北山城

北山城

北山城1988年、奈良大学城郭研究会によって発見された城です。多武峰城塞群は御破裂山城を中心に広い範囲に城郭跡が拡がっており、北山城は下居出城の西側で見つかった城です。談山神社から談山城、御破裂山城を経由し、念踊堀地区の城郭群はスルーして北山城を目指します。

■北山城
北山城の縄張図の地図しかなかったため、これかいなとあたりをつけて山林道から近くの山を登りますが、はずれが2回続きます。なかなか疲れます。ようやく手力雄神社手前で山林道からはずれる山道を発見、進んでいくと目印になる石仏があります。この石仏の裏側から尾根沿いに小規模な郭が続きます。各郭の高低差が大きく、主郭にたどりつくまで、ほとんど登山です。主郭からは、いくつかもの尾根沿いに小規模な郭が続いており堀切もありました。

■大和永享の乱の舞台
北山城については奈良大学の千田先生がまとめた資料があり、それによると1438年(永享10)に起きた大和永享の乱で幕府軍に対抗するために越智氏と箸尾氏が倉橋陣で戦い敗れた記録があり、北山城は大和勢の詰めの城として機能していたようです。北山城からの帰りは山林道をずっと下っていくと倉橋に着きました。距離的には談山神社と倉橋との間ぐらいで、北山城へ行くには倉橋から登るより談山神社から降りる方が楽そうですね。

御破裂山城

御破裂山城

談山からさらに登っていくと多武峰の頂上となり御破裂山という名前になっています。

藤原鎌足の廟所があり天下に異変があると鳴動するといわれ御破裂山と言われています。ここも多武峰城塞群の一つで廟所が郭になっていて帯郭が巡っています。北側には堀切があり、また談山から登っていく途中にも堀切がありました。ここには展望台があり大和三山や二上山がよく見えます。

談山城

談山城

談山神社の横から山道を登って多武峰を目指します。雪中行軍になってしまいましたが、頂上の手前にあるのが談山(かたらいやま)。中大兄皇子と中臣鎌足が乙巳の変の密談をした場所ですが、こんな高い山まで飛鳥から登るんですかね。岡寺の裏あたりで十分のような気がします。

戦国時代、談山は山城でした。ただ砦のような出城だったようで主郭と帯郭で構成されたこじんまりとした城になっています。大和では

永享合戦 永享10、11(1437,1438)年 後南朝+越智+箸尾 VS 室町幕府
永正合戦 永正3(1506)年      越智+箸尾+十一 VS 赤沢朝経(細川政元)
永禄合戦 永禄2-6(1559-1563年)   十一 VS 松永久秀

と多武峰から飛鳥にかけて合戦が行われました。談山が砦になったのは永享合戦の頃のようです。

太田城

太田城

丸勘城から山裾を進んでいくと太田集落に城があります。尾根の先端に作られたなかなか規模の大きな城でした。事前に調べると太田城へ行くには王田神社を目指せと書いてあるんですが、神社への急な階段は崩落していて通行止めになっていました。脇に道があったので登っていくと、これが堀道になっていてようやく郭に到達。堀切で遮断された郭が続きます。王田神社も高台にあり出城になっているようです。

城を堪能した後に、近くに別の城があるということで池横をずっと進んでいきます。隣の尾根先の春日社にも城があり、郭が連続していました。春日社が主郭で一城別郭になっているようです。それにしても大きな城ですねえ。城主は地元の松井氏といわれていますが詳しいことは分かっていません。明智光秀の丹波攻略では光秀に従ったようで本能寺の変の後に帰農したようです。

丸勘城

丸勘城

亀岡市稗田野町鹿谷(ろくや)に丸勘城という平山城があります。別名を鹿谷城ともいいます。北面の武士だった竹岡氏が野武士となり、南北朝時代には丸勘城に移り住んだようです。八木城の南側を守る位置にあり明智光秀の丹波攻略で落城します。

丸ヶ条集落の小高い丘に築かれていて、とても分かりにくい民家の間の細道を登っていくと小さな祠があり、ここが郭になっています。虎口があり、ここから主郭に入ることができます。主郭はけっこうな広さで周りを帯郭が巡っていました。あまり技巧的ではなく、縄張りはわりと単純ですが、集落の中によく残っています。

