西国街道をゆく(沖恵美酒神社)

あらえびす

西宮神社の末社に沖恵美酒神社という名前の神社を発見。美酒、いいですなあ!とおいしいお酒にありつけようお参りしてきました。帰って調べてみると沖恵美酒神社では十日えびす(1月10日)の半年後の7月10日に夏えびすが行われるそうです。もともとは境内外の洗戎(現・荒戎町)にあったものが明治5年に遷され、通称「あらえびすさん」で、本殿にお祀りしているえびすさまの和魂(にぎみたま)に対し荒御魂を祀っています。

伊勢神宮も和魂(にぎみたま)と荒御魂は分かれており、本殿は和魂で国家安寧を祈願しますが、荒御魂の宮では私的な祈願をするようになっています。なんだ、お酒ではなく商売繁盛をしっかりお願いしておくんだった!

西国街道をゆく(西宮神社)

西宮神社

西国街道を西に向かうと恵比寿さんで有名な西宮神社の表大門が見えます。街道の真正面に鳥居を建てていたんですね。国道などを通っていたら全然、気がつきません。昔の絵図でも西国街道が表大門にぶつかり街道は南に折れて、すぐ西に曲がって、現在の国道43号線になっていました。

西宮神社はえびす神社の総本社ですので、十日えびすの時は大変な人出で、朝から行われる福男選びレースは毎年、全国ニュースになっています。ふだんは閑散としていますね。ちょうど本殿・拝殿の銅板葺き替え工事をしており仮殿でお参りする形になっていました。いつ創建されたかは分かりませんが、平安時代には廣田神社の摂社で南宮社という名前だったようです。境内に今も南宮神社があります。平安時代末期頃から戎信仰が盛んになったようで、この頃から盛んになったようです。

正倉院展2024

夕方からインバウンドで賑わう奈良へ。

正倉院展

東向商店街を歩くと修学旅行生以外、日本語が聞こえてきませんなあ(笑)。明治以来120年ぶりに保存修理工中の五重塔を抜けて奈良国立博物館へ。正倉院です。16時過ぎからレイト割(昔はオータムレイトチケットでした)になりますが16時30分過ぎに入れば誰も並んでいませんし、会場も混んでいません。

■天平時代の盗難届
面白いのが古文書で棚卸の記録など、いろいろありましたが盗難届がありました。下級完了が天平7年(735年)に左京職へ提出した文書です。服はもちろん酒器、弓など家財も根こそぎやられていました。

盗難届を受理した左京職から東市司に盗品は市で売りさばかれるから目を光らせておくように出した命令書もありました。無事に見つかったかどうかまでは分かりません。

西国街道をゆく(染殿池)

染殿池

武庫川を渡ってから南西に方向を変えた西国街道が今度はまっすぐ南下します。阪急、JR、阪神の線路を超えて国道2号線の旧道にぶつかり、ここから西に向かいます。江戸時代には西宮宿があり、ずっと下関まで続いています。さすがに下関まで歩くのはきついなあ。

JR西宮駅近くにあったのが喜多向稲荷社という小さな社。入口に「漢織呉織松 染殿池」という石碑が建っていました。4世紀頃に呉から漢織(あやはとり)、呉織(くれはとり)」という染色の技術を伝えるために2人の女性が渡来します。上陸したのが武庫の港で、染殿池(そめどのいけ)で糸を染めて布を織ったと伝わっています。稲荷社の奥に染殿池がありましたが、池は枯れていて水はありませんでした。付近に津門綾羽町、津門呉羽町、染殿町という地名が残っています。

西国街道をゆく(師直塚)

師直塚

西国街道を歩いているとイズミヤ昆陽店のすぐ前に師直塚を発見。「師直って、あの有名な高師直?」と行ってみたらピンポンでした。

高師直は足利尊氏の側近で、戦は強いし行政もできるという文武両道のスーパーマンです。革新派で趣味人でもありましたが、石田三成のように尊氏への不満が集中する立場なので保守派の足利直義(尊氏の弟)と対立し、観応の擾乱に発展します。

高師直と足利尊氏は打出浜(芦屋)の戦い(1351年)で足利直義に敗北したため投降。尊氏より遅れて護送されている途中、直義派の上杉能憲らによって殺されます。塚は別の場所にありましたが国道の拡張工事などにより、現在地に移されます。

この後、足利直義が権力を握りますが、結局は尊氏との戦いに発展し、敗れた直義は鎌倉に幽閉されます。鎌倉で病死しますが、高師直の一周忌にあたり毒殺説もあります。

西国街道をゆく(昆陽寺)

