大和郡山城

大和郡山城

平城京・羅生門の最寄駅が近鉄郡山駅です。駅のすぐそばに大和郡山城があり、城の中を近鉄線が通っています。

大和郡山城は小さな城があったのを筒井順慶が大幅に改修し、筒井氏が伊賀に転封した後は羽柴秀長が改修して居城にしました。羽柴秀長といえば来年の大河ドラマの主人公です。「2026年放送NHK大河ドラマ『豊臣兄弟』 秀長さんゆかりの町」というノボリがたくさん並んでいました。

羽柴秀長は兄の秀吉を大いに助け天下取りに貢献しました。最後の仕上げである小田原攻めの時に大和郡山城で病死します。市内には大納言塚というお墓があります。

下ツ道をゆく(13) 番条環濠

番条城

下ツ道から少し西に行くと番条環濠があります。佐保川に沿って南北に伸びた番条城で、北は菩提仙川が掘替わりになっています。中世は3つの郭で構成され北側から北ノ城、北薮、南薮という地名でした。番条城の東側には堀跡である水路が今も健在です。

大乗院の衆徒だった番条氏の居城で越智氏とともに筒井氏と対立していましたが、長禄3年(1459年)筒井方に攻められ敗れました。番条氏は筒井氏に従うことになります。写真は北藪にある堀跡(念仏堀)です。と言っても今はただの水路になっています。筒井氏との戦いで堀に落ちて多くの戦死者が出たことから念仏堀という名前になっています。

三宅八幡城

三宅八幡城

三宅八幡神社の背後の山に築かれた山城です。比較的、簡単に登れる山城ですがゴルフ練習場が麓にあり山城にまでネットが張られていて、かなり改変されています。南側にある削平地をすすんでいくと倒木が多い一帯があり、かきわけていくと郭に入れます。登っていくと主郭があります。郭はよく分かりますが堀切などはだいぶ埋もれてしまっていますね。

いよいよ夏本番となり山城シーズンは完璧に終わってしまいました。

丸岡城

丸岡城

織田信長が越前一向一揆を収束させたあと、柴田勝家の甥である柴田勝豊が築城しました。柴田勝豊はこの後、近江長浜城主になりますが、秀吉と勝家が戦うことになった時、勝家との不和から離反して秀吉側につきました。

丸岡城は平山城で現存12天守の一つですが福井地震で倒壊したため、1955年に部材を再利用して再建されたものです。再建ですが昔の天守の姿をそのまま残していますから、2階、3階にあがるにはハシゴのような階段を使う必要があります。崖のような階段で上から縄がぶら下がっているので、これを頼りに登ります。

■一筆啓上
丸岡城の城主はいろいろ変わりますが、有名なのが本多成重です。というより本多成重の父親である鬼作左(本多作左衛門重次)が有名で、家康に従った戦いで陣中から奥さんに「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という日本一短い手紙を送ります。このお仙が本多成重の幼名です。

鬼作左ですが勇猛は世間にとどろいていました。岡崎奉行になった時に法令を住民が守らないと部下から相談がありました。法令が書かれた高札を見ると漢字ばかりの文章になっています。さっそく全部かなで書き、最後に「この法律を守らぬと鬼作左が怒るぞ」と書いたら効果てきめんでした。

福井城

福井城

柴田勝家の北ノ庄城のあとに入ったのが家康の次男である結城秀康です。

結城秀康は小牧・長久手の戦いで和睦の条件として、秀吉のもとへ人質として養子に出されます。やがて宇都宮の結城氏の養子となり関ケ原の戦いでは上杉景勝の江戸への南下を防ぐことになります。この戦功で北ノ庄を拝領することになり、北ノ庄を福居(福井)に改名して福井城を築城します。

久しぶりの福井城で廊下橋(屋根と壁の付いた橋)が復元されていました。和歌山城の廊下橋とよく似ています。本丸の石垣と堀が残っていますが、本丸には福井県庁などがあります。

北ノ庄城

北ノ庄城

福井駅の近くにあるのが北ノ庄城。このあたりが越前国足羽郡北ノ庄という地名でした。柴田勝家は一乗谷城の山城をやめて1575年(天正3年)に北ノ庄城を築城します。記録によれば天守は9重ということで巨大な建物でした。柴田勝家は秀吉と賤ヶ岳の戦いでぶつかりますが敗れ越前に向けて退却します。

