下ツ道をゆく(12) 八条北遺跡

八条北遺跡

西名阪道と京奈和道をつなぐ郡山下ツ道ジャンクションを作る時に発掘調査が行われました。縄文時代などの遺跡のほかに古代の下ツ道も出土しました。今は幅3mあるかないかの街道ですが古代は19mもありました。両側には側溝が作られ東側の側溝が大きく幅が6m以上で深さも2mほどあったので側溝というレベルではないですね。大量のウマの骨などが出土していますので廃棄するゴミ箱代わりだったようです。他にも祭器で使ったものが出土しています。

現在の下ツ道は古代の下ツ道をほぼ踏襲していることも判明しました。下ツ道歴史広場が整備されていますが、案内版とトイレがあるだけで、工事現場だったところをそのまま公園にしたようです。ジャンクションの高架下を下ツ道が通っていますが、ジャンクションを抜けると、ますます幅が短くなり小道になります。

下ツ道をゆく(11) 八条環濠

八条環濠

二階堂駅から北上して下ツ道を歩いていくと菅田神社の鳥居がありました。Googleマップで見ると400メートル行ったところにあります。遠回りになるので行こうかどうしようかと考えて、もう一度地図を見たら菅田神社のまわりに水路みたいなのがあります。もしかして環濠集落?ということで寄り道するとピンポン!八条環濠でした。

当時の環濠集落は堀でかこまれた城で八条環濠も八条平城と呼ばれていました。菅田神社のすぐ横を水路が流れ境内には環濠の名残らしき水たまりがありました。

下ツ道をゆく(10) 二階堂

二階堂

下ツ道は近鉄・二階堂駅のすぐ横を通っています。古い駅で大正時代にできた天理軽便鉄道(法隆寺-天理)の二階堂駅がスタートです。大阪から天理へ向かう天理教信者を想定して軽便鉄道が作られました。ところが大軌(近鉄)が西大寺駅から南進し、橿原神宮駅と結び、天理軽便鉄道を横断する形になりました。これを機として大軌(近鉄)にM&Aされます。1952年に平端-法隆寺が廃線となり、平端ー天理が近鉄・天理線として残りました。

二階堂駅の近くにある二階堂地蔵堂の二層屋根が二階建てに見えたことから二階堂と名付けられたそうです。今の地蔵堂ではなく古い時代のお堂です。もともとは膳夫寺(かしわでら)がありました。聖徳太子の妃、膳夫姫が天香久山の北側に建立した膳夫寺が移建されたものです。時代とともに膳夫寺がすたれ地蔵堂が建てられました。

ということになっていますが橿原市膳夫町にも膳夫寺があり、実のところよう分かりません。

下ツ道をゆく(9) 鍵

鍵

鍵にあるのが有名な唐子・鍵遺跡。出土した土器に楼閣が描かれていて発見された時は邪馬台国だと大騒ぎになりました。弥生時代の初期から集落が作られ最盛期の頃には周囲に環濠が巡り大型建物が建てられていました。この頃に楼閣があったようです。

弥生時代後期になると近畿一円の弥生時代の遺跡において洪水などの痕跡が見つかりますが、唐子・鍵遺跡も洪水にみまわれ建物などは流されましたが、同じ場所で再建しました。そのまま古墳時代にまで突入し、古墳が作られています。ですので弥生時代を通じた全期間の遺物が出土する遺跡になっています。

下ツ道をゆく(8) 蛇巻き

蛇巻

寺川を渡ると今里問屋場がある今里です。ここに杵築神社があり、蛇巻きという風習があります。蛇巻きを行うのは隣の鍵の八坂神社の2つだけのようです。鍵は稲わらで、今里は麦わらで蛇を作って、少年が担いで地区内を練り歩きます。旧暦の5月5日に行われるので端午の節句にちなんだ行事のようです。今は6月第1日曜日に行われます。

田植え時に雨が降るようにという豊作祈願もあるようです。鍵の蛇巻きは下ツ道から少し東に置いてあります。奈良盆地には野神行事というのがあり、塚や樹木にわら製の綱を巻きつけたり、牛馬の絵馬や農具の模型を奉納する風習があるようで、これが蛇巻きになったようです。今年は巳年なんで縁起がよさそうです。

下ツ道をゆく(7) 今里問屋場

寺川

鏡作神社から下ツ道を北上すると寺川を渡ります。寺川がこのあたりから西に向かうことになりますが古代はさらに北上し布留川から豊田山(天理)と結んでいたのでしょう。

古代の下ツ道は中世に中街道となっていました。古代は上ツ道、中ツ道、下ツ道があり、上ツ道は中世は上街道と呼ばれます。中ツ道は使われず、古代の下ツ道が中街道になります。下街道は中街道の西側で古代の道には沿っていません。

このあたりにあったのが今里問屋場という川港です。中世の物流の基本は船運ですので大和川を川船で運び、そこから寺川に入って今里で陸揚げしていました。田原本の荷物が今里問屋場に集められて大いに栄えましたが、鉄道による輸送になり寂れていきます。

ここから東にちょっと行ったところに有名な唐古・鍵遺跡があります。

下ツ道をゆく(6) 鏡作坐天照御魂神社

鏡作坐天照御魂神社

下ツ道ファンの皆さん、おまたせしました。第6弾です!

