下居出城

下居出城

中大兄皇子と鎌足が蘇我氏を倒す密談をしたのが談山神社。談い(かたらい)から談山と名づけられました。談山神社を中心に城が造られ多武峰城塞群と呼ばれています。まだ行けていなかった下居出城に登ってきました。多武峰城塞軍の最北端に位置します。

大和は興福寺が守護の代わりで大きな勢力はなく国衆通しで争っていました。そこに松永久秀が攻め込んでくるなど混沌とした状態です。長期にわたり明日香から多武峰一帯に城塞群が構築されました。下居出城は多武峰街道を倉橋から攻めてくる室町幕府軍に対抗した越智氏・箸尾氏のいずれかの城だったのでしょう。

多武峰街道から山の麓にある神明神社を目指します。神社裏からエッチラオッチラ直登すると尾根に到達しますので、ここから尾根を進んでいくと下居出城に着きます。実は神明神社前を通り過ぎて北に少し進むと山道があり、ここから尾根にとりつく方が楽ですね。帰りはこっちの道で戻ってきました。

下居出城は3つの堀切で遮断された郭があるのですが、見どころは三重に続く畝上竪堀です。見事に残っていました。

芦浦観音寺館

蘆浦観音寺館

草津市芦浦町に観音寺という古刹があり、秦河勝が創建したと伝わるので飛鳥時代ですね。ここが戦国時代に城へと変貌します。

東山道の守山宿から琵琶湖の志那港を結ぶ志那街道が寺の近くを通り、琵琶湖を通じた往来の要所になっていました。観音寺は室的幕府から船奉行に命じられ、以来、信長、秀吉、家康時代と100年以上も船管理にあたりました。江戸時代の貞享2年(1685年)に何でか知りませんが罷免されました。寺は江戸に移転させられ、寛永寺に明王院として存続しています。

寺といいながら水堀で囲まれ、門は桝形になっています。石垣が巡らされており堅固な造りになっています。

長束正家館跡

長束

長束正家ってご存じですか?

秀吉亡きあと、豊臣秀頼を支えた五奉行の一人で算術も得意で武功もある文武両道の武将です。忍城の戦いで副将として三成を助けますが、映画「のぼうの城」では忍城に軍使として遣わされ横柄な態度をとり成田長親は籠城することに決めることになります。まあ映画の話なので(笑)

関ヶ原の戦いでは西軍につきましたが毛利秀元、長宗我部盛親、吉川広家とともに南宮山に布陣しましたが、吉川広家が寝返り戦に参加できずに負けました。水口岡山城に戻りましたが切腹させられました。もともとは水口氏という名前でしたが長束村に移った時に、長束氏と名乗りました。草津市長束町には長束氏館跡があり、今も土塁の一部が残っていました。

近江安村城

近江安村城

伊勢遺跡をGoogleマップで見ると近くに近江安村城があることが分かり行ってみました。

と言っても城跡は何も残っておらず日吉神社あたりが水路に囲まれているので、堀跡の名残でしょう。平城で阿村集落にあり、阿村城とも呼ばれていました。江州佐々木南北諸士帳という近江守護だった佐々木氏時代の城名と城主一覧があり安村城には城主として安むら善兵衛の名前が記載されています。

近くには野尻城、下鈎城、上鈎城(鈎の陣で有名で土塁などが残っています)、勝部城などがありました。佐々木氏の本拠地だった観音寺山城が近くなので信長が足利義昭を奉じて上洛する時に佐々木氏(六角氏)が敗れたので、進路沿いにある近江安村城も攻められたか逃げたでしょう。

烏帽子形城

烏帽子形城

三日市町駅から汐の山城・仁王山城を目指すのに、結局は2つの山を登る羽目になったので帰りは河内長野駅を目指します。となると途中にあるのが烏帽子形城です。

結局は烏帽子形山に登って、久しぶりに城跡を見てきました。昔は小さな案内板しかなかったのですが、きれいに整備されていました。発掘調査も行われ主郭には瓦が使われた建物が2つあり、礎石が復元されていました。天守というものではありませんが、山城には珍しい建物ですね。

烏帽子形城は、それほど大きな山城ではないのですが、土塁と横堀の多くが効果的に配置された構造になっています。楠木正成が上赤坂城の支城として造ったという説があります。高野街道を見下ろす要所にあり、応仁・文明の乱では畠山義就と畠山政長の争奪戦の舞台ともなりました。秀吉の時代となり、紀州攻めの拠点として改築されましたので瓦付き建物はこの頃のもののようです。

