マイナンバーカード切替

マイナンバーカード切替

マイナンバーカード(有効期限が10年)の切替のため東大阪市役所へ行ってきました。切替申請をして、通知書が届いたら予約をとる必要があります。今日、予約時間に市役所へ行きましたが、けっこう混んでますね。

受付は確認だけなので、すぐですが、実際の発行にはパソコンがいるので、こっちが混んでいます。そうそうパスワードで使う英字が大文字に変わっていました。ようやく呼ばれて本人確認の後、タッチパネルで暗証番号やパスワードを設定します。

マイナンバーカードは公開鍵暗号方式を使っており、10年前に取得した時は画面に「pair key generate」などの文字が出て、オッー、秘密鍵と公開鍵を作っているなと楽しめましたが、今回は何も表示されません。まあ、専門用語を見せられても不安に思うだけですからねえ。とにかく終わった!終わった!

下居出城

下居出城

中大兄皇子と鎌足が蘇我氏を倒す密談をしたのが談山神社。談い(かたらい)から談山と名づけられました。談山神社を中心に城が造られ多武峰城塞群と呼ばれています。まだ行けていなかった下居出城に登ってきました。多武峰城塞軍の最北端に位置します。

大和は興福寺が守護の代わりで大きな勢力はなく国衆通しで争っていました。そこに松永久秀が攻め込んでくるなど混沌とした状態です。長期にわたり明日香から多武峰一帯に城塞群が構築されました。下居出城は多武峰街道を倉橋から攻めてくる室町幕府軍に対抗した越智氏・箸尾氏のいずれかの城だったのでしょう。

多武峰街道から山の麓にある神明神社を目指します。神社裏からエッチラオッチラ直登すると尾根に到達しますので、ここから尾根を進んでいくと下居出城に着きます。実は神明神社前を通り過ぎて北に少し進むと山道があり、ここから尾根にとりつく方が楽ですね。帰りはこっちの道で戻ってきました。

下居出城は3つの堀切で遮断された郭があるのですが、見どころは三重に続く畝上竪堀です。見事に残っていました。

守山城

守山城

守山駅近くにある守山城。といっても住宅街やお寺の中に埋もれてしまい遺構は残っていません。ただ、まっすぐに流れてもよい水路が奇妙に湾曲しており堀跡のようです。この湾曲した中に城がありました。

築城したのは宇野氏で、承久の乱の恩賞で関津(瀬田川を遡ったところ)の地を幕府から与えられます。本拠は関津城で守山城は支城の一つだったようです。その後は佐々木六角氏の種村氏が城主になりましたが、信長が足利義昭を奉じて上洛する時に木下藤吉郎、池田恒興が攻め寄せ落城させました。守山城は中山道・守山宿をおさえる拠点でしたので修築して稲葉一鉄(頑固一徹の語源になった武将)を守将とします。近くにあった一向宗の金森御坊を牽制する位置でもありました。

■宇野首相のお墓
昭和の中頃まで土塁跡や堀跡が残っていたそうですが、今はほとんどが大光寺境内になっています。ちなみに大光寺には女性スキャンダル問題で短命政権に終わった宇野首相のお墓があります。すぐ近くの町家・うの家が生家で、江戸時代は守山宿の町年寄の家柄でしたから先祖は鎌倉時代の宇野氏につながっているかもしれません。

山之井

山之井

先日、泉南に用事があったので、ついでに山之井に行ってきました。

神武東征で、その頃は海だった大阪を超えて日下(東大阪)に上陸。ここから生駒山を越えて大和に入ろうと日下直越道(くさかただごえみち)を登っていくと、待ちかまえていたナガスネヒコ軍の攻撃にあいます。神武天皇の兄の五瀬命(いつせのみこと)が矢傷を受けます。一度、日下直越道をたどりましたが、なかなか大変なところに五瀬命負傷碑がありました。

神武軍は船で撤退し大阪湾を南下し泉南の山の井水門に着き傷口を洗いました。当時は今の南海本線などは海で、高地になっているところあたりが陸地でした。五瀬命は「賊に傷つけられて死ぬとは」と無念のあまり雄々しく叫びます。古事記ではここで亡くなりますが日本書紀では紀国竈山で亡くなり竈山神社に祀られます。泉南では男神社(おたけびの宮)に祀られています。

芦浦観音寺館

蘆浦観音寺館

草津市芦浦町に観音寺という古刹があり、秦河勝が創建したと伝わるので飛鳥時代ですね。ここが戦国時代に城へと変貌します。

東山道の守山宿から琵琶湖の志那港を結ぶ志那街道が寺の近くを通り、琵琶湖を通じた往来の要所になっていました。観音寺は室的幕府から船奉行に命じられ、以来、信長、秀吉、家康時代と100年以上も船管理にあたりました。江戸時代の貞享2年(1685年)に何でか知りませんが罷免されました。寺は江戸に移転させられ、寛永寺に明王院として存続しています。

