馬堀城

馬堀城

山陰道を歩いていると馬堀駅(トロッコ列車の乗車駅近くの駅)近くで馬堀城を発見。

って、Googleマップに載っているのを見つけただけです。行ってみましたが現地には説明板も何もありませんでした。少し高台になっていて、Googleマップを見ると北垣内という地名があります。家に帰って調べると馬堀城の縄張図があり、主郭は馬堀駅前あたりで3つの郭からなっていたようです。少し離れたところに見晴という地名があり、城の見張り台があったようです。後で見晴公園に行きましたが、高台で眺めがいいですね。

天正年間(1573~92)に山田五兵衛なる人物が馬堀城を拠点にしていたと記録はありますが詳しいことは分かっていません。

古世(こせ)城

古世城

亀岡駅と馬堀駅の間に昌寿院というお寺があります。山陰道の近くで、ここにあったのが古世城です。昌寿院が二の丸跡で、3つの郭からなっていたそうですが城の遺構は残っていません。寺の前にあった案内板によると楠木正成の次男である正時(四條畷の戦いで楠木正行とともに戦死)の子孫が代々住んでいたそうです。

天正7(1577)年に織田信長の命で明智光秀が亀山城を築城するまで、この古世城が丹波の中心でした。古世城の東側に年谷川が流れ、堀になっていたようです。亀山城を造る時に組み込まれ、古世城の空堀はそのまま亀山城の総構え堀として利用されたようです。

保津山城

保津山城

保津東砦から二重堀切を超えると保津山に登る山道(送電線の保線路)があり、これを登っていきます。途中までは階段もあって快適に登れます。保津山城は保津城の詰城だったようです。規模が大きな郭が数段にわたって連なっていて、送電線の鉄塔よりも奥に郭が続き、頂上付近にある大きな堀切まで続いていました。

堀切は堀切道として使われていますが、こちらから城に入るのはけっこう大変で、二重堀切から登るのが一番です。堀切道は丹波と京都を結ぶ街道だったため、この街道を守るための城でもありました。

保津東砦

保津東砦

保津城の裏側に土橋があり、ここから山道が続いており、頂上ちかくまで登ると見事な二重堀切があります。二重堀切の東側に郭が連続しており、今は低くなってしまいましたが土塁跡が残っていました。ただ小規模なので砦だったようです。今は林などで眺望がさえぎられていますが、当時は保津川や丹波亀山(亀岡)の地がよく見えたでしょう。

また砦の近くを丹波と京都を結ぶ街道が通っているので、こちらを監視する砦でもありました。

保津城

保津城

亀岡駅からサンガスタジアムを横目に進んでいくと保津川下りの乗船場があり、橋の下を乗客を乗せた船がくぐっていきます。さらに山へ登っていくと京都へ向ける明智越と呼ばれる山道があり、この山道を守る位置にあるのが保津城です。いつできた城かは分かりませんが、南北朝時代の観応3(1352)年に保津城を攻め落とした文章があり、それ以前に城があったようです。

光秀の頃には村上紀伊入道が保津の領主だったようで、柿を送ってもらった光秀からの礼状が残っています。保津城には三段になった郭や堀切、土塁が残っています。ちょっと高くなった櫓台跡もありました。広い郭は館城になっていたようです。藪もありますが比較的整備されていて案内板もありました。

丹波亀山城

丹波亀山城

明智光秀は丸岡城(余部城)を拠点にしていましたが新たに荒塚山と呼ばれる小高い丘に丹波亀山城を築城します。JR亀岡駅のすぐ近くです。丹波攻略の拠点にするため城下町を整備し総構えになっていました。本能寺の変で光秀が出立したのがこの丹波亀山城です。

その後、城主がいろいろと変わり、小早川秀秋によって修築され、家康の時代になると天下普請により藤堂高虎の縄張りによって近世城郭となりました。現在の城はこの当時のものですが、石垣の下の方は野面積みになっていて光秀か小早川の時代の石垣でしょう。途中から打込み接ぎになっていて変遷を楽しめます。

