城ケ谷城

城ケ谷城

櫨谷(はせたに)の谷筋に作られた支城の一つ。神戸加古川姫路線(65号線)のすぐ横にある台地の上に造られています。

場所のあたりをつけて城へ行ける道を探ります。道を進んでいると軽トラが反対側からやってきて、城について聞いても、この先は果樹園だけという返事。城ケ谷城の名前は聞いたことがないそうで端谷城しか知りませんでした。気を取り直して、別の場所からアプローチすると果樹園に出てしまいました。あれま!

もう少し進んで違う農道から崖を登ってみると、おお!郭に入れました。ですが、藪だらけですね。隣が主郭なので、そちらに突入。郭の中は藪だらけで、さすがに中に入れないので、土塁上をずっと歩いていきますが一周は無理でした。ですが、けっこう技巧的な城造りでした。

城ケ市城

城ケ市城

端谷城には支城がつくられ、その一つが城ケ市城です。端谷城の東側にある山の上に築かれています。山に入ると堀底道があり、そこをあがると郭に入れますが、あんまり手をいれていない印象です。兵の駐屯が中心だったのかもしれません。郭跡はありますが、土塁や堀切などは見つけられませんでした。

頂上まで上がると広い主郭があり、秋葉神社がありました。秀吉軍の端谷城攻めに対応して急遽、造った城かもしれません。それにしては防御が弱いですね。

端谷城

端谷城

神戸市地下鉄の西神中央駅からひたすら歩くと櫨谷(はせたに)町があります。ここの高台に登ったところに満福寺があります。満福寺の門前に端谷城の石碑が建ってしました。満福寺入ると、既に境内が郭跡で本堂の横を登っていくと大堀切があり、土橋を超えていくと主郭へ到達できます。山城には珍しく、きれいに整備されて案内板までありました。主郭の裏側はとっても深い堀切があり、すさまじい土木量です。主郭の前に広い郭があって瀬戸内海まで一望できます。

端谷城がいつ造られたのかは分かりませんが城主は鎌倉時代、国衙領を管理する保司を務めた衣笠氏です。もともとは赤松氏の一族、別所氏の分かれで応仁の乱では赤松氏に味方して奮戦したことで衣笠の名前を与えられたようです。戦国時代は別所氏とともに戦い、羽柴秀吉と対立しましたが、秀吉の三木攻めで、三木城が落ちた後に端谷城も落城しました。

丹波黒田城

丹波黒田城

丹波黒田城は園部川北岸の山頂に築かれた山城です。熊鈴を鳴らしながら登山道を登っていくと木に「黒田城 →」と記載された札がかかっています。これをたよりに登っていくと尾根の先端にたどりつき、ここにあるのが南出丸という削平地です。ここから急勾配の尾根をひたすら登っていくと南郭があります。南郭に入る前に谷まで伸びる2つの畝上竪堀があり、かなり深い堀でよく残っていますねえ。なかなかのスケールです。

南郭からさらに登ると頂上にある主郭に入れ、主郭にはお地蔵さんが祀られていました。ここから各尾根に郭が配備されていて北郭、東郭を巡って土橋や堀切などを楽しんできました。丹波黒田城はこのあたりの土豪である森氏が築城したようです。

■明智光秀に攻められて落城
森氏は八上城主の波多野氏とともに反信長側でしたので波多野氏などの応援をうけて城を整備したようです。天正8年(1580年)、明智光秀の丹波攻めにより、丹波黒田城は落城します。

園部城 堀跡プール

園部城プール

園部藩、250年間の悲願だった陣屋から城への転換ですが、結局、明治4年(1871)の廃藩置県で園部藩が廃止され、多くの建物が取り壊されました。せっかく建てたのに、もったいない。

園部城の本丸跡は園部高校の敷地になっていますが、切岸などを外から眺めることができます。隣は園部公園になっていて南丹市国際交流会館があり、外観が城郭風につくられているので、こっちを園部城と思っている人も多いでしょう。この会館前にプールがあって、会館から公園に行けるようにプールの上を通路が通っています。上から眺めると50mほどもあるプールで、どうみても堀跡です。

藤堂高虎が藩祖の津藩では隣に支藩となる久居藩を作りましたが、こちらも陣屋しか認められなかったのですが、溝と呼んで実際は堀を造っていました。念願は城でしたが久居藩はかないませんでした。そうそう日本海軍・軍艦の艦橋は、あの船に負けるなと、どんどん高くなっていったそうです。日本人は昔から櫓や艦橋などランドマーク好きですね。

