真田丸、ご覧になっていますか。
時代考証がけっこうしっかりしていて、主人公も真田幸村ではなく真田信繁になっているし、信繁の父親である真田昌幸が武田信玄に仕えていた頃には武藤喜兵衛と名乗っていました。真田昌幸が徳川家康と初めて会う時にこの武藤喜兵衛の名前が出ていたので、思わずテレビの前で「オオッ!すごい」と思っておりました。
武田勝頼滅亡の前兆となった浅間山噴火や指月伏見城が慶長伏見大地震で倒壊してしまい、木幡山に造り直すところもしっかり描かれていました。
先日、真田丸のオープニングを見ていたら西股総生の名前を発見。真田丸では戦国軍事考証を担当しているそうです。西股総生氏は中世城郭の研究家で「城取りの軍事学 築城者の視点から考える戦国の城」などの著作がたくさんあります。上田合戦では鉄砲を防ぐための竹把が登場しており、なかなかリアルです。
カテゴリー: 日記
自力救済
大河ドラマ「真田丸」ですが、いよいよ関ヶ原の合戦です。残念ながら前哨戦となった津城の戦いは出てこないでしょうねえ。
関ヶ原の合戦は秀吉亡き後の覇権争いですが、秀吉が出した総無事令に反することになります。北条討伐の根拠ともなったこの総無事令は画期的な法律でした。
現在の法体系では自力救済が禁止されています。よくある例が自転車で、盗まれた自転車が駅前の駐輪場にあるのを発見した時、そのまま乗って帰ると窃盗罪になり罪に問われます。これが”自力救済の禁止”。これを認めると強者が何をしてもよいという世の中になるので禁止されています。
■戦国時代は自力救済
戦国時代は自力救済が原則でした。荘園の所有権を幕府に認めてもらっても、そこに占有者がいれば自分で排除しなければなりませんでした。黒澤映画の「七人の侍」で村人が村を守るために侍を雇いますが、これも自力救済です。ですので全国に山城や”村の城”が造られ、私がせっせと登ることになります(笑)。
自力救済の世の中を変えるために出されたのが総無事令。信長や他の大名も支配地域での総無事を出していましたが、秀吉による天下統一で日本中の総無事が実現できました。徳川幕府も総無事を踏襲しましたが、由井正雪の乱など殺伐とした戦国の雰囲気は残っていました。それをなくすために出されたのが綱吉の生類憐みの令になります。
ツン読が3列に
ポーの一族
先日、コミック誌では珍しく重版出来(じゅうはんしゅったい)となった掲載誌(月刊フラワーズ7月号)を奥さんが買ってきました。書店で「最後の一冊です」とアナウンスしていたので思わず買ったそうです。なんせ新作が出るのは40年ぶりですからねえ。そういや「ガラスの仮面」はどうなったんだろう(笑)。
■固定相場制と変動相場制
「ポーの一族」が連載されていたのが1972年~1976年。前年の1971年にはニクソンショックが起きます。日本は1ドル360円の固定相場制から、やむなく現在のような変動相場制に移行します。もっとも江戸時代には金、銀、銭の3つの貨幣が混在し、変動相場制でしたので両替商が発達しました。ところが明治政府が円に統一してしまったため、「あさが来た」の山王寺屋のように両替商は存在意義がなくなり没落していきます。
明治政府が円に統一したのが1871年(明治5年)なのでニクソンショックがあった1971年までの100年間が固定相場制の時代になります。両替商は室町時代には登場していますから、日本は変動相場制の方が長い国になります。現在のように通貨価値が刻々と変る状況がふつうでした。
■海外旅行が珍しかった時代
「ポーの一族」連載が始まった1972年といえば、まだまだ海外旅行が珍しい時代です。ヨーロッパを舞台に描かれていたため、読者にヨーロッパとは、こんな感じなんだとイメージが浸透していきます。なんせ、海外渡航制限が解除され日本人が自由に海外旅行ができるようになってから8年しか経っていません。バックパッカーのバイブルである「地球の歩き方」の創刊は1979年です。
就職前の1982年、「地球の歩き方」を片手にバックパックを背負ってヨーロッパをまわっていた時、パリ北駅の両替で「日本の銀行が発行したトラベラーズチェックは扱えません」という張り紙を見た時は”日本の力はまだまだなんだなあ”と思ったのを記憶しています。当時のパリはゴミが多く、「ポーの一族」のヨーロッパとは全然、違っていました。
真田丸、見ていますか
地下鉄・谷町四丁目駅を降りてマイドーム大阪方面の出口へ向かうとコンコースの両側が真っ赤になっています。
真田信繁(堺雅人)の顔がドーンと出ていて、6枚の大型ボードが全長40メートルも続いています。なかなかインパクトがあります。マイドーム大阪の反対側がNHK大阪ですので谷四へ設置したのでしょう。
毎週、大河ドラマ「真田丸」を見ていますが、けっこう最新の資料に基づいて脚本が書かれています。大体、真田幸村ではなく信繫にしたのはすごい!幸村の名前は江戸時代に勝手につけられましたが講談などで流布してしまい、それ以来、幸村が定着してしまいました。
■武田勝頼が滅んだ理由の一つが浅間山の噴火
信玄が死去した後も領国を守り、しかも拡げていたので名将でした。ところが織田軍の侵攻にあわせ東国で異変が起こる前兆だと考えられていた浅間山の爆発が起きてしまい、武田軍はボロボロに。
当時、軍師などはおらず戦の吉兆を占う占い師が進言していました。爆発はかなりの心理的ショックを武田全体に与えます。
■家康の窮地を救ったのが慶長伏見地震
小牧・長久手の戦いで家康は戦術的に秀吉に勝ったという話が流布されていますが、江戸時代に家康の神格化ででてきた話で、戦略的には負けていました。秀吉は総戦力をつぎこんで家康を滅ぼそうと考えていたようで準備をしている時に発生したのが慶長伏見地震。
伏見城は崩れ、山之内一豊の娘も圧死しています。上方の被害が大きく家康と戦うどころでなくなったので和睦することになります。
大河ドラマ「真田丸」には浅間山の噴火も慶長伏見地震も出てきたので、今までの時代劇物とはだいぶ違いますね。
なんでツン読がたまってしまうのか
今日も本屋で5冊買ってしまいましたが、先週、買った5冊はまだ表紙も開けておらず、これでツン読の山に10冊が追加されました。
「本を買うスピード = 本を読むスピード」
となればツン読にならないんですが、どう考えても本を買うスピードが読むスピードにかなりの割合で勝っています。これが不思議なことにお酒ですと適正水準になります。近鉄瓢箪山駅近くにある瓢箪屋さん(地酒屋さん)へ行くと一升瓶をいつも3本ほど買ってくるのですが、次に買いに行くのは2本半ほど空いた頃になります。ですのでストックは一升瓶が3本。他にワインやビールも並んでいますが、それほどの量ではありません。ちょっと多いですが本の比ではありません(笑)!
