
気賀駅から豊田に向かうには遠鉄バスで浜松駅へ出るか、天浜線(天竜浜名湖鉄道)で東海道線の新所原駅に出るしかありません。ということで天浜線に乗ることに遠鉄バスもそうですがICカードが使えずに現金決済です。
天浜線は掛川駅~新所原駅を結ぶ路線で気賀駅を出ると浜名湖のすぐ横を進んでいきます。一両編成で帰宅する学生が多いですね。浜名湖の対岸が見えますが、けっこう切り立っていて三方ヶ原の高台を実感できます。
気賀駅から豊田に向かうには遠鉄バスで浜松駅へ出るか、天浜線(天竜浜名湖鉄道)で東海道線の新所原駅に出るしかありません。ということで天浜線に乗ることに遠鉄バスもそうですがICカードが使えずに現金決済です。
天浜線は掛川駅~新所原駅を結ぶ路線で気賀駅を出ると浜名湖のすぐ横を進んでいきます。一両編成で帰宅する学生が多いですね。浜名湖の対岸が見えますが、けっこう切り立っていて三方ヶ原の高台を実感できます。
井伊谷の目的地はもちろん井伊谷城です。大河ドラマでも井伊直虎などが井伊谷城から井伊谷を一望するシーンがでてきます。
井伊谷城がある山は、そう高い山ではないので麓から15分ほど登ると城跡につきます。井伊谷城はけっこう単純な縄張りで土塁がある主郭と帯郭で構成されています。戦国時代に改修されることがなかったんですね。すぐ眼下に井伊家の屋敷があったはずですが、今は住宅地になっています。
井伊谷城を造ったのは井伊家初代の井伊共保といわれています。そう井伊の旗印になった井戸の人物です。屋敷のすぐ裏山が井伊谷城で、詰め城になっています。
万博へ行ってきました!
といっても55年前に開催されたエキスポ70の方です。ファイティング・コンサルタンツの集まりで千里中央駅に集合。百番でランチ&ビールの後、モノレールで万博記念公園駅へ。モノレールはけっこう混んでいて、ニフレルへ行く客が多いのかなと思ったら万博記念公園で焼物市が行われていました。太陽の塔からミンパク(国立民族学博物館)を巡って、疲れてきたので途中のピザ屋でビール!
少し歩くとEXPO’70 パビリオンがあります。前回の万博の鉄鋼館が残っていて当時の万博の様子が展示されています。どでかい太陽の塔の頂部に設置されていた「黄金の顔」を見てきました。モノレールで千里中央に戻り、ランチに行った百番で宴会!店の人に「お昼にもきましたね」と言われてしまいました。
大河ドラマ「おんな城主 直虎」でよく出てきた龍潭寺です。住職の南渓和尚(小林薫)が直虎(柴咲コウ)を小さな時から支えていました。井伊家の菩提寺だったので元祖から井伊直政までの墓が境内にあります。後に彦根に移りましたので井伊家の墓は彦根市の清凉寺、近江市の永源寺、また東京都世田谷区の豪徳寺(招き猫で有名)の三箇所にあります。
■南北朝の舞台 井伊谷宮
龍潭寺の横にあるのが井伊谷宮で宗良親王(むねながしんのう)を祀っています。宗良親王は後醍醐天皇の皇子ですが、皇子といいながら戦の最前線にいました。南朝が落ち目になった時、伊勢から陸奥へ船で目指しますが、暴風雨で遠江に漂着し、井伊を頼ります。やがて井伊が北朝に攻められると信濃に移ります。
「おんな城主 直虎」では今川氏から派遣された検地奉行(木村祐一)が隠田(年貢の徴収を免れるために密かに耕作している水田)を見つけた時に「ここはかつて、南朝の御子様が隠れてお住まいになられていた里でございます。故に、井伊の領地にありながら、井伊の領地にあらずという扱いでございます」と返答するシーンがでてきました。「おお!宗良親王のことじゃないか!」とドラマを見ながら感激したものです。
浜松駅から三方ヶ原を横断し、気賀へ行った目的はもちろん井伊谷です!