寺といいながら水堀で囲まれ、門は桝形になっています。石垣が巡らされており堅固な造りになっています。

SNS「みえぢん」が本日で終了

みえぢん

全然、知られていませんが三重県人のためのSNSである「みえぢん」というサイトがあります。三重県人でなくても三重県に興味がある人なら誰でも参加OKというSNSです。

三重大学にサーバーを置いて運用されていましたが紆余曲折がありサーバーを管理されていた教授の退任により本日で終了となります。スタートが2006年10月ですので、19年4か月にわたっての運用でした。長い間、ありがとうございました。

「みえぢん」はOpenPNEというオープンソースのSNSを元にいろいろな機能が追加されています。スタートした2006年から参加していますが2006年といえばアンドロイドやiPhoneが登場する前で、Mixiが上場した年でもあります。Facebook日本語版がスタートしたのが2008年でTwitterが流行りだしたのも2008年ですからSNS黎明期になります。そうそう2006年はライブドア事件やハンカチ王子が注目を集めました。

長束正家館跡

長束

長束正家ってご存じですか?

秀吉亡きあと、豊臣秀頼を支えた五奉行の一人で算術も得意で武功もある文武両道の武将です。忍城の戦いで副将として三成を助けますが、映画「のぼうの城」では忍城に軍使として遣わされ横柄な態度をとり成田長親は籠城することに決めることになります。まあ映画の話なので(笑)

関ヶ原の戦いでは西軍につきましたが毛利秀元、長宗我部盛親、吉川広家とともに南宮山に布陣しましたが、吉川広家が寝返り戦に参加できずに負けました。水口岡山城に戻りましたが切腹させられました。もともとは水口氏という名前でしたが長束村に移った時に、長束氏と名乗りました。草津市長束町には長束氏館跡があり、今も土塁の一部が残っていました。

物部村(守山)

物部村

守山を歩いていると「牛馬三昧之碑」という碑を発見。というより側面にある物部村という文字が目に入りました。

調べるとかって栗太郡物部村があり、奈良時代には既にあった地名で一時期は法隆寺の荘園があったようです。守山駅近く勝部神社はニギハヤヒや経津主神を祭り、物部氏の神さんだったんですね。

蘇我馬子と物部守屋との戦いを日本史で習うため物部氏が滅んだと誤解している人も多いのですが、守屋一統が滅んだだけで物部氏は全国に点在し物部系の神社があります。例えば名古屋の千種にある高牟神社は尾張物部氏の拠点があったところです。また近鉄中川駅のデルタ線の近くにも物部神社もあります。東大阪や八尾の多くの神社の祭神は物部の神さんです。デンボの神さんで有名な石切神社もそうですし、宮司は物部氏の一派である木積(こづみ)氏です。

下之郷遺跡

下之郷遺跡

下長遺跡の東にあるのが下之郷遺跡です。

弥生時代の環濠集落である下之郷遺跡ですが、堀の規模がすごく、まず中心部を囲む三重になった堀跡が見つかりました。さらに集落の外周を囲む形で三重の堀がめぐっていました。堀の幅が8メートル、深さ2メートルもあります。他にも堀跡があり、いくつの堀がめぐっていたのか今もって分かっていません。堀は水堀が主体でした。堀は土塁とセットですので防衛の意味もありましたが現在の貯木池のように木材の保管にも使われたようです。

米は熱帯ジャポニカ米を食べていたようで中国や朝鮮半島から伝わったのではなく東南アジアから直接入るルートがあったようです。

■倭国大いに乱れ
想定されている集落の大きさは東西330メートル、南約260メートルもあります。集落の入口には土橋があり銅剣や折れた弓などが見つかっていますので戦闘が行われたようです。弥生時代の平城ですねえ。時代は吉野ヶ里遺跡、池上曽根遺跡、唐子鍵遺跡などと同じ時代で邪馬台国よりも300~400年前古く、漢書地理志に「倭国、分かれて百余国・・」と書かれた時代の国の一つです。

下長遺跡

狐塚古墳

「伊勢遺跡と卑弥呼の共立」(吉川弘文館)を読むと伊勢遺跡周辺の遺跡が面白そうなので、まずは下長遺跡へ。といっても遺跡の多くは工業団地になっていて小さな3基の古墳が点在しているだけです。下長遺跡は伊勢遺跡から北西に1.5kmほど離れたところにあり、弥生時代から平安時代まで使われていたようです。

古墳時代前期には首長の居館が作られ祭場もあり、儀仗が見つかっていますから王がいたようです。遺跡の中央を琵琶湖まで続く川が流れていました。船も見つかっていて、川に沿って交易のための倉庫や交易場所があったようです。琵琶湖は古代の高速道路ですので瀬戸内海ルートと日本海ルートを結び、北陸・東海とのハブでもありました。

下長遺跡は伊勢遺跡のための物資の集散、交易の拠点として使われていたようです。その後、大和王権がスタートし伊勢遺跡が終焉するとともに、下長遺跡はますます栄えますので、物流拠点のハブとして大いに機能したようです。