田原本にあるのが鏡作坐天照御魂神社です。神社の名前通り鏡を作る一族(鏡作部)がこの地に住んでいました。第10代崇神天皇の時に三種の神器のうち八咫鏡を伊勢神宮へ移すことになり、代わりに宮中で保管する鏡を鏡作部に頼んで作りました。草薙剣は熱田神宮に納めらて剣と鏡のレプリカが作られました。

■三種の神器が3セットもある!
三種の神器ですが、もともと北九州で剣、鏡、勾玉のセットが王者のシンボルだった風習がどうも元になったようです。義経が平家を滅ぼした壇ノ浦の合戦で三種の神器も海に沈みます。なんとか鏡と勾玉は救い出されましたが剣は見つかりませんでした。後鳥羽天皇は発見の祈祷と捜索を命じますがダメでした。この時にいろいろと理屈をつけて別の剣をレプリカとします。

この三種の神器ですが南北朝時代にとんでもないことになります。南朝の北畠親房が足利尊氏が京都を留守にした時に南朝に残っていた戦力を集め京都を占拠。ただ足利の反撃で逃れる時に北朝側の上皇や天皇、三種の神器を持ち去り、これには足利も困り果て、いろいろな対策をうたざるをえませんでした。詳しくは「内裏襲撃 禁闕の変異聞」(叢文社)をどうぞ!

なんやらかんやらで太平記によると北陸に1セット(恒良親王+新田義貞)、後醍醐天皇から北朝に渡った1セット、後醍醐天皇が吉野へ持って行った1セットの3つがこの時にあります。

下ツ道をゆく(5) 田原本

浄照寺

笠縫から下ツ道を北上すると田原本があります。近鉄橿原線の田原本駅がありますが、すぐ近くに田原本線(新王寺駅行き)の西田原駅があります。

江戸時代は平野家の陣屋がありました。初代は平野長泰で賤ケ岳の戦いで活躍した七本槍の一人です。近江で3000石をもらっていましたが田原本2000石が加増され5000石になりました。平野家は陣屋を建て、代々この地を領地とし明治まで続きました。残念ながら陣屋は残っていません。

田原本駅近くに浄照寺があり田原本御坊と呼ばれていました。浄土真宗の中心地として寺内町の雰囲気がよく残っています。ここの高麗門は伏⾒城の城⾨を移築したものと言われていますが、あんまり特徴がないので太⿎楼がのっている隣の長屋門が有名です。

下ツ道をゆく(4) 秦楽寺

秦楽寺

下ツ道を北上していくと笠縫駅に出ます。このあたりの地名が秦荘です。秦ときいて秦河勝(はたのかわかつ)を思い出したあなた!通ですねえ!

秦河勝は聖徳太子の国作りをサポートした秦氏(渡来人)の族長です。聖徳太子から譲り受けた木造弥勒菩薩半跏思惟像を本尊に広隆寺を建てました。能のもとになった大和猿楽四座は秦氏の子孫で、世阿弥の風姿花伝には猿楽の開祖が秦河勝と書かれています。

この秦河勝が創建したのが秦楽寺です。本堂前には大きな池があり、空海が梵字の「阿」の形の池を作ったとされ阿字池と呼ばれています。池の周りになぜか土塁があり秦楽寺城として松永久秀の大和攻めなどで使われてようです。

下ツ道をゆく(3) 下ツ道運河

寺川

近鉄八木駅近くの踏切を超えて下ツ道を北上すると、東から寺川が近づいてきて下ツ道に沿ってまっすぐ北に並走します。道の横に不自然なほどまっすぐな川が続きますので、どう考えても人工的です。この寺川が斉明天皇が作った狂心溝(たぶれごころのみぞ)の一部とみられています。天理市の豊田山から飛鳥を結ぶ大運河で天理周辺の流路は往時と変わっているようです。

京都嵐山から和歌山港に至る約180kmの京奈和自転車道が整備され、この下ツ道がサイクリングロードになっています。とぼとぼ歩いている横を自転車が通り過ぎていきます。