芦浦観音寺館

蘆浦観音寺館

草津市芦浦町に観音寺という古刹があり、秦河勝が創建したと伝わるので飛鳥時代ですね。ここが戦国時代に城へと変貌します。

東山道の守山宿から琵琶湖の志那港を結ぶ志那街道が寺の近くを通り、琵琶湖を通じた往来の要所になっていました。観音寺は室的幕府から船奉行に命じられ、以来、信長、秀吉、家康時代と100年以上も船管理にあたりました。江戸時代の貞享2年(1685年)に何でか知りませんが罷免されました。寺は江戸に移転させられ、寛永寺に明王院として存続しています。

寺といいながら水堀で囲まれ、門は桝形になっています。石垣が巡らされており堅固な造りになっています。

SNS「みえぢん」が本日で終了

みえぢん

全然、知られていませんが三重県人のためのSNSである「みえぢん」というサイトがあります。三重県人でなくても三重県に興味がある人なら誰でも参加OKというSNSです。

三重大学にサーバーを置いて運用されていましたが紆余曲折がありサーバーを管理されていた教授の退任により本日で終了となります。スタートが2006年10月ですので、19年4か月にわたっての運用でした。長い間、ありがとうございました。

「みえぢん」はOpenPNEというオープンソースのSNSを元にいろいろな機能が追加されています。スタートした2006年から参加していますが2006年といえばアンドロイドやiPhoneが登場する前で、Mixiが上場した年でもあります。Facebook日本語版がスタートしたのが2008年でTwitterが流行りだしたのも2008年ですからSNS黎明期になります。そうそう2006年はライブドア事件やハンカチ王子が注目を集めました。

長束正家館跡

長束

長束正家ってご存じですか?

秀吉亡きあと、豊臣秀頼を支えた五奉行の一人で算術も得意で武功もある文武両道の武将です。忍城の戦いで副将として三成を助けますが、映画「のぼうの城」では忍城に軍使として遣わされ横柄な態度をとり成田長親は籠城することに決めることになります。まあ映画の話なので(笑)

関ヶ原の戦いでは西軍につきましたが毛利秀元、長宗我部盛親、吉川広家とともに南宮山に布陣しましたが、吉川広家が寝返り戦に参加できずに負けました。水口岡山城に戻りましたが切腹させられました。もともとは水口氏という名前でしたが長束村に移った時に、長束氏と名乗りました。草津市長束町には長束氏館跡があり、今も土塁の一部が残っていました。

物部村(守山)

物部村

守山を歩いていると「牛馬三昧之碑」という碑を発見。というより側面にある物部村という文字が目に入りました。

調べるとかって栗太郡物部村があり、奈良時代には既にあった地名で一時期は法隆寺の荘園があったようです。守山駅近く勝部神社はニギハヤヒや経津主神を祭り、物部氏の神さんだったんですね。

蘇我馬子と物部守屋との戦いを日本史で習うため物部氏が滅んだと誤解している人も多いのですが、守屋一統が滅んだだけで物部氏は全国に点在し物部系の神社があります。例えば名古屋の千種にある高牟神社は尾張物部氏の拠点があったところです。また近鉄中川駅のデルタ線の近くにも物部神社もあります。東大阪や八尾の多くの神社の祭神は物部の神さんです。デンボの神さんで有名な石切神社もそうですし、宮司は物部氏の一派である木積(こづみ)氏です。

下之郷遺跡

下之郷遺跡

下長遺跡の東にあるのが下之郷遺跡です。

弥生時代の環濠集落である下之郷遺跡ですが、堀の規模がすごく、まず中心部を囲む三重になった堀跡が見つかりました。さらに集落の外周を囲む形で三重の堀がめぐっていました。堀の幅が8メートル、深さ2メートルもあります。他にも堀跡があり、いくつの堀がめぐっていたのか今もって分かっていません。堀は水堀が主体でした。堀は土塁とセットですので防衛の意味もありましたが現在の貯木池のように木材の保管にも使われたようです。

米は熱帯ジャポニカ米を食べていたようで中国や朝鮮半島から伝わったのではなく東南アジアから直接入るルートがあったようです。

■倭国大いに乱れ
想定されている集落の大きさは東西330メートル、南約260メートルもあります。集落の入口には土橋があり銅剣や折れた弓などが見つかっていますので戦闘が行われたようです。弥生時代の平城ですねえ。時代は吉野ヶ里遺跡、池上曽根遺跡、唐子鍵遺跡などと同じ時代で邪馬台国よりも300~400年前古く、漢書地理志に「倭国、分かれて百余国・・」と書かれた時代の国の一つです。

