雪の談山神社

談山神社

天気がよさそうなので、未踏の北山城(多武峰城塞群の一つ)を目指すことに、まずはベースになる談山神社を目指します。桜井駅からバスで深い山に入っていくと、あたりは雪だらけ。昨日、積もったんですね。十三重塔など社殿は雪だらけ。

晴れているので木の枝に積もった雪がボコボコと爆弾のように落ちてきます。

太田城

太田城

丸勘城から山裾を進んでいくと太田集落に城があります。尾根の先端に作られたなかなか規模の大きな城でした。事前に調べると太田城へ行くには王田神社を目指せと書いてあるんですが、神社への急な階段は崩落していて通行止めになっていました。脇に道があったので登っていくと、これが堀道になっていてようやく郭に到達。堀切で遮断された郭が続きます。王田神社も高台にあり出城になっているようです。

城を堪能した後に、近くに別の城があるということで池横をずっと進んでいきます。隣の尾根先の春日社にも城があり、郭が連続していました。春日社が主郭で一城別郭になっているようです。それにしても大きな城ですねえ。城主は地元の松井氏といわれていますが詳しいことは分かっていません。明智光秀の丹波攻略では光秀に従ったようで本能寺の変の後に帰農したようです。

丸勘城

丸勘城

亀岡市稗田野町鹿谷(ろくや)に丸勘城という平山城があります。別名を鹿谷城ともいいます。北面の武士だった竹岡氏が野武士となり、南北朝時代には丸勘城に移り住んだようです。八木城の南側を守る位置にあり明智光秀の丹波攻略で落城します。

丸ヶ条集落の小高い丘に築かれていて、とても分かりにくい民家の間の細道を登っていくと小さな祠があり、ここが郭になっています。虎口があり、ここから主郭に入ることができます。主郭はけっこうな広さで周りを帯郭が巡っていました。あまり技巧的ではなく、縄張りはわりと単純ですが、集落の中によく残っています。

井内城

井内城

湯の花温泉の峠を越えて今度は下っていきます。目指すは井内城です。城への行き方を事前に調べると372号線から小道に入ってしばらく行ったところに獣害防止フェンスの入口があると記載がありました。

着いてからいろいろと探しますが、なかなか見つかりません。ようやく見つけたのがビニールテープで結んだ簡易的な入口です。こりゃ、分かりませんでえ!とりあえずテープをはずして中に入り、もう一度結び治します。なんとかフェンスの中に入れましたが、その先はいきなり崖になっています。

■井内城
もともとの城の虎口は山の反対側にあり、こちらは一番高い主郭になっています。何とかよじ登り始めると竪堀に入れました。あとは竪堀に沿って登っていくと、主郭に到達します。主郭はなかなか広く、主格から4つの郭が連続していて、土塁や堀跡がしっかり残っていました。

今は藪だらけで外が見えませんが篠山街道を見張るには最適な城でした。もともとはこのあたりの豪族だった井内氏の居城だったようです。明智光秀による丹波攻めで天正6年に攻め落とされました。

篠山街道(湯の花温泉)

湯の花温泉

亀岡駅を降りて井内城を目指します。けっこう距離があるので事前にバスの時間を調べると9時15分に出るバスがありました。ところが亀岡駅を降りるとバスがいない。よく見ると9時15分発は平日ダイヤで土日はほぼ2時間に1本でした。次のバスまで1時間以上あるので、待つのも面倒だしと歩き始めます。城は篠山街道沿いにあるので、ひたすら篠山街道を歩きます。

篠山街道は山陰と亀岡で分かれ篠山を通って矢名瀬で再び山陰道に合流するまでの約90kmの街道です。明智光秀が八上城など丹波平定をするために使った街道でもあります。Googleマップを見ながら篠山街道を進んでいきますが、途中で372号線を通るコースと篠山街道をそのまま進むコースに分離します。そのまま街道を進んだ方が距離が短いなと判断したのが運の尽き、だんだんと坂道を登ることになります。

そして現れたのが湯の花温泉です。昔、泊まりに行った時に、えらい山の上だなと思ったのを思い出しました。今さら遅いですね(笑)。結局、峠越えをして372号線と合流しました。

大和谷城

大和谷城

「櫻の井」がある若桜神社ですが、ここが城跡になっています。桜井駅から近いので時間があると寄っています。社殿の周りを土塁が巡り特に西側の土塁が見事です。西側と南側には堀切もあり市街地で城跡が楽しめるのがいいですねえ。東側は神社への階段などがつくられているので、こちらの遺構は残っていません。谷氏という武士がいたようで、この谷氏の城といわれています。

