坐摩神社・元宮

坐摩神社・元宮

OSAKAしごとフィールドで出張相談があったのでエル大阪へ。「働く女性・働きたい女性のための相談会」で、創業相談などにのっておりました。エル大阪は豊臣時代、加藤清正の屋敷があったと推定されています。大手道だった高麗橋通りのすぐそばですので一等地ですね。

エル大阪のすぐ前にあるのが坐摩(ザマではなくイカスリよよみます)神社・元宮。ずっと工事中でしたが、きれいになっていました。神功皇后が三韓征伐より戻った時に坐摩神を祀ったのが始まりで、神功皇后の鎮座石が境内に残っています。坐摩神社のすぐ近くが大川で渡辺津があり、渡辺姓はここから始まりました。秀吉が大坂城築城するにあたって坐摩神社は船場に移されました。そこで元宮と呼ばれるようになります。

朝ドラ「おむすび」セット公開

朝ドラ「おむすび」

朝ドラをちゃんと見始めたのは93作目の「あさが来た」からで、これで見る習慣がついたので、あとは半分、惰性で見ていますね。現在は111作目の「おむすび」で、2週間にわたってヒロインが出てこないことでも話題になった朝ドラです。朝ドラのヒロインはなぜか気象予報士など資格取得に励むことが多く、今回は管理栄養士の仕事の内容がよくわかる内容になっています。

撮影が行われたNHK大阪放送局・1階で「おむすび」セット公開をしていたのでのぞいてきました。(~3/9(日)までやってます)糸島にある米田家や神戸のヘアサロンヨネダなどが展示されています。

3月3日

猫

昨日は「ひなまつり」、3月3日って何かあったなと思ったら去年、清算結了(清算業務を終え消滅すること)した合同会社エムアイティエスの設立記念日でした。設立時、法務局にたまたま書類を出しに行ったのが3月3日で、提出日が設立日になりました。

2月末決算にしていたので去年の今頃は財務諸表や別表を作ったりして法人決算が大変でした。法人をなくしたので、役員報酬からの特別徴収をしなくてすみ、個人事業だけだと楽ですねえ。まもなく前期高齢者になるので身辺整理をはじめております。とりあえず大阪府中小企業診断士会は退会。診断協会には引き続き加入しています。

崇峻天皇陵

崇峻天皇陵

倉梯柴垣宮のすぐ近くに崇峻天皇陵があります。592年、崇峻天皇は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺されて、その日のうちに倉橋岡上陵に葬られました。東漢直駒は口封じなのか蘇我馬子に殺されました。

明治になってから崇峻天皇陵として比定されましたが、崇峻天皇をまつった金福寺が以前にあり、跡地を古墳でもないのに比定したようです。江戸時代までは近くにある赤坂天王山古墳が崇峻天皇陵と言われていました。赤坂天王山古墳は石室に入ることができ、「会いに行ける大王墓」ということで今城塚古墳(継体天皇)と同じですね。

尼ヶ辻駅からずっと西に行った安康天皇陵も戦国時代の城跡を天皇陵に比定したようで、けっこうめちゃくちゃです。飛鳥の牽牛子塚古墳は八角形墳ということが分かり斉明天皇陵と言われています。

倉梯柴垣宮

倉梯柴垣宮

下居出城跡から多武峰街道を下っていくと倉橋という集落があります。倉橋は高台なので桜井や耳成山が見え、遠くには二上山がのぞめます。ここに第32代崇峻天皇の倉梯柴垣宮(クラハシシバガキノミヤ)の伝承地があります。倉橋は倉梯と書かれていました。崇峻天皇は暗殺されたと正史に明記されている唯一の天皇です、犯人は東漢駒、蘇我馬子が命じたといわれています。蘇我馬子に擁立されて即位したのに、えらい梯子外しです。

倉橋はけっこうな高台で飛鳥からも離れていますので、蘇我氏や大夫(マヘツキミ)と距離をとらざるをえない事情があったのでしょう。倉橋から飛鳥に出るには談山神社まで登って西に下るか、多武峰街道を下って上の宮から山田道に入るしかないです。崇峻天皇の後は推古天皇が即位します。

マイナンバーカード切替

マイナンバーカード切替

マイナンバーカード(有効期限が10年)の切替のため東大阪市役所へ行ってきました。切替申請をして、通知書が届いたら予約をとる必要があります。今日、予約時間に市役所へ行きましたが、けっこう混んでますね。

受付は確認だけなので、すぐですが、実際の発行にはパソコンがいるので、こっちが混んでいます。そうそうパスワードで使う英字が大文字に変わっていました。ようやく呼ばれて本人確認の後、タッチパネルで暗証番号やパスワードを設定します。

マイナンバーカードは公開鍵暗号方式を使っており、10年前に取得した時は画面に「pair key generate」などの文字が出て、オッー、秘密鍵と公開鍵を作っているなと楽しめましたが、今回は何も表示されません。まあ、専門用語を見せられても不安に思うだけですからねえ。とにかく終わった!終わった!

