
今日はスーパームーン。
月で思い出すのはセーラームーン、山中鹿之助、そして「かぐや姫」。
かぐや姫に求婚した五人の公達に、「かぐや姫」は無理難題な宿題を課し、それぞれ大変な目にあいます。
公達の名前は石作皇子、車持皇子、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂で、このうち、阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂は実在の人物。石作皇子は石作氏と同族だった多治比嶋と言われています。
車持皇子は藤原不比等で、母方の名前が「車持」でした。車持皇子に「かぐや姫」が与えたミッションは「蓬莱の玉の枝」。車持皇子は偽物を作りますが、報酬を支払われていない職人たちがやってきて偽物と発覚します。
誰が竹取物語を書いたかは分かりませんが、朝廷を席巻していた藤原氏を快く思っていなかった反体制派でしょう。土佐日記を書いた紀貫之という説もあります。
「がくや姫、(藤原氏が席巻する)穢れた所【地上】から月へ戻りましょう」という台詞も出てきます。さあて、「かぐや姫」が帰った月でも眺めますか。
投稿者: mizutani
月の土地

今夜は中秋の名月。
明日はスーパームーンなんだそうで、そういえば我が家には月に土地があります。本当の話です。(笑)
アメリカには面白いビジネスを考える会社があり、月の土地の権利書を販売しています。インターネットの懸賞か何かで当選し、ゲットしました。しっかりとした包装で権利書が送られてきました。
小さな赤い点がついている所が我が家の土地で、住所は「AREA J-5/Quadrant Bravo Trot
」という区画。広さは1エーカー(約1200坪)でサッカーグランド1個分ぐらいですね。
もっとも営利を目的とした月の開発・利用を禁じた月条約なるものがあるので、別荘を建てるぐらいしかできなさそうです。20年ぐらいしたら現地集合でパーティをしたいと思いますので、皆さんぜひお越しください。
9年で消えた大仏鉄道

関西本線に乗るために加茂駅へ行ったら、構内に大仏鉄道の案内コーナーがありました。廃線跡がハイキングコースになっています。
大仏鉄道とは明治31年に加茂駅~大仏駅で開業した路線で、名古屋から伸ばしてきた関西本線が加茂駅までつながりましたので、こここから奈良まで路線を伸ばします。大仏観光に来たお客さんで賑わいました。
もっとも急坂が多かったので蒸気機関車2台で運行し、峠の上からブレーキをかけないと大仏駅で止まらないなど、けっこう大変な路線でした。大仏駅は東大寺転害門の前をずっと西に行った一条通りにあり、現在は大佛鐵道記念公園になっています。
大仏鉄道ですが、平坦な木津駅経由で奈良へ向かう現在の路線ができたため、わずか9年間で廃止となりました。廃線沿いには橋梁などが残っています。昔、知研関西で大仏鉄道研究会・事務局長の高橋さんに、「なぜ大仏鉄道は消えたか?」というテーマでお話しいただきました。大仏鉄道開通の朝日新聞の記事を見せていただきましたがトップ記事はいわゆる遼東半島の三国干渉の記事だった時代です。
山出氏館跡

午後、伊賀で仕事だったので少し早い目に出て城跡へ。
場所は佐那具駅で降り伊賀国庁跡を通り過ぎ、東条という集落。ここの集落の奥にある山すそが城跡という情報までは調べていったのですが、なかなか見つかりません。
縄張り図には堀の外に川が流れているので、小川を見つけて遡ると土塁がようやく見つかりました。けっこう高い土塁で、登るのは無理だなと思ったら、虎口(城の入口)を見つけ、無事に城の中へ。
城跡と言っても周りを土塁に囲まれた館跡です。館の主は山出氏で、信長に攻められ伊賀が焦土となった、天正伊賀の乱では忍田砦に立て籠もった郷士。
城跡は集落のすぐ近くですが、東、西、南の土塁と虎口が見事に残っていました。集落のすぐ近くなのでスーツ姿で行ける城跡です。
写真は城跡から虎口を見たところです。
名古屋のパワースポット高牟神社(たかむじんじゃ)