お水取り

奈良に春の訪れを告げる「お水取り」です。

お水取り

■お水取りとは
3月12日深夜に二月堂の前にある閼加井屋(あかいや)に水を汲みにいくことから「お水取り」と呼ばれるようになります。この水は若狭国から10日かけて地下を通ってやってきます。「お水取り」は修二会(しゅにえ)という不退の行法で3月1日から14日まで行われます。修二会が始まったのは大仏開眼の年である天平勝宝4年(752年)。不退の行法ですので以来、途絶えることなく続き今年は1274回目になります。

修行を行うのは11人の僧侶で練行衆と呼ばれます。以前、NHKが練行衆の修行に密着した番組を放映していましたが深夜まで五体投地などすさまじい行法をやっていました。有名な火の松明は練行衆が二月堂に登廊を登る時の道明かりです。これが江戸時代ぐらいから大きくなり練行衆を先導する童子の見せ場としてパーフォーマンスされることになります。

■スケジュール
練行衆登壇の30分前になると二月堂付近の木々などに消防ホースで大量の水が掛けられます。20分前になると修二会の解説があり、その後に英語、中国語による短めの解説があります。ハングルはないんですねえ。直前になると付近のライトが消え、真っ暗な中、鐘が響き、二月堂への長い回廊を大きな火の松明に導かれて練行衆が登廊していきます。

いよいよ童子が火の松明を振り回しますが、その前に大きな木を打ちつける音がします。内陣に入る前に練行衆が木沓にはきかえ、礼堂の床を踏みならす儀式で、これを合図にテレビでよく見る松明の行事が始まります。松明自体は20分ほどで終わりますが、練行衆は夜明け前まで修行を続けます。

帰りは観客が一斉に移動するので、なかなか大変です。南大門を通らずに横に抜ける道で奈良駅を目指すと早く帰れます。

磐余若桜宮

磐余若桜宮

上之宮遺跡から下っていき桜井駅が近づいてくると稚櫻神社があり、ここが第17代履中天皇の磐余若桜宮(いわれわかざくらのみや)比定地です。

境内には桜井の名前の元になった「櫻の井」という井戸もあります。日本書紀によると履中天皇は磐余池を造り、船遊びをした時に杯に季節はずれの桜の花びらが舞い落ちたことから、磐余稚桜宮としたとされています。ところが磐余池がどうもずっと西にある東池尻・池之内遺跡(中ツ道沿いにあります)だったようですので、近くにある磐余稚桜神社が磐余若桜宮のようです。こっちも高台になっています。

上之宮遺跡

多武峰街道を少しはずれて上之宮遺跡へ

上之宮遺跡

河岸段丘の上ですので高台になっていて住宅地の真ん中に公園があります。このあたりから6世紀末ぐらいにつくられた大きな邸宅跡が見つかりました。邸宅だけでなく庭園も整備されていて石組みによる園池遺構が見つかり復元されています。水の祭祀場遺構という説もあります。

■聖徳太子の上宮?
遺跡が見つかった時、大騒ぎになったのが聖徳太子の上宮(かみつみや)ではないかという報道です。聖徳太子が幼少の頃、磐余(いわれ)に住んでいました。宮殿は上宮と呼ばれ、聖徳太子は上宮厩戸豊聰耳太子と呼ばれていました。日本書紀によると斑鳩に移るまで住んでいたようで、父である用明天皇の磐余池辺犨槻宮の南に上宮があったということです。

磐余池辺犨槻宮の伝承地が2つあり、1つが石寸山口神社周辺で、もう一つが吉備春日神社です。これなら上之宮遺跡が南側にあるので上宮の可能性が高くなります。ところが2011年に人工池の堤跡などが発見され、これが磐余池ではないかといわれています。伝承地のずっと西にあります。こうなると上之宮遺跡は東南になりますので、このあたりを拠点にした安倍氏関係かもしれません。

熊野街道の起点

熊野街道

渡辺津から熊野三山を目指すのが熊野街道です。

江戸時代、渡辺津には八軒の宿があり八軒家浜と呼ばれていました。今の天満橋で大川を遊覧する船が発着する川の駅「はちけんや」が整備されています。江戸時代はここから伏見まで船運で結んでいて東海道を行き来する旅人が使っていました。坂本龍馬なども伏見との行きかいに使っていました。ちなみに大川は仁徳天皇がつくった難波の堀江(つまり運河)ではないかと言われています。

渡辺津をあがると上町大地の坂を登り熊野街道がスタートします。坐摩神社・元宮には窪津王子がありました。王子とは熊野古道沿いに在する神社で九十九王子あります。1番目の王子になるのが窪津王子です。