仁王山城

仁王山城

汐の山城のある旭ヶ丘団地の西側に山があります。山には廣野神社という小さな神社があり、この神社横の山道を入っていくと仁王山城にたどりつけます。

Googleマップには日の谷城と仁王山城の二つが出てきますが、どうやら一つの城のようです。大きな削平地があり、削平地の周りは切岸になっています。城跡のようですが、それにしては堀切などがなく防衛力もそれほどでもなく、よく分かりません。

仁王山城は比定地が3つあって旭ヶ丘団地はその一つです。仁王山城は南北朝時代の古文書に名前が登場し、室町時代になって畠山義英と畠山尚順の戦いでは義英が仁王山城に陣取ったようです。今は草木に覆われていますが当時は金胎寺城、嶽山城、旗蔵城、石仏城が一望できたでしょう。

汐の山城

汐の山城

仁王山城へ行こうとGoogleマップを見ると手前に汐の山城跡がありました。住宅街開発で城は残ってなさそうです。まずは最寄駅である南海高野線・三日市町駅を目指します。三日市町駅を降りて汐の山城方面へ向かうと、どんどん高台に登っていきます。坂をひたすら登って着いたのが南花台というニュータウン。山を開発した町で眺めがいいですね。

スーパーコノミヤがあって、ここから汐の山城へ行けそうです。と細い道に入ったら道がどんどん下って行きます。せっかく、ひと山登ったのに!案の定、谷筋まで出てしまいました。

ここから再度、登り直しです。旭ヶ丘というニュータウンに着きました。汐の山城跡の主郭は送電線の鉄塔になっていました。河内長野が一望でき、金胎寺城や嶽山城がよく見えます。

    興蔵寺城

    興蔵寺城

    石仏城と同様に情報が少な貝塚にあるい興蔵寺城

    麓にある興蔵寺の南にある池から山道を行くと興蔵寺城に登城できるという資料を見つけました。2つ目の池を進んでいくと山道が分岐していて左手の山に入っていけそうで、これが登城口だろうと分け入ります。資料にある通り、途中で山道がなくなり、あとは尾根を直登するだけです。笹藪だらけですので冬しか登れません。

    興蔵寺城は一城別郭になっていて2つの尾根に郭が作られています。けっこう大きな山城で見ごたえはありますが、藪や倒木をかき分けるのが大変です。根来寺側の防衛ラインに位置する山城ですので、根来寺側として整備されたのでしょう。帰りに郭がある尾根の谷筋から下に降りられる道を見つけましたが、途中でなくなってしまい、結局は無理やり降りることに。一つ目の池の近くに出ましたが、こちらの道を探すのは難しいですね。

    石仏城

    石仏城

    河内長野の先に南海電車・美加の台駅があり、この近くにあるのが石仏城です。事前に城への行き方を調べましたが情報が少なく、2つほどのピークを越えてたどりつけたという情報を見つけ正月明けにトライしました。

    新池ちかくの細い道から山に入れる山道があるという情報でしたが発見できず、仕方ないのでピークに向けて直登です。なんとかピークにたどりついて今度は城の方向へ下っていくと途中で山道を発見。これをたどっていきましたが、保全用の路だったようで、結局は鉄塔が建っている山頂にたどりつき城跡を探しましたが、どこにもなし。1時間以上もさまよったのでこの日は断念して下山しました。後で調べると北にずれていました。

    再度、調べなおすと新池からの細い道を通って、途中から城に登れる山道があるという情報を発見。新池の北東角から細い道に入って右手に棚田をみながら進んでいきます。だんだん登り道になり山に入るところで道が二手に分かれています。あれま!

    とりあえず城にちかい左の道を選びましたが下り道になり、どうも違うようです。仕方ないので道が二手に分かれる付近に戻って尾根を直登することにします。冬なので藪も突破しやすく、ひたすら登りますと郭跡に出ました。藪が多いのが主郭や土塁などが確認できました。

    石仏城は東高野街道沿いにあり紀伊との国境に最も近い山城で楠木正成が紀州からの来襲を防ぐ目的で築城したと言われています。戦国時代は畠山氏の合戦で使われたようです。

    大河原城

    2025年初山城は大河原城へ

    大和街道(関宿から伊賀上野を経由して奈良へ至る道)沿いにある山城で、木津川の支流である渋久川がすぐそばを流れています。貞観元年(896)年の記録に出ている古社・国津神社の東側に春光寺があります。寺の前の道を東に進むとグランドの北側に公園があり、この公園を横切ると山裾にお墓があります。このあたりから堀切になっているようで登っていくと土橋らしきものに出て、ここから尾根まで斜めに登れる道があり郭に入れます。

    三日月状の郭になっていて、郭がいくつも連なっています。周りを土塁に囲まれた大きな郭があり、ここが主郭だったようです。南西方向に350mにも延びる連郭式と言われる大きな城で、JR関西線や大和街道などによって城域が途切れています。