福井城

福井城

柴田勝家の北ノ庄城のあとに入ったのが家康の次男である結城秀康です。

結城秀康は小牧・長久手の戦いで和睦の条件として、秀吉のもとへ人質として養子に出されます。やがて宇都宮の結城氏の養子となり関ケ原の戦いでは上杉景勝の江戸への南下を防ぐことになります。この戦功で北ノ庄を拝領することになり、北ノ庄を福居(福井)に改名して福井城を築城します。

久しぶりの福井城で廊下橋(屋根と壁の付いた橋)が復元されていました。和歌山城の廊下橋とよく似ています。本丸の石垣と堀が残っていますが、本丸には福井県庁などがあります。

北ノ庄城

北ノ庄城

福井駅の近くにあるのが北ノ庄城。このあたりが越前国足羽郡北ノ庄という地名でした。柴田勝家は一乗谷城の山城をやめて1575年(天正3年)に北ノ庄城を築城します。記録によれば天守は9重ということで巨大な建物でした。柴田勝家は秀吉と賤ヶ岳の戦いでぶつかりますが敗れ越前に向けて退却します。

小谷城の戦いで退却する朝倉義景を追撃した織田軍が佐久間信盛、柴田勝家、滝川一益、木下秀吉、丹羽長秀の面々、小谷城のちょっと北にあるのが賤ヶ岳です。朝倉義景と同じ北陸街道を追撃しますので柴田勝家、秀吉ともども朝倉義景の追撃戦を思い出したでしょう。

柴田勝家は北ノ庄城でお市とともに自刃。三姉妹は秀吉に預けられることになります。北ノ庄城は福井城ができる時に取り込まれてしまいましたが発掘調査で一部が残っています。

一乗谷駅

一乗谷駅

一乗谷駅から越美北線に。

越前の福井駅と美濃太田駅を結ぶ鉄道として越美線が計画されました。越美北線と越美南線ができましたが九頭竜湖駅と北濃駅との間が未成線となり、つながりませんでした。一度は越美北線に乗りたいなと思ってましたが、ようやく一部とはいえ実現しました。九頭竜線という愛称がつけられています。

車両は一両編成のディゼルカーで現金しか扱っていません。越前花堂駅からハピラインふくい線(昔の北陸線)に入って福井駅に入ります。福井駅では駅窓口で料金を払います。ただ本数が少なく福井行は2時間に1本です。午前は7:56発の次は12:15発でした(笑)一乗谷に行くには1時間に1本ほど出ている京福バスの方が便利です。

朝倉景鏡邸

朝倉景鏡邸

下城戸の近くに朝倉景鏡邸跡があります。朝倉館と同様に土塁と堀に囲まれた城郭建築になっていますが、堀は埋められ土塁はかなり低くなり野原です(笑)。こんな所を見学している人はまずおりません。

■義景を裏切った人物
朝倉景鏡という有名人の邸宅跡で、なんで有名かと言えば朝倉義景を裏切った武将として有名です。景鏡は朝倉一門ですが浅井長政を救援するための小谷城出兵を拒否します。結局、朝倉義景自らが小谷城へ出陣しますが、敗れてしまい、信長はそのまま追撃して越前まで侵攻してきます。景鏡は朝倉義景に一乗谷を逃れて越前大野での再起を進言します。朝倉義景は従いますが、実は裏切りで自刃に追い込まれます。

朝倉景鏡は信長に降伏し許され、信長の字を拝領して土橋信鏡と名乗るようになりますが越前一向一揆で戦死してしまいます。

武田勝頼が信長に攻められて滅ぶ時、小山田信茂が同じように裏切りますが、この時は不忠ということで処刑されてしまいます。この違いはなんなんでしょうね。朝倉景鏡は義景との関係が微妙だったので、信長とそれ以前から通じていたかもしれません。一乗谷は信長軍によって火をかけられ灰燼に帰します。

トイレ(一乗谷)

トイレ(一乗谷)

戦国時代、一乗谷には1万人ほどが100年にわたって生活していました。堺が3万人、信長の安土が6千人ほどからスタートして最盛期は1万5千人ほどでしたので、一乗谷は都会だったようです。往時の街並みの一部が発掘調査に基づいて復元されていました。