井内城

井内城

湯の花温泉の峠を越えて今度は下っていきます。目指すは井内城です。城への行き方を事前に調べると372号線から小道に入ってしばらく行ったところに獣害防止フェンスの入口があると記載がありました。

着いてからいろいろと探しますが、なかなか見つかりません。ようやく見つけたのがビニールテープで結んだ簡易的な入口です。こりゃ、分かりませんでえ!とりあえずテープをはずして中に入り、もう一度結び治します。なんとかフェンスの中に入れましたが、その先はいきなり崖になっています。

■井内城
もともとの城の虎口は山の反対側にあり、こちらは一番高い主郭になっています。何とかよじ登り始めると竪堀に入れました。あとは竪堀に沿って登っていくと、主郭に到達します。主郭はなかなか広く、主格から4つの郭が連続していて、土塁や堀跡がしっかり残っていました。

今は藪だらけで外が見えませんが篠山街道を見張るには最適な城でした。もともとはこのあたりの豪族だった井内氏の居城だったようです。明智光秀による丹波攻めで天正6年に攻め落とされました。

大和谷城

大和谷城

「櫻の井」がある若桜神社ですが、ここが城跡になっています。桜井駅から近いので時間があると寄っています。社殿の周りを土塁が巡り特に西側の土塁が見事です。西側と南側には堀切もあり市街地で城跡が楽しめるのがいいですねえ。東側は神社への階段などがつくられているので、こちらの遺構は残っていません。谷氏という武士がいたようで、この谷氏の城といわれています。

下居出城

下居出城

中大兄皇子と鎌足が蘇我氏を倒す密談をしたのが談山神社。談い(かたらい)から談山と名づけられました。談山神社を中心に城が造られ多武峰城塞群と呼ばれています。まだ行けていなかった下居出城に登ってきました。多武峰城塞軍の最北端に位置します。

大和は興福寺が守護の代わりで大きな勢力はなく国衆通しで争っていました。そこに松永久秀が攻め込んでくるなど混沌とした状態です。長期にわたり明日香から多武峰一帯に城塞群が構築されました。下居出城は多武峰街道を倉橋から攻めてくる室町幕府軍に対抗した越智氏・箸尾氏のいずれかの城だったのでしょう。

多武峰街道から山の麓にある神明神社を目指します。神社裏からエッチラオッチラ直登すると尾根に到達しますので、ここから尾根を進んでいくと下居出城に着きます。実は神明神社前を通り過ぎて北に少し進むと山道があり、ここから尾根にとりつく方が楽ですね。帰りはこっちの道で戻ってきました。

下居出城は3つの堀切で遮断された郭があるのですが、見どころは三重に続く畝上竪堀です。見事に残っていました。

芦浦観音寺館

蘆浦観音寺館

草津市芦浦町に観音寺という古刹があり、秦河勝が創建したと伝わるので飛鳥時代ですね。ここが戦国時代に城へと変貌します。

東山道の守山宿から琵琶湖の志那港を結ぶ志那街道が寺の近くを通り、琵琶湖を通じた往来の要所になっていました。観音寺は室的幕府から船奉行に命じられ、以来、信長、秀吉、家康時代と100年以上も船管理にあたりました。江戸時代の貞享2年(1685年)に何でか知りませんが罷免されました。寺は江戸に移転させられ、寛永寺に明王院として存続しています。

寺といいながら水堀で囲まれ、門は桝形になっています。石垣が巡らされており堅固な造りになっています。

長束正家館跡

長束

長束正家ってご存じですか?

秀吉亡きあと、豊臣秀頼を支えた五奉行の一人で算術も得意で武功もある文武両道の武将です。忍城の戦いで副将として三成を助けますが、映画「のぼうの城」では忍城に軍使として遣わされ横柄な態度をとり成田長親は籠城することに決めることになります。まあ映画の話なので(笑)

関ヶ原の戦いでは西軍につきましたが毛利秀元、長宗我部盛親、吉川広家とともに南宮山に布陣しましたが、吉川広家が寝返り戦に参加できずに負けました。水口岡山城に戻りましたが切腹させられました。もともとは水口氏という名前でしたが長束村に移った時に、長束氏と名乗りました。草津市長束町には長束氏館跡があり、今も土塁の一部が残っていました。