気賀駅でレンターサイクルを借て20分ほど走れば井伊谷へ到着。大河ドラマ「井伊直虎」の舞台で、彦根藩・井伊家の故郷ですね。彦根藩といえば「井」と書かれた真っ赤な旗印が有名ですが、旗印のもとになったのが
井伊谷にある井戸の井桁です。井伊家初代が生まれたといわれる井戸で、井伊谷に移った時に本貫として井伊と名乗るようになりました。
井伊家は徳川四天王である井伊直政の時に彦根に移りますが、井伊家の聖地として彦根藩主が繰り返し井伊谷の井戸を整備し、今に残っています。大河ドラマでは山の中にある雰囲気ですが、田んぼの中にポツンとあります。
東海道は海岸沿いを進みますが、浜名湖が1498年の明応地震で外海とつながってしまいましたので「今切の渡し」を船で渡らないといけません。「今切の渡し」近くには新居関所がつくられました。
「今切の渡し」を避ける浜名湖を大回りする本坂通(ほんさかどおり)があります。女性や大名の利用が多かったことから姫街道とも呼ばれています。こちらには気賀関所ができ冠木門などが復元されています。ただし本来の場所ではなく実際にあったのは気賀宿の東側でした。1729年に清国の商人が京都で天皇に象を見せ、江戸の吉宗に見せる途中に気賀宿に宿泊しましたが大騒ぎだったのでしょうね。
浜松城の隣にある浜松市役所へ行くとロビーにエヴァンゲリオンの立像が立ってました。めちゃくちゃでかい!
シン・エヴァンゲリオン劇場版に登場する「第3村」のモデルが天竜二俣駅(信玄が攻めた二俣城跡があるところだあ!)なんだそうで、シン・ハママツ計画という遠州鉄道や天竜浜名湖鉄道を巻き込んだイベントを来年2月末までやるそうです。そういえば、浜松城にもパネルが展示されていました。
せっかく浜松まで行ったので有名な三方ヶ原の合戦の舞台へ。調べると浜松駅から気賀駅前まで遠州バスが出ていて姫街道を通り、三方ヶ原を突っ切っていきます。
■三方ヶ原の戦い
家康が信玄に大敗した戦です。浜松城を無視して三方ヶ原に向かう信玄に、このままでは武門の名折れになると家康が攻撃したという通説がありますが、最近の説では信玄は三方ヶ原から堀江城の攻撃にすすんだことが原因のようです。堀江城は浜名湖の水運を支配する拠点で、ここを抑えられると物流がとめられ浜松城での籠城ができなくなります。家康は止めざるを得ませんから攻撃をしかけますが散々にやられます。ただ敗北が決定した頃には夜になっていたため地の利がある徳川側が逃げられました。
■住宅地の三方ヶ原
三方ヶ原というと草原が拡がる台地イメージだったのですが、遠州バスが走るのは住宅地のなかです。家康軍が最後に一矢報いた犀ヶ崖や銭取(無銭飲食した家康から老婆が金をとったところ)というバス停を通っていきますが、往時の雰囲気はどこにもないですね。ただ姫街道の街道脇には松並木が続いていました。
浜松城は三方原台地の東縁にあたる段丘を利用した平山城で、浜松駅から少し登ったところにあります浜松城の二の丸から少し離れた南側を守るために出丸がありました。現在は浜松市中央図書館になっていて、階段脇に、出城跡の石碑が建っています。見上げるとけっこうな高低差があります。この出丸は家康の伝記「武徳編年集成」に書かれている鳥居曲輪とみられています。鳥居とは鳥居元忠のことで家康が浜松城に在城した時に曲輪に屋敷をかまえ守備していたようです。
鳥居元忠は超有名人で、家康が大坂から会津征伐に向かう途中、伏見城の守備をまかせた鳥居元忠と酒を酌み交わすシーンは必ず映画やドラマで出てきます。「どうする家康」では音尾琢真さんが鳥居元忠を演じていて、武田の間者だった千代ともども伏見城落城で散っていくシーンが描かれていました。
お仕事のついでに久しぶりに浜松城に寄ってきました。
もともとは曳馬城と呼んでいましたが、馬を引くのは敗北につながるので、家康は浜松城に名前を変え城を拡張していきます。もともとの曳馬城は今は城横の東照宮になっています。発掘調査が進んでおり、天守の前にある天守門が復元され、中にも入れました。本丸が整備されていて、古い野面積みの石垣を見ることができるのがいいですね。
家康は武田信玄の侵攻に備えるため、岡崎から東側の浜松に移し、岡崎は嫡男・信康が預かることになります。