東海道をゆく(逢坂山隧道)

逢坂山隧道

東海道本線を通すために大津から山科までトンネルが1880年(明治13年)につくられました。逢坂山隧道で外国人技師に頼らず日本人だけで完成させた山岳トンネルです。煉瓦作りで側壁はイギリス積みになっています。東海道(国道1号線)沿いにありますが、徒歩でないと行けないので観光客は誰もいませんね(笑)。

大津から京都までまっすぐに東海道を通すためには東山と逢坂山の2つのトンネルが必要で、当時の鉄道土木技術では一つしか無理でした。そこで逢坂山隧道をつくり、山科の追分から南西に山科盆地を下って東山を回り込み、伏見稲荷あたりから現在の奈良線に入って京都駅に至る迂回ルートとなりました。

悲願だった東山隧道もでき逢坂山隧道は1921(大正10)年の路線変更により廃線になるまでの約40年間、使われました。

東海道をゆく(蝉丸神社)

蝉丸神社

百人一首で有名な蝉丸。有名なのが「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」という句です。盲目で盲琵琶の名手というところから平家物語を語る琵琶法師の祖ともいわれています。

山科の四宮に住んだと言われており逢坂の関近くになります。亡くなってから関明神に合祀され、これが蝉丸神社になっています。逢坂の関に分社があり、他に上社と下社があります。まず下社に行ってきましたが、境内を京阪電車がぶったぎっていました。東海道沿いに灯篭や神社名の石碑があるんですが、境内に入ると、いきなり踏切になっています。ここは鎌倉の江ノ電かいなというような風情ですね。

下社の祭神は豊玉姫命ですので山幸彦、海幸彦ですねえ。

東海道をゆく(大津宿)

大津宿

江戸・日本橋と京の三条大橋を結ぶのが東海道です。江戸から京へ向かう時、最後の宿場(53番目)が大津宿でした。琵琶湖沿いに西に向かっていた東海道が南に90度曲がって坂を登ったところに2軒の本陣があり、本陣から見る琵琶湖が絶景だったようです。

江戸時代、大津と山科を結ぶ間に車石が敷かれ牛車の往来を助けていました。大津宿の碑の近くにもおかれていました。

日曜日に「坂の上の雲」が再放送されロシア皇帝ニコライ2世が登場しますが、皇太子時代に日本を訪れ斬りつけられ負傷した現場もすぐ近くにあります。いわゆる大津事件です。犯人である津田三蔵の墓は伊賀にあります。伊賀の寺町を歩いている時に見つけ、おおーこんなところにあるんだと驚きました。

確定申告

猫

支払調書も集まったので確定申告を開始。

E-Taxは毎年、バージョンアップされて使いやすくはなっていますが、やり方が毎年変わるので戸惑いますね。書類を片手に入力し昼過ぎから夕方までかかってようやく送信が終了!終わった!終わった!無事に2024年度の確定申告が終わりました。

まてよ消費税の申告もいるんだあ!
昨年度はインボイスがはじまった10月からの3ケ月分でよかったのですが、今年度は丸々一年分ですので2割特例といいながら、けっこうな金額に(泣)。

まあ払わんとあかんなあと、ペイジーでエイヤーと支払。これで全部、終わり!

近江安村城

近江安村城

伊勢遺跡をGoogleマップで見ると近くに近江安村城があることが分かり行ってみました。

と言っても城跡は何も残っておらず日吉神社あたりが水路に囲まれているので、堀跡の名残でしょう。平城で阿村集落にあり、阿村城とも呼ばれていました。江州佐々木南北諸士帳という近江守護だった佐々木氏時代の城名と城主一覧があり安村城には城主として安むら善兵衛の名前が記載されています。

近くには野尻城、下鈎城、上鈎城(鈎の陣で有名で土塁などが残っています)、勝部城などがありました。佐々木氏の本拠地だった観音寺山城が近くなので信長が足利義昭を奉じて上洛する時に佐々木氏(六角氏)が敗れたので、進路沿いにある近江安村城も攻められたか逃げたでしょう。

卑弥呼を擁立した伊勢遺跡

伊勢遺跡

「倭国乱れ、相攻伐して年をへたり。すなわち共に一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼といふ」有名な魏志倭人伝ですが、各国から王が集まり一女子を立てる話合いをした場所が伊勢遺跡ではないかと言われています。伊勢遺跡は突然、現れ、用が終わると消えます。その後に邪馬台国畿内説の有力候補である纏向遺跡ができます。