大正時代に荒れ放題になっていて売りに出された丹波亀山城を買ったのが亀岡生まれで大本の教祖となる出口王仁三郎です。太平洋戦争中は軍部から迫害を受けてせっかく整備した丹波亀山城も破壊されましたが、戦後に石垣などを積みなおし再整備しました。今、中心部は宗教施設になっていますが、総合受付で入館券を購入すれば天守台近くまで行けます。

丸岡城(余部城)

丸岡城(余部城)

京都から続く山陰道が亀岡の曽我谷川を超えると余部という場所になります。ここで山陰道と別れ、篠山街道が始まります。いきなり高台を登ることになり、この高台にあったのが丸岡城で、付近には古城、政所などの地名が残っています。昔は曽我谷川などが城の近くにあり天然の堀になっていました。応仁・文明の乱の時には城はあり、丸岡城は東軍の拠点になっていました。

明智光秀の丹波攻めで丸岡城は落城し、光秀は丸岡城を拠点にしていましたが新たに亀山城(今の亀岡城)を築いて移りました。丸岡城の遺構は残っておらず主郭のあったところが西岸寺になっていて高台なので亀岡を一望できます。

北山城

北山城

北山城1988年、奈良大学城郭研究会によって発見された城です。多武峰城塞群は御破裂山城を中心に広い範囲に城郭跡が拡がっており、北山城は下居出城の西側で見つかった城です。談山神社から談山城、御破裂山城を経由し、念踊堀地区の城郭群はスルーして北山城を目指します。

■北山城
北山城の縄張図の地図しかなかったため、これかいなとあたりをつけて山林道から近くの山を登りますが、はずれが2回続きます。なかなか疲れます。ようやく手力雄神社手前で山林道からはずれる山道を発見、進んでいくと目印になる石仏があります。この石仏の裏側から尾根沿いに小規模な郭が続きます。各郭の高低差が大きく、主郭にたどりつくまで、ほとんど登山です。主郭からは、いくつかもの尾根沿いに小規模な郭が続いており堀切もありました。

■大和永享の乱の舞台
北山城については奈良大学の千田先生がまとめた資料があり、それによると1438年(永享10)に起きた大和永享の乱で幕府軍に対抗するために越智氏と箸尾氏が倉橋陣で戦い敗れた記録があり、北山城は大和勢の詰めの城として機能していたようです。北山城からの帰りは山林道をずっと下っていくと倉橋に着きました。距離的には談山神社と倉橋との間ぐらいで、北山城へ行くには倉橋から登るより談山神社から降りる方が楽そうですね。

御破裂山城

御破裂山城

談山からさらに登っていくと多武峰の頂上となり御破裂山という名前になっています。

藤原鎌足の廟所があり天下に異変があると鳴動するといわれ御破裂山と言われています。ここも多武峰城塞群の一つで廟所が郭になっていて帯郭が巡っています。北側には堀切があり、また談山から登っていく途中にも堀切がありました。ここには展望台があり大和三山や二上山がよく見えます。

談山城

談山城

談山神社の横から山道を登って多武峰を目指します。雪中行軍になってしまいましたが、頂上の手前にあるのが談山(かたらいやま)。中大兄皇子と中臣鎌足が乙巳の変の密談をした場所ですが、こんな高い山まで飛鳥から登るんですかね。岡寺の裏あたりで十分のような気がします。

戦国時代、談山は山城でした。ただ砦のような出城だったようで主郭と帯郭で構成されたこじんまりとした城になっています。大和では

永享合戦 永享10、11(1437,1438)年 後南朝+越智+箸尾 VS 室町幕府
永正合戦 永正3(1506)年      越智+箸尾+十一 VS 赤沢朝経(細川政元)
永禄合戦 永禄2-6(1559-1563年)   十一 VS 松永久秀

と多武峰から飛鳥にかけて合戦が行われました。談山が砦になったのは永享合戦の頃のようです。