住宅地に長岡京に大極殿跡などが点在しています。平城京から長岡京へ遷都したのは歴史で習った桓武天皇です。
■桓武天皇
桓武天皇は本来は天皇になる予定ではなかったのですが藤原氏の内紛から藤川百川によって帝位につくことにりました。母(高野新笠)の出自が低いことがコンプレックスだったようで、枚方の近くの交野(かたの)をしばしば訪れています。交野は母にゆかりがある百済王氏(くだらのこにきし)の本拠地でした。ここで中国の皇帝が行っていた行事を行います。神武天皇が鳥見山で行って以来の儀式でコンプレックスをなんとかしたかったのでしょう。
■長岡京
延暦3年(784)年に長岡京に遷都します。前年に和気清麻呂を摂津大夫に任命し難波京の解体を始め、淀川を使って運びます。長岡京は後期難波京とをそのまま移したため同じ8堂になりました。平城京の仏教界は遷都に大反対。いろいろ確執があったところに発生したのが造営の指揮をとっていた藤原種継暗殺事件。関係者として早良親王が浮かび、皆さんよくご存じの「陰陽師」につながっていきます。
■伊勢神宮
桓武天皇は皇太子時代に伊勢神宮に参拝しています。紀作良(きのつくら)に命じ、延暦4年に斎宮を造営します。また桓武天皇の時代から「紙幣禁断の制」となり、個人的に参拝祈願すると遠流(島流し)に相当する重罪でした。
■武士の時代へ
桓武天皇は常備軍を持とうと健児の制(こんでいのせい)を始めましたがコストがかかりすぎて、結局は武士に丸投げ。昔は大王自体が戦いましたが、桓武天皇の時代から部下を征夷大将軍に任じ、刀を持たずに汚れ仕事を武士に任せるようになります。最初は命令すればよかったのが武士が力を持ち始め平治の乱あたりから貴族が恐れる存在となります。