伊勢遺跡は滋賀県の栗東駅と守山駅の間の伊勢町にあります。昔、行った時は野原に立札ぐらいしかなかったのですが、ちょうど「伊勢遺跡と卑弥呼の共立」(吉川弘文館)を読んでいて遺跡公園として整備されているとあり、久しぶりに行ってきました。

見違えるように整備されていましたが、他に観光客がいません(笑)。遺構展示施設でマンツーマンで解説してもらい一人だけでビデオ上映してもらいました。

■弥生時代の国際会議場
伊勢遺跡は真ん中に方形の塀で囲まれた大型建物が並び、傍らに楼観があります。不思議なのは円周状に大型建物が並び、等間隔で真ん中の建物を取り囲んでいます。さながら真ん中が国際会議場で各国の大使館が取り巻いているようなイメージです。当時は通信が大変でしたので全権を委任された大使か王そのものが参画していたのでしょう。

久留倍官衙

久留倍官衙

久留倍官衙は「くるべかんが」とよみます。四日市市大矢知町の高台にあり、桑名での会議まで時間があったので、ついでに寄ってきました。近江と伊勢を結ぶ八風街道が近くを通っています。

官衙とは役所のことです。北勢バイパスの建設工事で遺跡が見つかり、バイパスはコースを変えて遺跡をまたぐ形に変更されて保存されました。久留倍官衙の最初は奈良時代で正殿や東門(八脚門)などの政庁が、東向きに建てられていました。一部が復元されていますが高台ですので四日市の街が展望できます。ただ政庁ではなく朝明駅ではないかとする説もあります。

久留倍官衙は長期にわたり使われたようで、壬申の乱では桑名へ向かう大海人皇子がこのあたりから伊勢神宮を遥拝して戦勝を祈ったともいわれています。また壬申の乱の道筋をなぞった聖武天皇の謎の行幸では頓宮が新しく造られたようです。遺跡は公園になっています。

支払調書

支払調書

各所から支払調書が届きます。そろそろ確定申告の準備をしないといけないなあ。

支払調書とは個人別に報酬、原稿料、講演料などの支払い状況をまとめ、税務署への提出が義務付けられている法定調書の一種です。税務署への提出は義務になっていますが支払った相手には別に送らなくても大丈夫です、まあ大概のところは送ってきます。

そういえば去年、合同会社を清算したけど4月まで役員報酬を出していたので税務署に支払調書を出す必要あるんだっけ?

さっそくググってみたら、清算結了後でも支払調書を出さないといけないそうで、提出しないと所得税法違反で1年以下の懲役または50万円以下の罰金と恐ろしいことが書いてあります。気づいてよかった。ちゃっちゃとE-Taxで提出しました。合同会社の清算っていろいろあるんですねえ。

天野酒

天野酒

高野山へ向かうには4つの街道がありました。一番長いのは京都の八幡が起点で生駒山の西を下る東高野街道です。また堺の大小路橋が起点の西高野街道、平野が起点の中高野街道、天王寺が起点の下高野街道があります。下高野街道と中高野街道は大阪狭山市で一本になり、河内長野で西高野街道と合流します。また河内長野駅近くで西高野街道と東高野街道が合流して高野街道の一本になります。

一本になった高野街道沿いに西條合資会社がありました。ここのお酒が天野酒で天野山金剛寺でつくられた中世のお酒です。途中で途切れたのですが復活されたお酒です。純米吟醸とにごり酒を買ってきましたが、すっきりした味でいけますねえ。

烏帽子形城

烏帽子形城

三日市町駅から汐の山城・仁王山城を目指すのに、結局は2つの山を登る羽目になったので帰りは河内長野駅を目指します。となると途中にあるのが烏帽子形城です。

結局は烏帽子形山に登って、久しぶりに城跡を見てきました。昔は小さな案内板しかなかったのですが、きれいに整備されていました。発掘調査も行われ主郭には瓦が使われた建物が2つあり、礎石が復元されていました。天守というものではありませんが、山城には珍しい建物ですね。

烏帽子形城は、それほど大きな山城ではないのですが、土塁と横堀の多くが効果的に配置された構造になっています。楠木正成が上赤坂城の支城として造ったという説があります。高野街道を見下ろす要所にあり、応仁・文明の乱では畠山義就と畠山政長の争奪戦の舞台ともなりました。秀吉の時代となり、紀州攻めの拠点として改築されましたので瓦付き建物はこの頃のもののようです。