、ここに部隊が駐屯していたのでしょう。別所山城は標高444mの一帯に造られています。ここから佐久間盛政の行市山砦跡を目指そうとしたんですが200m以上も高度差があり、既に尾根を下りたり登ったりで体力は限界、ここでユータンです。

賤ヶ岳の戦いでは前田利家が勝手に陣をひいたことから総崩れになったことになっていますが、安部龍太郎の「戦国の山城をゆく」を読んでいると、別所山にいた前田勢が最前線の茂山に移動。尾根伝いに神明山、堂木山を攻め包囲網の一角をせめ、あわせて柴田軍が東野山に攻めかかる作戦だったようです。

■前田利家は裏切っていなかった説
行市山砦にいた佐久間盛政は後詰のはずが、行市山から集福寺坂を迂回して前田勢を追い越し、権現坂と下って余呉湖の湖畔に出て中入りを行います。軍令違反でした。用意していた秀吉軍は退却に手間取っている佐久間勢を攻撃します。

前田利家が敵前逃亡したという噂がたちますが、秀吉は府中城へかけつけて利家を説得したのではないかという説です。秀吉は右腕が必要なので最初から秀吉と話を通じていたことにしないかともちかけます。利家は家の安泰と加増に決断せざるをえません。結果をみて世間は最初から話ができていたと考え、敵前逃亡のうわさが流れます。

実際に別所山砦から見ると秀吉側の堂木山砦、神明山砦、北国街道はよく見えますが、余呉湖は全然、見えません。また行市山砦の動きも把握できません。佐久間盛政が秘密裏に動いても前田勢には分からなかったでしょうね。