下居出城

下居出城

中大兄皇子と鎌足が蘇我氏を倒す密談をしたのが談山神社。談い(かたらい)から談山と名づけられました。談山神社を中心に城が造られ多武峰城塞群と呼ばれています。まだ行けていなかった下居出城に登ってきました。多武峰城塞軍の最北端に位置します。

大和は興福寺が守護の代わりで大きな勢力はなく国衆通しで争っていました。そこに松永久秀が攻め込んでくるなど混沌とした状態です。長期にわたり明日香から多武峰一帯に城塞群が構築されました。下居出城は多武峰街道を倉橋から攻めてくる室町幕府軍に対抗した越智氏・箸尾氏のいずれかの城だったのでしょう。

多武峰街道から山の麓にある神明神社を目指します。神社裏からエッチラオッチラ直登すると尾根に到達しますので、ここから尾根を進んでいくと下居出城に着きます。実は神明神社前を通り過ぎて北に少し進むと山道があり、ここから尾根にとりつく方が楽ですね。帰りはこっちの道で戻ってきました。

下居出城は3つの堀切で遮断された郭があるのですが、見どころは三重に続く畝上竪堀です。見事に残っていました。

守山城

守山城

守山駅近くにある守山城。といっても住宅街やお寺の中に埋もれてしまい遺構は残っていません。ただ、まっすぐに流れてもよい水路が奇妙に湾曲しており堀跡のようです。この湾曲した中に城がありました。

築城したのは宇野氏で、承久の乱の恩賞で関津(瀬田川を遡ったところ)の地を幕府から与えられます。本拠は関津城で守山城は支城の一つだったようです。その後は佐々木六角氏の種村氏が城主になりましたが、信長が足利義昭を奉じて上洛する時に木下藤吉郎、池田恒興が攻め寄せ落城させました。守山城は中山道・守山宿をおさえる拠点でしたので修築して稲葉一鉄(頑固一徹の語源になった武将)を守将とします。近くにあった一向宗の金森御坊を牽制する位置でもありました。

■宇野首相のお墓
昭和の中頃まで土塁跡や堀跡が残っていたそうですが、今はほとんどが大光寺境内になっています。ちなみに大光寺には女性スキャンダル問題で短命政権に終わった宇野首相のお墓があります。すぐ近くの町家・うの家が生家で、江戸時代は守山宿の町年寄の家柄でしたから先祖は鎌倉時代の宇野氏につながっているかもしれません。

山之井

山之井

先日、泉南に用事があったので、ついでに山之井に行ってきました。

神武東征で、その頃は海だった大阪を超えて日下(東大阪)に上陸。ここから生駒山を越えて大和に入ろうと日下直越道(くさかただごえみち)を登っていくと、待ちかまえていたナガスネヒコ軍の攻撃にあいます。神武天皇の兄の五瀬命(いつせのみこと)が矢傷を受けます。一度、日下直越道をたどりましたが、なかなか大変なところに五瀬命負傷碑がありました。

神武軍は船で撤退し大阪湾を南下し泉南の山の井水門に着き傷口を洗いました。当時は今の南海本線などは海で、高地になっているところあたりが陸地でした。五瀬命は「賊に傷つけられて死ぬとは」と無念のあまり雄々しく叫びます。古事記ではここで亡くなりますが日本書紀では紀国竈山で亡くなり竈山神社に祀られます。泉南では男神社(おたけびの宮)に祀られています。

芦浦観音寺館

蘆浦観音寺館

草津市芦浦町に観音寺という古刹があり、秦河勝が創建したと伝わるので飛鳥時代ですね。ここが戦国時代に城へと変貌します。

東山道の守山宿から琵琶湖の志那港を結ぶ志那街道が寺の近くを通り、琵琶湖を通じた往来の要所になっていました。観音寺は室的幕府から船奉行に命じられ、以来、信長、秀吉、家康時代と100年以上も船管理にあたりました。江戸時代の貞享2年(1685年)に何でか知りませんが罷免されました。寺は江戸に移転させられ、寛永寺に明王院として存続しています。

寺といいながら水堀で囲まれ、門は桝形になっています。石垣が巡らされており堅固な造りになっています。