京都駅

京都駅前にある羅城門模型と京都タワーです。

羅城門と京都駅
羅城門と京都駅

大学1回生の頃はまだ京都市電が走っていて外周線(九条ー東大路-北大路ー西大路)だけ残っていました。京都駅前からは七條通りを通って東山七条で外周線に接続していましたので時たま市電に乗って烏丸車庫で降りていました。ちょうど一回生の1978年9月30日に廃線になってしまいます。モータリゼーションはわかりますが風情があってよかったのに残念です。

国鉄時代、津から京都まで急行1本で行けた時代がありました。始発はどこか覚えていませんが紀勢本線を走って亀山へ出て、そのまま関西本線を柘植まで走り、今度は草津線に入って草津に出て、最後は東海道線で京都が終着駅です。近鉄だと中川と八木で乗換が必要でしたので本数は少なかったですが便利でしたねえ。

廃線跡をゆく 嵯峨野トロッコ列車

廃線跡をゆく

山陰本線の廃線跡に作られた嵯峨野トロッコ列車です。チケットがとれたので亀岡から嵐山まで乗ってきました。保津川沿いを進んでいきますが、ちょうど保津川下りをしているのが見られます。保津川下りの船は嵐山でトラックに乗せられ、亀岡まで運ばれるところを見かけます。

保津川は奈良時代から丹後の材木を運ぶために材木を筏にして流していました。江戸時代に角倉了以が保津川を開削して船が通れるようにします。最初に船に乗って保津川下りを楽しんだのが角倉素庵(角倉了以の息子)です。

嵯峨野トロッコ列車、秋だとライトアップや紅葉が楽しめますがチケットをとるのが大変ですね。

大仏鉄道2

2004年、知的生産の技術研究会・関西で大仏鉄道研究会に「なぜ大仏鉄道は消えたか?」というタイトルでセミナーをしてもらって以来、気になっていたので出かけてきました。加茂駅から大仏駅までを踏破するコースを歩いてきました。加茂駅から赤橋あたりまでは廃線跡が小道で残っていたり、レンガ造りの橋梁が残っていたり牧歌的な雰囲気です。ところが奈良に近づくと道路沿いを廃線跡をたどることになります。

大仏鉄道
大仏鉄道

大仏鉄道は山と谷が入り込んだコースで、奈良の手間に黒髪山越えという急勾配があり、当時の蒸気機関車には最大の難所でした。黒髪山から降りた所に大仏駅があったため、蒸気機関車にブレーキをかけて駅に止めるのが大変だったそうです。当時、真っ赤な蒸気機関車が走っていたそうで、大仏鉄道研究会でも探しているのですが、まだ写真が見つかっていません。

駅前に人力車がとまっていた大仏駅跡は大仏鉄道記念公園になっています。ここから佐保川を超えて奈良駅まで接続されました。

大仏鉄道

大仏鉄道って、ご存じですか?

大仏鉄道
大仏鉄道

100年以上前の明治時代の9年間、加茂駅から大仏駅まで、後に延伸して奈良駅まで走っていた路線です。目的は名古屋方面から奈良の大仏への観光客の誘致を図るためで大成功をおさめます。大仏鉄道が開通した朝日新聞のトップ記事は遼東半島の三国干渉という時代です。

この頃の西日本は私鉄が競争していた時代で、大仏鉄道の親会社である関西鉄道も奈良まで接続を目標にしましたが、大阪の湊町から奈良まで接続していた大阪鉄道との競争で奈良まで入れず、現在の奈良育英高校近くに大仏駅を作りました。一条通りから東大寺までは歩いて20分ほどです。大仏鉄道は現在の新幹線や近鉄と同じ広軌で作られていました。

大仏鉄道ですが急勾配の山を越える路線でコストがかかること、また平行して走る奈良鉄道(今のJR奈良線)の買収に成功したこともあり、わずか9年で廃線となってしまいました。時代は日清、日露戦争の頃で兵員や物資輸送に私鉄を乗り継いででは問題があるため鉄道国有化施策がスタートする、そんな時代でもありました。

C57

JR加茂駅の近くに保存展示されていたのがC57。懐かしいですね。Cなので動輪が3つあります。ちなみにD51はDなので動輪が4つになります。中学校への通学でディーゼル機関車が引っ張る客車に乗っていましたが、時たま蒸気機関車の時があり迫力がありました。

C57
C57

紀勢本線は単線なので駅と駅の間は閉塞区間になります。閉塞区間に入る時は必ず通票がはいった輪っか(タブレット)が必要でした。急行や特急が駅を通過する時はホーム入口あたりで、そこまでの閉塞区間の輪っかを立っている棒にひっかけて、ホームの端あたりで駅員が高く、次の閉塞区間の輪っかをあげ、車掌が通り過ぎながら腕で掴む職人技を見ることができました。今は信号にすべて変わってしまいましたね。