復興した戦国の街は周りに電線などがなく、よく映画やテレビのロケに使われています。城下町としてよく整備されていたようで、各家には井戸とともにトイレが完備されていました。トイレは穴を掘ったボットン便所で、堆肥に使っていました。発掘調査で和式トイレにある金隠しが発見されたためトイレと判明しました。また火縄銃の部品や坩堝、弾丸なども見つかり城下町には鉄砲工房もあったようです。

朝倉館

朝倉館

一乗谷の中心部にあるのが朝倉館。入口の唐門が写真映えするので観光客は唐門ばかり撮影しています。朝倉館は完璧に城郭仕様になっています。特に南西の土塁は広く櫓がおかれていたようです。館の裏側にまで登りましたが、深い堀が続いていて防御は完璧ですね。

■足利義昭 元服の舞台
ここに最後の当主になった朝倉義景が住んでいました。三好衆から逃れてきた足利義秋(還俗し逃亡中)を迎え、朝倉義景がここで烏帽子役となり元服を行い、足利義昭と名乗るようになります。

足利義昭は3年間、滞在しますが織田信長に乗り換えることになります。一乗谷は安波賀の港から三国湊につながっていたので交易品もよく入っていました。館跡からはガラス容器(ベネチアングラス)などが発掘されていますので、朝倉義景も信長のようにワインを楽しんでいたかもしれません。

上城戸

上城戸

下城戸と対になるのが南を守る上城戸です。下城戸と上城戸ではさまれた地域が一乗谷になります。上城戸は土塁と堀で構成され、土塁の長さは100mを超え、高さは5mあります。大宰府を守る水城のような感じですね。賤ヶ岳の合戦で秀吉が作った東野山砦から堂木山砦まで結んだ土塁もこんな感じだったのでしょう。

上城戸の山側には平坦地が作られ櫓があったようです。あとで確かめると上城戸の外側に美濃から逃れてきた斎藤龍興や近江の浅井氏などの有力武将の屋敷もあったようです。その先には足利義昭が滞在した安養寺跡もありました。上城戸でUターンしたんですが、もうちょっと先まで足をのばせばよかったなあ。

下城戸

下城戸

いよいよ一乗谷へ

入口は下城戸です。安波賀から一乗谷に入るところが最も狭まっていて、ここに造られたのが下城戸です。土塁は山裾の川まで続いており、北側には幅10mほどの堀があり、一乗谷に入るには下城戸を突破するしかありません。枡形になっていて防御は完璧です。

朝倉宗滴邸

朝倉宗滴邸

朝倉宗滴という人物がいます。朝倉家の歴代当主を支えた歴戦の勇士でゲーム「信長の野望」にも登場します。

朝倉宗滴話記で有名です、数多くの戦闘体験をもとにした教訓で戦国武将の心得がよく説かれています。例えば、名将とはいちど大敗北を喫した者だという言葉があり、失敗した大将は、反省し、作戦の立て方を練り直すことで磨かれるといった意味です。朝倉宗滴自身は自分は勝ち戦ばかりで敗けなかったので名将になれなかったと謙虚なのかマウントをとっているのか、よく分からないことも言っています。「武者は犬とも言え、畜生とも言え、勝つことが本にて候」、どんな手段を使っても勝たなくてはいけないとも言っています。

一乗谷入口が安波賀という港になっていて、ここに朝倉宗滴邸があります。越美北線沿いにあり、近くの西山光照寺跡は案内板がありますが、こちらは何もありません。Googleマップは優秀でちゃんと表示され、三方を土塁で囲まれた区画が邸宅跡でした。

京都バスが福井を走っている

福井駅

福井駅に降り立ち、びっくりするのが動く恐竜ではなくバスロータリに並ぶバスです。「なんで京都バスが福井を走っているの!」と思ったら京福バスという名前でした。

京都バスとまったく同じカラーになっています。調べてみると京都バス、京福バスとも京福グループであり、経営不振など紆余曲折があって京阪グループ傘下になっています。嵐電や叡電という京福電鉄も走っていますね。

■京福になったワケ
京都と福井を結ぶ鉄道計画があったのではなく、京都は祇園を始め夜間の電力需要が多く、福井は織物工場が稼動する昼間の電力需要が多いため、互いの電力を融通するために「京福送電線」が作られたところから京福になったそうです。