峯城

峯城

亀山にある峯城です。

正平年間(1346年 – 1370年)に峯政実(関盛政の五男)が築城しましたと伝わっていますが室町時代後期の築城のようです。天正2年に峯氏が伊勢長嶋城の戦いで討死にしたため織田信孝の家臣。岡本良勝が城主となりました。

何度も戦の舞台になります。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いの前哨戦で秀吉に敵対していた滝川一益の家臣によって攻められ峯城は亀山城ともども落城します。そこで秀吉が大軍を率いて峯城を包囲し、数ヶ月の籠城の末に開城します。

また天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いの前哨戦として秀吉は織田信雄側だった峯城を攻め、わずか数日で落城します。天正18年(1590年)に亀山城が中心となり廃城になりました。

とっても大きな城郭で6つの頂上にそれぞれ城があり、これが有機的に結びついています。各城を巡るだけでも大変です。きわめつけは天守台があったと伝わる高い土塁で、広いですね。安土城の天守台ほどの大きさがあります。

JR余呉駅

JR余呉駅

賤ヶ岳の各砦巡りでベースとなるのがJR余呉駅。駅では500円でレンターサイクルを借りられます。余呉駅から玄蕃尾城を目指す人も多く、登山道入り口までのマップもおいてあります。玄蕃尾城の登山口までけっこうな距離があり、たどりつく頃には体力を消耗します。

余呉駅のホームからは余呉湖が真正面に見え、この時期は水田と湖が一帯になっています。余呉駅は琵琶湖の北側にあり、約3万年前に琵琶湖から分かれたとされています。赤い屋根の小屋の向こう側に見えるピークが賤ヶ岳砦で、左手にあるのが中川清秀が討ち死にした大岩山砦です。

賤ヶ岳の戦い

賤ヶ岳の戦い

賤ヶ岳の戦いとは1583年(天正11年)4月に余呉湖周辺で行われた戦です。織田信長亡き後、柴田勝家と秀吉が戦い、秀吉が勝ち天下とりがすすみます。北国街道沿いにお互いに陣城を造る攻城戦となった戦いです。20ほどの陣城(砦)が造られました。ということで機会を見つけては陣城(砦)に登ってきました。

■登った秀吉側の陣城
田上山砦、賤ヶ岳砦、大岩山砦、岩崎山砦、堂木山砦、神明山砦、東野山砦、溝谷砦、菖蒲谷砦、天神山砦

■登った柴田勝家側の陣城
玄蕃尾城、中谷山砦、橡谷山砦、柏谷山砦、別所山砦

佐久間盛政の行市山砦だけ、体力がなく行けませんでした。

陣城をみると城を造る思想がよく分かります。秀吉側の城は虎口など、実に技巧的で絶対に守ろうという思想で城が造られていますが、勝家側は簡易な造りで主郭ぐらいしか整備していません。攻めるぞという意識が見えます。前を線突破したい勝家、持久戦に持ち込みたい秀吉という構図がよく分かります。

秀吉が対峙していたのが勝家以外に岐阜の織田信孝、伊勢の滝川一益です。秀吉は持久戦に持ち込んで各個撃破を狙っていたんですかねえ。

別所山砦

別所山砦

別所山砦は前田利家・利長父子の陣城です。他の砦より、しっかりと構築されていて主郭を巡る土塁と空堀が見事に残っていました。尾根上に削平地が続いており、ここに部隊が駐屯していたのでしょう。別所山城は標高444mの一帯に造られています。ここから佐久間盛政の行市山砦跡を目指そうとしたんですが200m以上も高度差があり、既に尾根を下りたり登ったりで体力は限界、ここでユータンです。

賤ヶ岳の戦いでは前田利家が勝手に陣をひいたことから総崩れになったことになっていますが、安部龍太郎の「戦国の山城をゆく」を読んでいると、別所山にいた前田勢が最前線の茂山に移動。尾根伝いに神明山、堂木山を攻め包囲網の一角をせめ、あわせて柴田軍が東野山に攻めかかる作戦だったようです。

■前田利家は裏切っていなかった説
行市山砦にいた佐久間盛政は後詰のはずが、行市山から集福寺坂を迂回して前田勢を追い越し、権現坂と下って余呉湖の湖畔に出て中入りを行います。軍令違反でした。用意していた秀吉軍は退却に手間取っている佐久間勢を攻撃します。

前田利家が敵前逃亡したという噂がたちますが、秀吉は府中城へかけつけて利家を説得したのではないかという説です。秀吉は右腕が必要なので最初から秀吉と話を通じていたことにしないかともちかけます。利家は家の安泰と加増に決断せざるをえません。結果をみて世間は最初から話ができていたと考え、敵前逃亡のうわさが流れます。

実際に別所山砦から見ると秀吉側の堂木山砦、神明山砦、北国街道はよく見えますが、余呉湖は全然、見えません。また行市山砦の動きも把握できません。佐久間盛政が秘密裏に動いても前田勢には分からなかったでしょうね。