蒸気機関車では機関助士がこの輪っかを渡したり受け取ったりしていて迫力ありました。

紫香楽宮跡駅

紫香楽宮の最寄り駅は信楽高原鉄道の紫香楽宮跡駅。JR草津駅の貴生川駅から二両編成の列車に乗り込みます。車内はほぼ満員ですが、紫香楽宮跡駅で降りたのは私一人だけ。ローカル線アルアルで一番前のドアしか開かないので前の方にはいたのですが、さすがに誰も降りないのには驚きました。

紫香楽宮跡駅
紫香楽宮跡駅

紫香楽宮や甲賀寺巡りをする人はいないようで、巡ってみても車で来ている人もいませんでした。そんなに信楽のタヌキがいいんですかねえ。帰り紫香楽宮跡駅から乗り込んだのも私一人だけ。車内は信楽観光した乗客で満員でした。

別府鉄道

大中遺跡公園の横にあるのが播磨町郷土資料館で、行ったら館内工事中とかで閉館していました(泣)。資料館の横にあったのが別府鉄道の展示。別府は「べっぷ」ではなく「べふ」と呼ぶそうです。

別府鉄道
別府鉄道

調べてみたら軽便鉄道だったそうで、野口線と土山線の2つの路線があり、1984年に廃止されていました。もともとは化学肥料の運搬用で土山線は国鉄の土山駅と別府港駅を結び直接、国鉄の山陽本線に連絡できたことから、国鉄との貨物輸送にも使われていたそうです。土山駅から大中遺跡まで、オシャレな遊歩道が続いているのですが、これが廃線跡でした。

近鉄デルタ線

近鉄名古屋線と大阪線が合流するのが伊勢中川駅です。伊勢中川駅の前に短絡線があり、伊勢中川駅に寄らずに列車が運行できるデルタ線になっています。デルタ線とは三角形状に敷設された鉄道線路の配線のことです。この短絡線を名古屋ー難波を結ぶ特急が走っています。

近鉄デルタ線

デルタ線ができたのは、けっこう古く1961年です。近鉄大阪線は広軌、名古屋線は狭軌で線路の幅が違っていたため直通運転ができませんでした。伊勢湾台風の復旧時にあわせて名古屋線を広軌としたため線路の幅が統一されます。しばらくは伊勢中川駅でスイッチバックしていたのですが、しなくてもよいように短絡線が作られました。

デルタ線は割とよくあり、名鉄では枇杷島駅近くにもあります。

吉野軽便鉄道

近鉄吉野線・六田駅近くに吉野軽便鉄道の看板がありました。

六田駅
六田駅

吉野軽便鉄道について調べると1912年(大正元年)に国鉄・吉野口駅から吉野駅(今の六田駅)を結ぶ軽便鉄道ができたそうです。六田からは柳の渡しで吉野川を渡り吉野山へ向かいました。

その後、近鉄の前身である大軌に買収され、そのまま軽便鉄道の路線を使って今の近鉄・吉野線になっています。それで古いトンネルや鉄橋が吉野線に残っているんですね。なかなかの山岳路線で山の中をひたすら登っていきます。1928年(昭和3年)に現在の吉野駅ができたため、これまでの吉野駅が六田駅に改称されました。

昔、軽便鉄道は吉野への観光客以外に木材運搬にも使われていたので国鉄との貨車直通が行われました。そのため鉄道は狭軌になっています。なるほど八木から橿原神宮駅へ向かうと、橿原神宮駅の構内を歩いて吉野線まで歩かないといけないのは線路の幅が違っていたからですね。吉野線はそのまま近鉄・南大阪線につながっていますので、この路線は全て狭軌になっています。

吉野の桜の時期には湊町(JR難波)-王寺-高田-吉野口-吉野という吉野行観桜列車が走っていたそうです。

近江塩津駅

琵琶湖の北側にある近江塩津駅。冬はめちゃくちゃ寒そうなホームです。ホームの乗り換えや駅から出るには、けっこうな階段を降りる必要があります。

近江塩津駅
近江塩津駅

大阪から琵琶湖線経由の新快速に乗ると近江塩津駅が終着駅になります。ただここまでたどりつく人はほどんどおらず、大体は彦根や長浜といった観光地で下車します。静ヶ岳の戦いの舞台や小谷城攻めなどを巡るには最適な路線です。

近江塩津駅で湖西線と合流し、湖西線の新快速はさらに峠を越して敦賀駅まで向かいます。敦賀から出た新快速は京都、大阪、神戸を通って姫路から播州赤穂まで行きますので、めちゃくちゃの長距離運行ですね。福井、滋賀、京都、岡山、兵庫と岡山の県境まで5府県をまたがって運行しています。