上ツ道をゆく(1) 箸墓

箸墓

藤原京から平城京を結ぶ下ツ道、中ツ道、上ツ道があり、一番東側にある南北道が上ツ道です。さらに東側に日本最古の道である山の辺の道があります。3つの道の間隔は2118メートルで当時使われていた高麗尺でちょうど6000尺(1000歩)です。上ツ道では途中に箸墓古墳があり迂回しています。迂回するのは分かっていましたが1000歩にこだわったようです。

箸墓は最古級の前方後円墳で邪馬台国説がある纏向遺跡にあるので卑弥呼の墓ではないのかと言われています。神聖(女王)と執政(男王)の祭政分離体制だったようで桜井茶臼山古墳が卑弥呼時代の男王の墓ではという説もあります。ちなみに卑弥呼の後を継いだ台与の墓が西殿塚ではという説があります。

■箸墓の戦い
壬申の乱では近江朝廷軍を大海人皇子軍が、箸墓一帯で迎え撃ち勝利をおさめました。迎え撃ったのは大神高市麻呂と置始連菟です。この大神高市麻呂ですが気骨があった人物のようで持統天皇の時代、伊勢行幸しようとした天皇に対して田植えの時期の行幸は民に迷惑を与えると諫言しましたが、聞き入れられず職を辞しました。

大神高市麻呂ですが住んでいた邸宅と勤務地が両方とも発掘で確かめられて分かっているという珍しい人物です。邸宅は現在の三輪神社の摂社でした、勤務地が左京職で、今は奈良文化財研究所都城発掘調査部のある所になります。

忠臣蔵の決算書

忠臣蔵

12月14日といえば忠臣蔵ですねえ。大石内蔵助ら47士が吉良邸に討入します。

大学で会計の話をした時、題材として忠臣蔵の「預置候(あずかりおきそうろう)金銀請払帳(きんぎんうけはらいちょう)」の話をしたんですが、学生から「忠臣蔵って何ですか?」とそもそもの話が(笑)

映画「国宝」で歌舞伎が盛り上がっているんじゃないの?忠臣蔵は歌舞伎の有名な演目でっせえ!こないだ西国街道歩いて早野勘平の旧家もみてきましたでえ!(モノレール箕面萱野駅近く)

■忠臣蔵の決算書
預置候金銀請払帳は討入までの収支決算書で、討入前日に浅野内匠頭の正室(妻)の瑤泉院に提出します。有名な南部坂雪の別れですねえ。学生の誰もが知りませんでした(笑)赤穂城を受け渡した後の残金が700両(8千4百万円)あり、これで浪士が上方と江戸を往復する旅費、武具購入などにあてます。大石内蔵助といえば目くらましのために祇園で遊興していましたが、あの遊興費は自費です。「忠臣蔵の決算書」(新潮新書)としてまとまっています。

別に記録をみると大石内蔵助は吉良邸の外に医者を待機させて、簡易救護所まで用意していたそうで用意周到ですねえ。

それ以来、若い世代の参加者が多いセミナーなどでは、忠臣蔵はカットするようにしています。

訳語田幸玉宮(おさださちたまんみや)

訳語田幸玉宮(おさださちたまんみや)

桜井に戒重(かいじゅう)という地域があります。敏達天皇の訳語田幸玉宮(おさださちたまんみや)があったと伝わっています。敏達天皇は欽明天皇の皇子で、物部尾輿、蘇我稲目が活躍した時代です。

欽明天皇が百済の聖明王から仏像と経典を受け取り、蘇我稲目が祭ることになりました。その後、廃仏派の物部尾輿と崇仏派の蘇我稲目の対立しますが、ちょうど疫病が流行したため仏を祭ったからだと物部尾輿が敏達天皇に働きかけ、仏教禁止令を出させて豊浦寺(向原寺)を燃やします。

■善光寺
仏像は難波の堀江に捨てられたのですが飛鳥から、わざわざ難波に仏像を運んで大川にまで捨てにいったんですかねえ。豊浦寺の前に池があるので、こちらに捨てたという説もあります。この仏像を拾い上げたのが本田善光で、信濃の家に持って帰って、おれが善光寺になりました。

敏達天皇はこれが心労になったのか病で亡くなり、仏教問題は次世代に引き継がれます。厩戸皇子(聖徳太子)のお父さんである用明天皇が即位し、蘇我馬子らが物部守屋を滅ぼします。実際はそんな単純な話ではなく半島情勢なども大いに影響していたのでしょう。

大和三山をゆく(6) 耳成山(天神山城)

耳成山(天神山城)

大和八木駅近くにあり大和三山で一番きれいな円錐形をしています。なんで大和三山のハイキングにつきあったかと言えば耳成山の頂上が山城跡なんです(笑)。最後に山城が待っているなんて素敵じゃないですか。

中大兄皇子と鎌足が密談した談山神社が有名ですが、平安末期頃から多武峰一帯に城が築かれて多武峰城塞群ができあがります。大和の国は僧兵(衆徒)をかかえた興福寺が支配し、守護がいない特異な地域でした。ところが衆徒(国人)の間で戦ったりする割には外部からの侵入があると一致団結したりします。

■天神山城
永正3年(1506年)に室町幕府に派遣された赤沢朝経が多武峰城塞群、龍王山城、二上山城にたてこもった大和衆を攻撃するために築いた陣城が天神山城です。頂上ちかくに耳成山口神社があり、ここから登っていくと城跡で
耳成山の頂上が主郭となり、周りを郭が取り囲んでいます。ハイキング客も多いのですが、城跡だと思ってみている人は一人もいませんね。