朝、津新町駅からいつもより早い電車に乗って、30分ほど早く名古屋に着きましたので途中下車してパワースポット巡りをしてきました。名古屋も古い土地で、邪馬台国説もある奈良の纏向遺跡には東海地域の土器が入り、尾張が古代から国造りに関わっていたことが分かっています。
地下鉄桜通線・車道駅のすぐ近くにあるのが物部神社。式内社ですから、そうとう古くからあります。祭神は物部氏の祖神である宇麻志麻遲命(うましまじのみこと)。境内に大きな石があり石神神社とも呼ばれています。
物部神社から400mほど行ったところにあるのが高牟神社。ここも式内社で、高牟とは鉾のこと。物部氏の武器庫があったようです。境内には延命長寿に霊験があるという名泉「古井の清水」があります。手水場がそうなんですが、朝からペットボトルに水をつめている人がいました。
最近では、この水を飲むと「恋が生まれる」とも言われているそうで、ほんまですかねえ。一帯は物部郷古井村と呼ばれ物部氏の拠点があったようです。湧水が豊富な土地だったようで、近くの吹上にはサッポロビール工場(今の浩養園)がありました。
高牟神社から吹上に向かって郡道を歩くと左右が坂になっていることがよく分かります。郡道は台地の尾根道になっていて伊勢神宮外宮から内宮へ向かう参宮街道ほどきつくはないですが建物がなければ遠くまで見渡せる一等地です。最後に吹上八幡社にお参りして名古屋市新事業支援センターに到着。
なかなか便利なクリックポスト

新刊書店で面白そうな本を見つければ買い、古書店でも買い、ツン読が増殖中。現在は3本の本の柱になっています。(笑)
せっせと読んで処分するようにしていますが、買うスピードと読むスピードが追いついていません。以前は駅近くに古本屋さんがあったので、せっせと持ち込んでいましたが店舗を閉めてネット専業になってしまいました。しょうがないのでアマゾンで販売しています。
本を送るのによく使ったいたのがメール便。コンビニに持ちこんでいたんですが、日本郵便がクリックポストというのを始めたというので使ってみました。これ、いいですね。メール便はコンビニに持ち込まないといけないので、朝や昼の混雑時は躊躇しますが、クリックポストはプリンターで印刷して、貼ってポストへ入れるだけなので、とってもお手軽。日本全国一律164円で、荷物の追跡ができます。ステマではありませんので(笑)
伊賀上野でセミナーを開催

伊賀神戸駅から伊賀鉄道に乗り換えて伊賀へ。
昔、西岡たかしの上野市(うえのまち)という歌がありました。
♪ 茅町 桑町 広小路 もひとつ揺られて上野市(うえのまち)
上野市駅で降りると駅前にあるのがメーテルと哲郎の銅像。工業団地&住宅団地「ゆめぽりす」の街開」と、松本零士デザインの「忍者列車」のデビューを記念して作られました。以前は「ゆめがおか」にありましたが、上野市駅前に移設されました。、松本零士デザインの忍者列車は今も走っていて、今日も乗りました。
上野市駅前にあるハイトピア伊賀 で「よろず支援拠点」のセミナー。四日市に続いて伊賀でも「よろず支援拠点」に駆り出されています。(笑)「ネット販売における商売の勘所」というタイトルでしゃべってきました。とりあえず、これでノルマは終了。
伊賀上野と言えば松尾芭蕉の生まれたところですが、商店街には生誕370年のノボリがひるがえっていました。
ジュンク堂サンパル方式