昆陽寺

京都と西宮を結ぶ西国街道沿いには、山崎・芥川・郡山・瀬川・昆陽(こや)の5つの宿場があり、最後の宿場町になります。行基が昆陽池など複数のため池を造営します。昆陽池といえば伊丹空港を離陸すると、池の中に日本地図が見える池として有名です。伊丹空港からちょうど上昇していくところですので飛行機が次々と上空を通っていきます。

行基は731年に昆陽寺(こやでら)の前身となる昆陽施院(布施屋)を設立します。貧民救済が目的で食料の配給、けがや病気の手当て、宿泊などを提供していました。行基は畿内49院を設立したといわれていますので、すごいデベロッパーです。荒木村重と織田信長の有岡城の戦いに巻き込まれて伽藍が焼失しましたが再建されました。

中家住宅

中家住宅

大阪府よろず支援拠点のお仕事で一昨日は泉佐野納税協会で「DX化支援のための補助金」のセミナー、昨日は熊取交流センター「すまいるズ煉瓦館」で「IT/IoT・DX推進入門セミナー」というタイトルのセミナーをしてきました。すまいるズ煉瓦館は昭和初期の綿布工場を保存再生した建物で煉瓦塀などがよ風情あります。隣に中家住宅がありセミナー前にのぞいてきました。後白河法皇が熊野行幸の時に行宮とした旧家です。江戸時代の建物が残っていますが、中家はもともと源平の頃からの武士で往時は堀などもあったそうです。

日根野、熊取ともに関空のすぐ手前にあります。南海は難波から空港直通の急行が出ていますが、JRは天王寺から8両編成の急行が出ていて日根野で切り離し、前4両が空港行きで後ろ4両が和歌山行きになります。電車に乗るとインバウンド客であふれていますが、後ろ4両がねらい目です。途中アナウンスで「このまま乗っていると和歌山へ行ってしまう」と、停車駅でスーツケースを引きづり前の車両への移動が始まり車内がすきます(笑)。切り離しに時間がかかるので日根野駅で十分なんですが、そうは思わないでしょうね。

西国街道をゆく(伝・和泉式部墓)

伝・和泉式部墓

多田街道と西国街道の辻を過ぎて西に向かうと坂道が待っています。これが伊丹坂で、坂を登りきって少し南にいったところに伝・和泉式部墓があります。大河ドラマ「光る君へ」では泉里香さんが演じています。

橘道貞と結婚し、夫の任国が和泉だったので和泉式部と呼ばれるようになりました。「光る君へ」では、「今日よりそなたを和泉式部と呼ぼう」と名づけられますが、別れた夫の官職は嫌と拒否するシーンが出てきました。

晩年などはどうなったのかよく分かりませんが、橘道貞の出生地が伊丹坂の近くで、そこで供養塔として五輪塔が鎌倉時代頃に追善供養として建てられたようです。

西国街道をゆく(多田街道との辻)

多田街道との辻

西国街道と多田街道と交差する辻があります。多田街道はここから北に向かい多田神社の参詣道として栄えました。多田神社は多田(源)満仲の屋敷跡で清和源氏発祥の地です。源満仲は多田を所領として開拓すると共に、多くの郎党を養い武士団を形成します。大河ドラマ「光る君へ」でも描かれた花山天皇退位事件にも絡んでいます。

源満仲の三男の源頼信を祖とするのが河内源氏で、源頼朝はこの系譜です。足利尊氏も多田源氏を祖としています。家康は本当かどうかわかりませんが清和源氏と主張していたので江戸時代も多田神社に寄進などがされ賑わっていました。

西国街道をゆく(桂春団治の碑)

桂春団治の碑

弁慶の泉の近く、西国街道沿いにある受楽寺という寺の前に桂春団治の碑がありました。春団治といえば「酒や! 酒や! 酒買うてこい!」という浪花恋しぐれを思い出しますなあ。説明によると上方落語の名跡である桂春団治名継いだ2代目が清荒神に住んでいた頃、よく受楽寺を訪れ、先々代の住職と交流があったそうです。宝塚にある清荒神と池田ではまあまあ離れているんですけど、「池田の猪買い」など上方落語の舞台ではあります。

初代は一心寺に葬られましたが戦争などで墓碑が分からなくなったこともあり、1998(平成10)年、初代と2代目春団治の功績を称えて碑が建てられたそうです。池田市では受楽寺で初代・2代目・3代目 春團治の法要を行い、2000(平成12)年から「いけだ春団治まつり」を行っているそうで、今年は25周年だったそうです。