これは代替と希少性の問題でしょうね。お酒は1本ごとに確かに味が違いますが、2・3杯飲んでいると酔っぱらってくるので、別になんでもよい状態になります。本の場合はそうはいきません。読んでいる推理小説が途中から歴史小説に代わったら誰でも怒ります。つまり本は代替が難しい商品となります。
もう一つは希少性。出版不況のため出版社は自転車操業に近い状態になっています。出す部数が減り、出版点数が増えていますから、新刊といえども目にした時に買っておかないと、すぐに返本され、店頭から消えてしまいます。書籍の返品率は40%ほどで、配本された本を書店に並べもしないで返す”即返”もあります。ですので”本は見た時に買え”が鉄則です。
この代替と希少性の問題があるため、やはり本を買ってしまいツン読になるんでしょうね。
と自分を納得させていますが、せっせと本を読まなくちゃあ!
全国国衆ガイド
最近読んでいるのが、星海社新書から出ている「全国国衆ガイド 戦国の地元の殿様たち」。
来年の大河ドラマは真田丸だし、ちまたは戦国ブームのようですが、よく国衆の本を新書で出しましたね。こんなマニアックな本が売れるのかなあ。
国衆というのは戦国大名ではなく、地元を支配していた氏族。例えば「のぼうの城」で有名になった忍城をおさめていたのは成田氏で、国衆です。織田信長も、もともとは勝幡織田家という国衆からスタートしました。
伊勢の国では長野氏、木造氏、関氏、神戸氏、田丸氏、梅戸氏、大河内氏、坂内氏が、伊賀では田矢氏、福地氏、志摩は越賀氏、九鬼氏が取り上げられています。
「あとがき」には国衆に関するはじめての一般書とありますが。売れるのかなあ。
フリーランスの定休日
今年度から中小企業白書の他に小規模企業白書という新しい法定白書ができました。昨日の理論更新研修では、題材に小規模企業白書を取り上げたのですが、フリーランスの実態調査が掲載されています。
その中にでてくるのがフレーランスの定休日。土日や祝日に休むが2割で、休日が決まっていない不定休が8割。ようは自分で休みと決めたら休みです。まあ休んだ分だけ収入が減るという厳然たる事実があります。(笑)
日曜だというのに、朝からせっせと家で原稿書きの仕事をして、小規模企業白書の通りだなと思っています。もっとも能率があがるように飲みながら書いているので、そこらへんは割と自由ですね。ただ飲みすぎると能率がだんたん落ちていくので、見極めが難しい点が難点。
って、飲まずに仕事をすればよいですが、やっぱり日曜ですからねえ(笑)。
本日、中国大返しがスタート
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が発生。織田信長は「是非に及ばず」という言葉を残し、本能寺の炎に消えます。新暦で言えば、この日曜日。
月曜日、備中高松城を水攻めしていた秀吉の陣に本能寺の変の一報がもたらされます。秀吉はさっそく安国寺恵瓊を通じて、毛利側と交渉、和議を結びます。昨日の火曜日、堀尾吉晴(後年、国宝・松江城を造ります)と蜂須賀正勝を立会人にして清水宗治・自刃の検分を行います。
本日、和議に従い毛利が撤退をはじめたのを確認し、水攻めしていた堤防を決壊。今から姫路をめざし、中国大返しが始まります。
当時も今日のように蒸し暑い一日だったんでしょうかあ。姫路まで駆けるのは大変だったでしょう。433年前、今日が中国大返しスタートの日でした。
総社はめんどうくさいから生まれた
備中高松城シリーズの番外編。
岡山から高松城へ行く途中にあった備前国一宮・吉備津彦神社へ行ってきました。中山の麓にありますが、山の反対側には備中国一宮・吉備津神社があります。吉備津彦命は崇神天皇の時代に日本の4ケ所に派遣された四道将軍の1人で、山陽道に派遣されました。お墓は山の上にありますが、
邪馬台国ではないかといわれている奈良の纏向遺跡から吉備の土器が見つかっており、最初の国造りに参加したのは確実なようです。吉備津彦神社のあたりが古代の聖地だったんでしょうね。
岡山に総社市というところにありますが、昔、国司が任地に赴任すると一宮から順番に土地の神様を回っていました。ところが、全部回るのは面倒くさいと始まったのが総社です。これは国内の神社を国府の近くの1ケ所に集めることで、総社神社や六所神社という名前で全国に残っています。
岡山県の総社市には美作国の総社神社があります。