ジュンク堂といえば天井まで届くような書棚とびっしりと並べられた本の列が特徴ですが、これってサンパル方式と言うんですね。
ひょうご産業活性化センターが入居しているのが三ノ宮にあるサンパル。戦後、国際マーケットという闇市があったところを都市整備公社が再開発し1981年にサンパルを建てました。現在は人通りが多く賑やかですが、当時は三宮から少し入った裏通りということもあり、夜ともなると、周囲に怪しげな女がたつような場所。ジュンク堂工藤社長の友人が都市整備公社に勤めていて、サンパルへジュンク堂が入居してくれないかと泣きついてきました。聞けば紀伊國屋や旭屋には断られての依頼。
■サンパルに大型書店を作る
工藤社長はアムステルダムに行った時、商店街の本屋で高い棚に整然と並べられた本の列を見て、図書館みたいやなと感動したことを思い出します。西宮に1号店を出していましたが、スペースの関係上、専門書をそう置けません。客からの問い合わせに「ありません」と答えると、「じゃあ、紀伊国屋へ行くか」といって去っていくお客を悔しく思っていました。そこで専門店を充実した本屋を目指します。これがジュンク堂で初めての大型書店になります。
サンパルの3フロアに出ますので、大店法の商業調整協議会の審議を受け、書店組合と話をつけなければならなくなりました。書店組合の条件は「フロアーを20坪けずれ」で、けずったところを喫茶店にしました。ジュンク堂に喫茶コーナーが誕生したのは、こんな理由だったんですね。
■ベストセラーに頼らない書店コンセプト
ジュンク堂サンパル店は3001982年坪で3月20日に開店。定番の週刊誌が売れるだろうと置いてみたらサッパリ売れません。週刊誌は駅や通勤途中の町の本屋で買い、わざわざ三宮の奥にあるサンパルで購入しません。そこでベストセラーなどに頼らない書店コンセプトがサンパルで生まれました。仏典コーナーへ行くといったい誰が買うんだという阿含経典や南伝大蔵経などがずらっと並んでいます。
サンパル店は1991年に500坪に増床し、2001年に隣のダイエー7階へ移転。550坪に増床となり現在に続いています。そうかジュンク堂の原点はサンパルだったんですね。
BLAST研究会

2002年度にスタートした中小企業診断士の研究会。
メーリングリストでの情報交換が主ですが、年に3回、大阪産業創造館を会場に研究会を開催しています。もう12年になります。昨日は第41回目。
コンテンツは
『噺家のマーケティング』 玉島さん
『リスク管理』影 山さん
『京都100年企業に学ぶ 商いのイロハ』 林さん
の3本。
林さんはコミニケ出版から上梓された、「京都100年企業に学ぶ 商いのイロハ」を元にした話でしたが、たった4枚のスライドだけで40分しゃべっておられました(笑)
老舗にとって残すべきものと変わっていかないといけないものがありますが、スキヤキの三嶋亭(三条寺町)で残すべきものの一つが創業当時から変わらない佇まい。新婚旅行で京都を訪れたカップルが、25年後の銀婚式に子供と一緒にまた京都へ。三嶋亭を訪れた時に昔と変わらないお店に新婚時代のことを思い出します。
これこそが老舗の価値ですが、裏では木造建築を維持するのになみなみならぬ努力をしているのが老舗です。
大阪の高安と関係があった紀伊・亀山城

和歌山市からはるか向こうにある印南まで専門家派遣に行ってきました。遠かった!印南と言えば有名なのが「かえる橋」です。JRからよく見えます。
帰りは御坊で途中下車。紀伊・亀山城へ登ってきました。御坊駅の裏側(北側)にある山が亀山城跡。舗装された小道が頂上まで続いているのでスーツでも大丈夫。ただし汗だくになります。(笑)
頂上は公園になっていますが郭や腰曲輪が残っていて土塁もしっかりありました。城跡からは御坊の町船体から海上を行く船も見えて、なかなか絶景です。代々湯川氏の居城でしたが、秀吉の紀州進攻で湯川氏は城を焼き払って退去しゲリラ戦を展開。秀吉は手を焼いたようで後に和睦します。湯川氏の子孫はそのまま続いたようで城跡には子孫が建てた供養塔がありました。
信長が登場する前に三好長慶の軍勢と畠山高政の軍勢がぶつかった教興寺の戦いがあり湯川直光が畠山軍として出陣し亡くなっています。教興寺って、近鉄・高安駅の近くにあり、高安に住んでいた時に教興寺へ行ってきました。境内に湯川直光公勇戦の地碑が建っていたんですが、調べてみると昭和63年に御坊市民が建てたんだそうです。そうか、この亀山城の城主だったんですが、大阪の高安の地で亡くなったんですねえ。