心おどるあの人の本棚

本棚

NHK教育で「心おどるあの人の本棚」シリーズを放映していて、先週が小説家・京極夏彦氏の本棚。

買った本は絶対に売らないという気迫で蔵書を揃え、本の柱が林立していました。本を二段に並べず、必ず背表紙が見える状態にすること、平積みにしないことと蔵書の哲学が語られていました。新しい本を買ったらテーマにあわせて蔵書を常に整理するそうで、棚に2mmの空間があれば10の棚を整理することで2cmの本を入れられると語っていました。

おそれいりました。
我が家は狭い家なので買ったそばから古書店やアマゾンで売って手放し、本棚には二段で押し込み、積読(ツンドク)は平積みで柱になっています。やっとこさ平積みの柱が一本になりました。「買うにおいつく読書なし」は名言ですねえ。

橡谷山(とちたにやま)砦

橡谷山(とちたにやま)砦

登山道入り口にあった案内板には中谷山砦になっていますが、全国文化財総覧で調べると中谷山砦遺跡は橡谷山砦遺跡へ登る途中にあり、橡谷山砦は標高368.4mのピークにあります。やっぱり案内板が間違っていますね。

柏谷山砦からエッチラオッチラ下ってきた藪だらけの尾根を登り返して登山道に入って、少し行くと郭跡があります。ここが橡谷山砦です。標柱には「中之谷山 原彦次郎長頼」と記載されていますが、金森長近が守っていました。金森長近は前田利家とともに撤退し、その後は秀吉、家康につかえます。飛騨高山城をおさめた時に現在に続く高山の城下町を整備しました。

橡谷山砦の郭には低い土塁が巡り、削平地が拡がっていました。

柏谷山砦

柏谷山砦

中谷山砦から橡谷山砦へ登る途中に「頂上まで2300M」という標識があります。ここでGoogleマップを確認すると尾根の先に柏谷山砦が表示されました。この先に砦があるんだと登山道を離れて、藪だらけの尾根を下っていきます。

尾根を下って少し登り返すと尾根のピークに土塁に囲まれた郭跡がありました。ここが柏谷山砦です。方形に盛り上がった場所がありましたので、おそらく櫓台跡でしょう。縄張は単純で、兵を駐屯させる削平地があります。

柴田勝家の与力だった徳山則秀が布陣していたとも言われていますが、詳細は不明です。砦跡を確認した後は藪だらけの尾根を登り返します。ゼイゼイ言いながら、ようやく登山道へ復帰です。帰ってから調べると、柏谷山砦から、さらに尾根を下ったところに大谷山砦がありましたが、分かっていたとしても、さらに尾根を下る体力はありませんでした。

中谷山砦

中谷山砦

林谷山砦からヒーハー言いながら、尾根道を登り返し案内板のある頂上へ着きました。案内板によると、このあたりに橡谷山砦があり、さっそく探しましたが城の遺構らしきものは何もありません。あきらめて中谷山砦を目指します。

■山城なんだけど
ずっと尾根道を登っていくと途中で、登山道が堀底道風になっているところがあり土塁で囲まれた郭らしきものがあります。「これ山城じゃない!」のと思っても案内も何もありません。でもどう考えても郭が連続しています。

■本来の中谷山砦
後で調べると案内板にある中谷山砦が間違っていて、実は橡谷山砦だったようです。本来の中谷山砦がある位置は案内板に載っていません。城と気づかずに登っている人も多いでしょう。

柴田勝家側の山城で原彦次郎長頼が守っていました。柴田勝家軍が越前に退却する時の殿(しんがり)をつとめます。その後は前田利家、秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは西軍について自刃します。

林谷山砦

林谷山砦

賎ヶ岳合戦の砦跡の一つが林谷山砦です。

毛受(めんじゅ)兄弟の墓近くに動物除けフェンスの入口があり、登山道に入れます。まずはひたすら登って尾根分岐点に至ると案内板があり、別の尾根をずっと下っていきます。この道を登り返さないといけないので気分が下がります。

徳山五兵衛秀現の砦跡、毛受勝助家照の砦跡と書いた木標があり、ここが主郭です。ずっと長大な土塁が続き土塁の向こう側は犬走になっています。柴田勝家軍の不破勝光,毛受勝助・家照兄弟,徳山五兵衛等が布陣したと伝わっています。柴田軍の中では最も低い位置にある砦です。

守将の一人である毛受勝照は柴田勝家に小姓として仕えていました。敗色が濃くなるなか、主君である柴田勝家を退却させるために、勝家の馬印を掲げ、わずかの兵で林谷山砦に登り、秀吉方の軍勢を引きつけ時間を稼ぎます。最後は討ち死にしますが秀吉は毛受兄弟の忠節を称賛し、供養を頼んで北ノ庄城を目指します。

高田中学9期生 同窓会

大昔、津にある高田中学に通っていました。当時は国鉄で中学1年の時だけはSLに乗っていました。最寄り駅が阿漕駅に多くの駅員がいましたが今や無人駅です。通っていたのは6年コースで当時は1クラスしかなく。結果的に中学・高校6年間をずっと一緒に過ごしておりました。

津駅前の天海というお店で同窓会。皆さん、前期高齢者なんで病気の話や中学、高校時代にやんちゃなことをした話で盛り上がっていました。ただ去年参加していた同窓生の訃報に接するなど物故者も増えましたね。