めざせ!中小企業診断士

めざせ!中小企業診断士

お昼休みに紀伊國屋書店 本町店へ行くと平積みされていました。

「めざせ! 中小企業診断士 合格したら人生が変わった17人の物語/体験記」(同友館)

企業内中小診断士9名、独立中小企業診断士8名が、「中小診断士をめざした動機」「中小診断士試験の学習法・合格法」「合格後の中小企業診断士としての生活(3年、5年、10年)」を語っています。
第1章 中小企業診断士という資格
第2章 資格取得に向けた学習戦略とモチベーション
第3章 診断士取得後の人生(企業内診断士編)
第4章 診断士取得後の人生(独立診断士編)
第5章 資格を活用するために大切にしてほしいこと
第6章 中小企業診断士をめざすあなたに
※定価2,200円(税込)ですが著者割引、1,600円(税込+送料込み)でも販売しますので、ご希望があれば、ご連絡ください。

大和三山をゆく(5) 天の香具山

國常立神社

標高は152.4メートルで登りやすい山です。神武東征では大和に入る前に、この山の土で土器を作り天津神を祀ったことから大和平定できたと言われ呪術的な山になっています。有名なのが持統天皇の「春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天香具山」ですね。

中ツ道はこの香具山山頂を起点にしており、山頂には天地開闢の際に出現した最初の神をまつる國常立(くにとこたち)神社があります。あまり眺望はよくありませんが、木々の間からちょこっと大和の街が見えるぐらいです。

天香山命(あめのかぐやまのみこと)という神さまが神武天皇が危機の時に布都御魂という刀を渡して助けます。布都御魂は石上神宮のご神体になっています。この天香山命は尾張氏の先祖で壬申の乱では大海人皇子に味方し、継体天皇の奥さんも尾張氏で熱田神宮の横にある断夫山古墳はこの奥さんのお墓という説があります。

大和三山をゆく(4) 紀寺跡

紀寺跡

本薬師寺跡から東へ向かうと香具山の麓に紀寺跡があります。紀とついているので紀氏の氏寺と考えられています。紀氏は生駒郡平群町にあった紀里出身の古代豪族で紀氏の有名人といえば古今和歌集や土佐日記で有名な紀貫之ですね。

紀寺のある場所は藤原京の左京8条2坊全域(4町)で発掘調査で金堂跡、講堂跡、回廊および南門跡が見つかり、南門・中門・金堂・講堂が一直線に並んでいました。四天王寺式の伽藍配置ですが、実際に本当の紀寺かどうかはよく分かっていません。

平城遷都で移転し、元興寺の南にある璉珹寺が紀寺跡と言われていますが、こっちも本当かどうかわかっていません。

大和三山をゆく(3) 本薬師寺跡

本薬師寺

畝傍山から香具山を目指して東へ。途中にあるのが本薬師寺跡です。といっても跡地が拡がっているだけです。東西に2つの塔があり、金堂がある薬師寺と同じ伽藍になっています。平城京への遷都で西の京へ移築され薬師寺になったと言われていましたが、そうとも言えるし新たに西の京で薬師寺が作られた痕跡もあり、移設したのか別に作られたのか、よう分かっていません。ただ西の京の薬師寺と区別するために本薬師寺と呼ばれています。

金堂があった場所には小堂が建っていて、その前に金堂の礎石などが並べられています。塔の向こう側に畝傍山をみることができます。

大和三山をゆく(2) 畝傍山

畝傍山

橿原神宮から畝傍山に登る登山道があります。畝傍山の標高は198.8メートルで大和三山では一番高いのですが、山頂の眺望はそんなによくありませんが、木々の間から天香久山や耳成山が見られます。畝傍とは「火がうねる」の意味からきており古代から火山だと分かっていたようです。

帰りは山頂から違う道を降りることに、途中の分岐があり、そうそう以前に登った時は左を選んでしまい、えらい急坂を降りることになって最後は道なき道を行くことになったところです。今回は学習済ですので右を選んで無事に下山できました。

ロンドクレアント

湖の響 kayo書道展

以前に勤務していた関西文理学園の同窓会で書をやっている人から個展の案内をもらったのですが、会場がなんと北白川にあるロンドクレアント!梅棹忠夫先生の旧宅ですね。知的生産の技術研究会にとっては聖地のような場所です。

ということで朝から北白川へ出かけて「湖の響 Kayo書道展」(明日7日までやってます)を見てきました。自分が書いた文字も読めない人間にとっては、きれいな字というのはあこがれですね。

■梅棹サロン

ロンドクレアントはエスペラント語で、ロンドは「集まり」、クレアントは「創造者」の意味です。ここは毎週金曜日になると作家の小松左京さんら親しい仲間や若手研究者、学生らを自宅に集めて議論。時には白熱し飲み明かすこともあり、梅棹サロンと呼ばれていました。

もともとは本多勝一さんたちが京大に探検部をつくった頃、探検部の学生が梅棹先生の自宅にしょっちゅうおじゃましていたことがきっかけです。そこで金曜日の夜に自宅を開放し、誰でも訪ねてきてもいいようにと「梅棹サロン」をはじめました。時代を牽引する行動派知的クリエイターたちの梁山泊となっていきます。