下長遺跡

狐塚古墳

「伊勢遺跡と卑弥呼の共立」(吉川弘文館)を読むと伊勢遺跡周辺の遺跡が面白そうなので、まずは下長遺跡へ。といっても遺跡の多くは工業団地になっていて小さな3基の古墳が点在しているだけです。下長遺跡は伊勢遺跡から北西に1.5kmほど離れたところにあり、弥生時代から平安時代まで使われていたようです。

古墳時代前期には首長の居館が作られ祭場もあり、儀仗が見つかっていますから王がいたようです。遺跡の中央を琵琶湖まで続く川が流れていました。船も見つかっていて、川に沿って交易のための倉庫や交易場所があったようです。琵琶湖は古代の高速道路ですので瀬戸内海ルートと日本海ルートを結び、北陸・東海とのハブでもありました。

下長遺跡は伊勢遺跡のための物資の集散、交易の拠点として使われていたようです。その後、大和王権がスタートし伊勢遺跡が終焉するとともに、下長遺跡はますます栄えますので、物流拠点のハブとして大いに機能したようです。

日本酒試飲会

日本酒試飲会

大阪府中小企業診断協会からいろいろなイベント案内が届くのですが大概は無視。そこに日本酒試飲会という魅力的なお知らせが!

迷わず参加申込!申込した後によく見ると青年会のイベントです。さすがに青年じゃないなとキャンセルしようかなと、さらによく読むと診断協会の会員なら誰でも参加OKと書いてあったのでそのまま参加。青年会主催なので若い参加者ばかりかいなと思ったらいつもの酒好きのシニア層が集まっていました。人のことはいえませんが(笑)

ずっと試飲会と思って参加したら日本酒の講義からスタート。講師は浅野日本酒店の浅野社長です。中小企業診断士で梅田、京都、三宮、浜松町、横浜の5店舗を運営しています。オイオイ、飲み会じゃないのと思ったら、後半は試飲会で風の森や3年物の古酒などけっこういただきました。満足!満足!

清風堂書店

猫

LEC梅田へ行く時、東梅田駅で降りて、まず目指すのは清風堂書店です。新刊書店ですが、棚が面白く大阪本を集めたコーナーや独特の選書をして、けっこう変わった本にお目にかかれます。

最近は「世界マヌケ反乱の手引書 増補版」と「大阪の街道を歩く」を買いました。創業1967年と60年ちかい老舗本屋で京都の寺町通にあった三月書房のような雰囲気ですね。この清風堂書店ですが2月28日で閉店するそうです。

理由は梅田セントラルビルの建て替えによる立ち退きで出版部門などは残るそうですが、あの本屋がなくなるのは残念。東梅田にあった旭屋書店ビルもなくなったし、対面にできたブックファーストもなく、あるのは地下街にある旭屋書店だけですが、あそこの品揃えはふつうの本屋だしね、ウーン。

東海道をゆく(逢坂関)

逢坂関

大津から山科に向かう坂が逢坂です。坂の名前の由来は日本書紀で、仲哀天皇の皇子だった忍熊皇子(おしくまのみこ)が武内宿禰と出合ったので逢坂なんだそうです。ほんまかいなあ、なんか会津の話とよく似ていますね。

仲哀天皇の奥さんだった神功皇后が筑紫で応神天皇を出産し、瀬戸内海から紀伊に向かいます。これを阻んだのが応神天皇の異母兄になる麛坂皇子と忍熊皇子で、結局は皇后軍の武内宿禰に敗れました。敗れたのが逢坂です。なんか神武天皇の東征のような話ですね。

この逢坂につくられたのが逢坂の関です。東海道、東山道(中山道)、北陸道が一つになって関を越えていました。古代は不破関(関ヶ原)、鈴鹿関、愛発関が三関でしたが、平安遷都にともなう防衛線再構築で逢坂関が設けられます。残念ながら遺構は残っていません。

東海道をゆく(逢坂山隧道)

逢坂山隧道

東海道本線を通すために大津から山科までトンネルが1880年(明治13年)につくられました。逢坂山隧道で外国人技師に頼らず日本人だけで完成させた山岳トンネルです。煉瓦作りで側壁はイギリス積みになっています。東海道(国道1号線)沿いにありますが、徒歩でないと行けないので観光客は誰もいませんね(笑)。

大津から京都までまっすぐに東海道を通すためには東山と逢坂山の2つのトンネルが必要で、当時の鉄道土木技術では一つしか無理でした。そこで逢坂山隧道をつくり、山科の追分から南西に山科盆地を下って東山を回り込み、伏見稲荷あたりから現在の奈良線に入って京都駅に至る迂回ルートとなりました。

悲願だった東山隧道もでき逢坂山隧道は1921(大正10)年の路線変更により廃線になるまでの約40年間、使われました。