小谷城の戦いで退却する朝倉義景を追撃した織田軍が佐久間信盛、柴田勝家、滝川一益、木下秀吉、丹羽長秀の面々、小谷城のちょっと北にあるのが賤ヶ岳です。朝倉義景と同じ北陸街道を追撃しますので柴田勝家、秀吉ともども朝倉義景の追撃戦を思い出したでしょう。

柴田勝家は北ノ庄城でお市とともに自刃。三姉妹は秀吉に預けられることになります。北ノ庄城は福井城ができる時に取り込まれてしまいましたが発掘調査で一部が残っています。

朝倉景鏡邸

朝倉景鏡邸

下城戸の近くに朝倉景鏡邸跡があります。朝倉館と同様に土塁と堀に囲まれた城郭建築になっていますが、堀は埋められ土塁はかなり低くなり野原です(笑)。こんな所を見学している人はまずおりません。

■義景を裏切った人物
朝倉景鏡という有名人の邸宅跡で、なんで有名かと言えば朝倉義景を裏切った武将として有名です。景鏡は朝倉一門ですが浅井長政を救援するための小谷城出兵を拒否します。結局、朝倉義景自らが小谷城へ出陣しますが、敗れてしまい、信長はそのまま追撃して越前まで侵攻してきます。景鏡は朝倉義景に一乗谷を逃れて越前大野での再起を進言します。朝倉義景は従いますが、実は裏切りで自刃に追い込まれます。

朝倉景鏡は信長に降伏し許され、信長の字を拝領して土橋信鏡と名乗るようになりますが越前一向一揆で戦死してしまいます。

武田勝頼が信長に攻められて滅ぶ時、小山田信茂が同じように裏切りますが、この時は不忠ということで処刑されてしまいます。この違いはなんなんでしょうね。朝倉景鏡は義景との関係が微妙だったので、信長とそれ以前から通じていたかもしれません。一乗谷は信長軍によって火をかけられ灰燼に帰します。

トイレ(一乗谷)

トイレ(一乗谷)

戦国時代、一乗谷には1万人ほどが100年にわたって生活していました。堺が3万人、信長の安土が6千人ほどからスタートして最盛期は1万5千人ほどでしたので、一乗谷は都会だったようです。往時の街並みの一部が発掘調査に基づいて復元されていました。

復興した戦国の街は周りに電線などがなく、よく映画やテレビのロケに使われています。城下町としてよく整備されていたようで、各家には井戸とともにトイレが完備されていました。トイレは穴を掘ったボットン便所で、堆肥に使っていました。発掘調査で和式トイレにある金隠しが発見されたためトイレと判明しました。また火縄銃の部品や坩堝、弾丸なども見つかり城下町には鉄砲工房もあったようです。

朝倉館

朝倉館

一乗谷の中心部にあるのが朝倉館。入口の唐門が写真映えするので観光客は唐門ばかり撮影しています。朝倉館は完璧に城郭仕様になっています。特に南西の土塁は広く櫓がおかれていたようです。館の裏側にまで登りましたが、深い堀が続いていて防御は完璧ですね。

■足利義昭 元服の舞台
ここに最後の当主になった朝倉義景が住んでいました。三好衆から逃れてきた足利義秋(還俗し逃亡中)を迎え、朝倉義景がここで烏帽子役となり元服を行い、足利義昭と名乗るようになります。

足利義昭は3年間、滞在しますが織田信長に乗り換えることになります。一乗谷は安波賀の港から三国湊につながっていたので交易品もよく入っていました。館跡からはガラス容器(ベネチアングラス)などが発掘されていますので、朝倉義景も信長のようにワインを楽しんでいたかもしれません。

上城戸

上城戸

下城戸と対になるのが南を守る上城戸です。下城戸と上城戸ではさまれた地域が一乗谷になります。上城戸は土塁と堀で構成され、土塁の長さは100mを超え、高さは5mあります。大宰府を守る水城のような感じですね。賤ヶ岳の合戦で秀吉が作った東野山砦から堂木山砦まで結んだ土塁もこんな感じだったのでしょう。

上城戸の山側には平坦地が作られ櫓があったようです。あとで確かめると上城戸の外側に美濃から逃れてきた斎藤龍興や近江の浅井氏などの有力武将の屋敷もあったようです。その先には足利義昭が滞在した安養寺跡もありました。上城戸でUターンしたんですが、もうちょっと先まで足をのばせばよかったなあ。