日本最後の城「園部城」

園部城

京都府の園部町にあるのが園部城です。日本で最後に建造された城になります。元和5年(1619年)に外様大名である小出氏が但馬国出石城より移封され園部藩となりました。藩主には国主、準国主、城主、城主格、無城とあるなかで園部藩主だった小出氏は無城でした。築けたのは陣屋だけですが二重の堀や狭間を設けた塀もあり、実質的には総構えになっていて城でした。

ただし天守はおろか櫓や櫓門の建築は認めてもらえず城としてランドマーク不足で、ずっとコンプレックスだったようです。幕末の動乱期、園部は山陰道で京都に通じていますので、これはチャンスと禁裏を守るのを名目に幕府に櫓などの建築を申請したところ却下。再度、調整すると徳川慶喜が建築を内諾しましたが大政奉還でうやむやに。明治新政府ができたので願い出たらようやくOKとなり、水堀などを整備して園部城を造ります。ところが明治6年には廃城になってしまいます。

園部城は二重櫓、番所、櫓門がそのまま残っており、敷地は園部高校になっていて櫓門は校門になっています。

赤松広秀居館跡

赤松広秀居館跡

竹田城へ登る駅裏登山道近くに法樹寺があり、寺の奥に段丘状の削平地があります。こんなところはGoogleマップでも出てこないし、観光客は誰もいません(笑)。

発掘調査で石垣や石列が確認され、竹田城の一部として史跡に追加指定されています。赤松広秀の居館跡とみられています。赤松広秀は最後の竹田城城主で、もともとは龍野城城主でした。秀吉の中国攻めに従いましたが、龍野城を取り上げられていました。備中高松城の水攻めにも参加しています。小牧・長久手の戦いの後、竹田城へ移されます。

竹田では漆器作りや養蚕業を奨励していました。関ヶ原の戦いでは西軍に味方し細川幽斎の田辺城(舞鶴)攻めに参加しましたが、西軍が敗れたため帰還。説得され東軍となり西軍側の鳥取城を攻めましたが城下を焼き討ちしたことを咎められ、家康から切腹を命じられ、竹田城は廃城となりました。

竹田城 畝上竪堀

竹田城 畝上竪堀

竹田城の見学はワンウェイになっていて、南千畳から舗装路まで山道を降りますが、降りてから入口に登りなおすと畝上竪堀をみることができます。畝上竪堀とは平行に何本も竪堀を掘り、敵が斜面を横に移動するのを防ぎ、一列に並ばせて効率的に攻撃できるようにする仕掛けです。田んぼの畝のように見えることから名づけられました。

竹田城には何本か畝上竪堀があるんですが、見事なのが2本が並行する大竪堀です。山上から麓まで巨大な竪堀が掘られました。だいぶ埋まってはいますが、その一部を見ることができます。いやあ、いいものが見られました。

竹田城

竹田城

天空の城で有名な竹田城へ登ってきました。

12月は中腹まで登れるバスもなくなるため、竹田駅からえっちらおっちら登るしかありません。その代わり観光客はほぼいません(笑)桝形虎口など技巧的な縄張りを楽しんできました。

竹田城を築城したのは但馬守護だった山名宗全で、城主が変わるたびに改修されてきました。次回の大河ドラマは豊臣兄弟ですが、播磨、但馬を攻めた秀吉が竹田城の城代にしたのが羽柴秀長です。近くにある生野銀山をおさえる目的もありました。秀長は竹田城を中心に但馬の統治と山陰方面の平定をしています。

北千畳曲輪、南千畳曲輪、花屋敷曲輪の3つの曲輪群から構成され、それぞれ桝形虎口が作られています。山の上にこんな技巧的な城をよく作りあげましたね。

大和三山をゆく(6) 耳成山(天神山城)

耳成山(天神山城)

大和八木駅近くにあり大和三山で一番きれいな円錐形をしています。なんで大和三山のハイキングにつきあったかと言えば耳成山の頂上が山城跡なんです(笑)。最後に山城が待っているなんて素敵じゃないですか。

中大兄皇子と鎌足が密談した談山神社が有名ですが、平安末期頃から多武峰一帯に城が築かれて多武峰城塞群ができあがります。大和の国は僧兵(衆徒)をかかえた興福寺が支配し、守護がいない特異な地域でした。ところが衆徒(国人)の間で戦ったりする割には外部からの侵入があると一致団結したりします。

■天神山城
永正3年(1506年)に室町幕府に派遣された赤沢朝経が多武峰城塞群、龍王山城、二上山城にたてこもった大和衆を攻撃するために築いた陣城が天神山城です。頂上ちかくに耳成山口神社があり、ここから登っていくと城跡で
耳成山の頂上が主郭となり、周りを郭が取り囲んでいます。ハイキング客も多いのですが、城跡だと思ってみている人は一人もいませんね。